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インドア人間、焼き魚に憧れる。
筋金入りの、インドア人生である。
とにかくおうちが大好きだ。休みの日は、極力、うちから出たくない。朝起きたら、カーテンを開けて、まずテレビをつける。「あさイチ」を観ながら、うとうとと余裕の二度寝をキメて、番組が終わる頃にのそのそと起き出し、コーヒーを淹れ、「ノンストップ!」にチャンネルを替える。ベッドの上で壁にもたれて、ノートパソコンを膝の上で広げる。仕事をしたり、SNSを眺めたり、こうして文章を書いたりする。
11時が近くなると、TBSラジオをつける。大好きな「ジェーン・スー 生活は踊る」である。大好きなお悩み相談のコーナーがやってくる頃は、すでにお昼である。むふふ、と思う。昨日のうちに、大好きな冷凍餃子と、大好きなかに玉の素と、大好きなビールとワインを冷蔵庫に詰め込んである。テクニックなしで「羽根」がついてくれる画期的な冷凍餃子を、最高の焼き目がつくように細心の注意をはらいながら、焼く。かに玉も同様だ。
それらを並べて、意気揚々とビールかワインを開ける。むふ、むふふ、と笑いがこみあげる。ラジオは大好きな「たまむすび」。平日の休日はだいたい水曜日なので、パートナーは博多大吉先生だ。
「たまむすび」が終わる頃、今度はテレビのチャンネルをテレビ朝日に合わせる。「科捜研の女」とか「相棒」とか、あのへんの刑事ドラマの再放送枠である。再放送で観る「相棒」は、どうしてこんなに面白いんだろう。本放送はまったく観ることがないのに、再放送は観てしまう。ストーリーが最後まですっかりわかっていてもだ。
「相棒」が終わると、満を持してTOKYO MX「5時に夢中!」である。冬場は、すでに外は真っ暗である。ああ、1日が終わったな、と思う。ちょっと前までは、「またやっちまった……」って1日を悔いていたけれど、最近はそういう気持ちにならなくなった。
これが、私の、最高の休日。
思えば小さい頃から、私はインドアな子どもだった。「お外で遊んでらっしゃい」って言われても、どうしたらいいのかわからなかった。私はちょっと遠くの私立の小学校へ通っていたので、近所の子どもたちとは馴染みがなかった。たまに遊びに混ぜてもらえても、あてもなくそこらを駆けずり回ることや、「オニ」とやらになって誰かを追いかけ回すことの、いったい何が面白いのかわからない。
それでいて、アウトドアへの憧れも、いっぱしにあった。誰にも言ったことがないけれど、なぜか「川で獲った魚を串刺しにして、焚き火で焼いて食べる」ことにのみ、とても局地的に憧れた。憧れすぎて、自分の部屋で、ひとりでそれ「ごっこ」をやった。手のひらからつるつると滑り落ちる魚たちを、やっとの思いでつかみ上げ、割り箸をその身に突き刺す(つもり)。それを焚き火にくべて、焼けるのを待つ(つもり)。焼けたら、えいやと、かぶりつく(つもり)。
それを、人目につかない場所に隠れて繰り返した。そんな憧れがあることを、親に知られちゃ絶対にいけないって、なぜか思いこんでいた。知られたら、きっと困らせてしまう、と思っていた。
だから、いつかおとなになって、憧れが実現する日のための、それは予行演習のつもりだった。おとなになれば、憧れは何でも、実現するのだと思っていた。そう、おとなにさえ、なれば。
小さな私の焼き魚計画は、45歳を過ぎた現時点でもまだ、実現したことがない。だって、筋金入りのインドア人間に育っちゃったから。夏の暑い盛りに、焼け付くような屋外で、わざわざ火をたいて、わざわざ煙にまかれながら魚を食らう——うーーん、ちょっと、パス。いつか、もっと元気なときにね。
こうやって私たちは、小さい頃には手の中にあった可能性たちを、ある意味、捨てながら生きている。
でも、また、拾うことも、できる。
それは、今日かもしれない。明日かもしれない。「焼き魚に憧れていた自分」を思い出したのも、ついさっき、この文章を書き始めてからだ。私が知らないうちに「捨てた」ものたちに、再会する日がきっとくる。そのときのために、身も心も、元気でいないとね。(2019/12/18)
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