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ひとり旅の空の下。

どうやら私は今、台湾に行きたいらしい。

YouTubeがそれを教えてくれた。よく観るメイク動画や、バカリズムや東京03のライブ動画に混じって、このところ、台湾の旅動画(「VLOG」というらしい)が流れてくるようになった。流れてきたら、観る。そうすると、また違う旅動画が流れてくる。また観る。だんだん、流れてくる動画に統一感が見え始めた。

だいたいが、「屋台グルメ旅」である。「胡椒餅」とか「麺線」とか、もち米で腸詰めを挟んだやつとか、そんな動画ばっかり観ている。しかも、それらの動画の多くが、なぜか「ひとり旅」なんである。

YouTubeすごいな。どうして私の嗜好がわかるんだろう。お察しの通りです。私は、有名店の高級グルメにはほとんど興味がない。現地にお住まいの皆さんが、普段食べているごはんが食べたい。そして、なにしろひとり旅が好きだ。そこには、若かりし頃の、ちょっとしたトラウマが絡んでいる。

たしか、高校生の頃だ。親しい友人グループと、大阪へ行ったときのこと。いろいろと調べ、観たいもの行きたい場所をすべてクリアし、さあ帰ろうとなった帰り道。新幹線が出る「新大阪」へ向かうはずが、なぜか私は「梅田」を目指してしまった。

「梅田」駅のホームに降り立ったとき、ようやく私はその間違いに気づいた。連れの友人は2〜3人いた。え、誰もおかしいって思わなかったの? そう尋ねると、彼女たちは言ったのだ。

「しーちゃんのことだから、もっといいところに連れてってくれるんだと思った」

ずどーーん!!と孤独を感じた。友だちと一緒なのに、道を間違えても、誰にも教えてもらえない旅。教えてもらえないまま、みんな黙ってついてきて、みんなで新幹線に遅れてしまう旅。

まっぴらだ、と思った。だったら私は、ひとりで旅がしたい。ひとり旅なら、道を間違えても、路頭に迷うのは私だけだ。

そこから先は、主にひとり旅である。大学の卒業旅行も、ひとりで沖縄へ行った。友だちと行くと、友だちとばかり話してしまうけど、ひとりだと、見知らぬ誰かの力を借りざるを得ない。タクシーの運転手さんからは沖縄の昔の話をたくさん聞いたし、石垣島の宿では全国から来たひとり旅人たちと泡盛を酌み交わした。みんなで商店街へ酒を買い足しに行き、みんなで浮かれて近藤真彦を熱唱。でも翌朝になると、みんなそれぞれの行き先へ散っていく。

あああ。書いていたらまた、ひとり旅に出たくなってきた。でも近年、私の中に、とある変化が起きている。

道順とか、電車の乗り換えとかを、調べるのが死ぬほどめんどくさい!!!

ひとり旅って、当然ながら、それらの物事は自分で調べるわけである。そして私は、生粋の方向音痴だ。道を歩いていて、建物に入って、中をぐるりと回ったら、来た方向がもうわからない。だからそれはそれは丹念に調べて、道に迷わないように、安全に帰れるように、いつも脳みそのどこかが緊張している。若いころは、その作業自体が楽しかった。でもこの歳になると、さすがに、

そういう旅に、疲れてしまったんだよう……

友だちと行動をともにして、一事が万事、コンセンサスを取りあいながら進む旅はつらい。でも、ひとりですべてを調べきる旅もめんどくさい。この歳になって出現した、でっかい自己矛盾。さて、どうしたものか。

たとえば、現地にある程度詳しくて、それでいて人との距離感が絶妙な相方。私が体験したいことを伝えると、効率のいい(なるべく歩きまわらなくて済む)行程を導き出してくれる相方。しかも、そういう作業が、好きでしかたない相方。「しーちゃんを楽しませるため」ではなく、本人がうきうきとそれをしているので、こちらは何の気後れもしなくていい相方。

そう、そこなのだ。私は人と旅をすると、「相手が楽しんでいるかどうか」がものすごく気になる。ましてや、私を楽しませるためにいろいろしてくれる人だったりすると、「その人に喜んでもらうために、私が常に楽しそうに振る舞わなければならない!」って思ってしまう。「そう思うことをやめればいいじゃん」とかじゃなくて、これはもう、生来の体質なんである。

責任感の、知覚過敏。

そういう責任感から開放された旅をしたい。となるとやっぱりひとり旅か。であれば、私が体験したいことを伝えると、効率のいい(なるべく歩きまわらなくて済む)工程を導き出し、それを紙に書いて渡してくれる人がいればいいんじゃないか。なるほど、それだったらひとりでも動けるぞ。いいな、いいねそれ。

そこで、はたと気づく。

……旅行会社に相談すればいいんじゃね?

だいたいのことは、お金でなんとかなるのだな。新型肺炎が去るまで、粛々と、働こうと思う。(2020/01/26)


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