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呪いとともに生きていく

先日始まったドラマ『コントが始まる』で、有村架純が演じているのが「バンドとかを好きになるたびに、ことごとく解散されちゃう女」だ。ほおおおお、とうなってしまった。なんて絶妙な不幸さかげん。きっと誰しも、思いあたるふしがかすかにある、その「かすか」さが実に絶妙である。

それを有村架純から聞かされた菅田将暉もまた、自分のコントトリオを解散させようとしている。だから彼は有村架純に、一生懸命言うのだ。あなたのそれは、偶然だと思いますよ。僕らの解散は10年前からの約束だったし、あなたは関係ないんです。

そう、はたから見たら、まるで関係がないのだ。でも本人にしてみたら、そうとしか思えない。そういう「呪い」が、誰しもあるんじゃないか。私の友人のそれは「物事を自分で判断してはいけない」であるらしい。よかれと思って行動すると、よくない結果を生み出すというのが、少なくとも彼自身の体感。お前が自分で判断したことは、ことごとくうまくいかないのだから、判断する前に必ず報告しなさいと、ほんの数名の人物にのみ叱責され続けながら、そして自分でもそう思い込みながら、40代を折り返そうとしている。

私のそれは「拒まれる」「はじき出される」だ。社会に出ようとしたら就職超氷河期だった。社会は自分を拒むのだ、が私の世界の大前提になった。何らかの居場所を得るたび、「ほんとうはみんな私にここにいてほしくないのに、仕方なくいさせてくれてる」と思っていた。ここにいて申し訳ない、ごめんなさいと思っていた。

だからどんな場所でも、のびのびとしていられたためしがない。自分が何かを果たせた、残せたという実感もない。すみません、ごめんなさいと、いつも車輪を空回りさせて、へらへらと笑いながら尽くして尽くして、汗だくのままでガス欠を起こす。

もはや四半世紀ほど前に植わったトラウマだ。いいかげん、そこから離れようぜ。何度も自分に言い聞かせるのだけれど、この実感はなかなか私から離れてくれない。昨夏から勤め始めた今の職場でも、この呪いは私を大いに翻弄した。新人指導担当の先輩が私は大好きだったのだけれど、彼女が担当をはずれたとたん、ものすごくよそよそしくなって、私はめちゃくちゃ動揺したのだ。目が合えば、そらされる。声をかけると、びくっ、とされる。何か面白いことがあると、私を飛ばして、向こう隣の先輩に話しかける。今では1日のうちに、言葉を交わすことはほとんどない。

彼女は私を、好いてくれてたから優しかったのではない。新人だったから、優しかったのだ。そんな、どこまでも当たり前すぎる事実を受け入れるのに、若干の時間を要した。ただ素直に、悲しかった。

でも、呪われ歴、四半世紀だ。ああいつもの呪いが発動してるな、ぐらいはわかるようになっている。払拭も、克服もできない自分のことを、実は、わりと嫌いじゃない。

全部呪いだとわかっているのに、払拭も克服もできない人生を生きてきた。よくぞ、よくぞここまで来たなあと思うのだ。払拭や克服ができちゃって、ラクになれちゃった人たちよりずっと、私たちは人の呪いに敏感だ。呪いの道を生きる同志を見たら、なんだろう、ちょっとだけ優しい気持ちになる。きつく当たられたり、上からものを言われたり、不当な扱いを受けたりするたびに、ああ、この人も何かに呪われてるのだなあと思う(ようにしている)。呪われて悲しくて、でもそれを認めたくなくて、行き場のない憤りがこぼれ出ちゃってるのだなあと思う。だって、私だって呪いの悲しみを、こぼれ出させちゃった覚えがあるから。こらえきれず、ダダ漏れさせちゃって、迎えた決裂がいくつもあるから。

腹を割ると、決裂を迎える。これも、私が苛まれている「呪い」のひとつだ。

もっと、大切に扱われたい。自分が自分であることを歓迎されたい。心からそう願っているのに、それが叶わないという経験を、ひとつ、またひとつと、重ねながら生きてきた。そしてこれからも、それを重ねながら生きていく。

それでも、生きることをやめないなんて。

呪いから逃げず、捨てずに、抱えたままで。失ったものを、失ったままに。傷を負ったまま、容赦なく押し寄せる今日や明日を、まず生きるほうを選び続ける私たち。

えらい。尊すぎるよ。私も、みんなも。今日も呪われているすべての人に、力いっぱいのハグを。(2021/04/21)


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