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幸福な「旅ごっこ」の記録

ほんとうは、箱根でふやけるはずだったのだ。

豪華絢爛非日常旅ではなく、身体を休めるために、「保養」とか「養生」を主軸に据えた宿で質素旅。食事はほどよく菜食主義で、湯に浸かりたいときに浸かり、あがりたいときにあがる。誰に気兼ねすることもなく、思うままに、湯と部屋を存分に往復する。

そんな幸福なひとり旅を数日後に控えたある日、東京の感染者数が500人を超えた。

あのウイルスとも長い付き合いになった。今ではみんな、それぞれの持論を掲げて、あのウイルスと向き合っている。「今すぐGoToをやめろ!」という者がいて、「各自が感染対策を徹底していれば何も我慢する必要はない」という者もいる。私は……どうだろうな、どちらかというと、臆病型なんだろうな。

「各自が感染対策を徹底していれば何も我慢する必要はない」にはおおむね同意である。でもそこには「自分がすでにかかっていた場合」が考慮されていない。東京で、会社勤めをしている私は、日々、電車の手すりに触り、満員電車で知らない人たちと超至近距離で呼吸している。今日、ついさっき、それを受け取っちゃったかもしれない。そうでないとは誰も言えない。

そういう、うっすらした緊張感、うっすらした罪悪感が、私に箱根行きを踏みとどまらせた。決して豪奢じゃない、素朴なお宿だ。三連休に都内からわんさか人が押し寄せることが、心から喜ばしいはずがない。なにしろ、私が嫌なんである。「来ちゃってすみません」を胸に飼いながら、ごろんちょ、のびのび、できるほどの心臓を持ち合わせていない。

意を決して電話をかけて、おねーさんに告げる。予約したのはひと月以上前のこと。この日のために私は今日まで生きてきた。けれど、変なものをそちらに持ち込みたくない。心の片側でごめんなさいって思いながら、もう片側でくつろぐことが私にはできない。キャンセルさせてください。ごめんなさい。

そしたら電話の向こうのおねーさんは言ったのだ。「私どものことを、そんなにまで考えてくださって、ほんとうにありがとうございます」。

こんなときですからね、恐ろしくなってしまいますよね。そういうお声があることは、私どもも承知しております。今回は、理由が理由でございますから、キャンセル料はいただきません。どうか、お身体、お気をつけてくださいね。すべて落ち着いたら、元気に、お越しくださいね……!

ちょっと泣いてしまいそうになった。私は、あのウイルスのおかげで、こんなにまいっているのかと思った。引きこもりライフが称賛されて、めっちゃ生きやすくなったと思っていたのに。

電話を切って、むっちゃ悔しくなった。屈してたまるか。楽しんでやる。この連休、是が非でも楽しんでやる……!

……そうしてたどりついたのが、この宿だ。「由縁 新宿」さん。新宿に去年できた温泉宿。温泉旅が叶わないのなら、温泉旅「ごっこ」を大いに楽しんでやろうじゃないの。「一休.com」さんで「GoTo」予約。クーポンも2000円分ついてきた。宿の向かいのセブンイレブンで、酒やつまみを調達して、いざ。

チェックインは、ちょっと並んだ。似たようなことを考えたのであろうおひとりさま女子が目立つ。もろもろ確認し、木でできたカードキーを受け取り、エレベーターを降りて自分の部屋を探す。……このとき、熱い何かがあふれてきた。

懐かしい、なんて愛しい感情だろう。完全アウェイ、よその土地なのに、私が帰るべき部屋がここにあるという喜び。部屋はすぐに見つかって、私はカードキーをかざしてドアを開ける。

ひゃああ!って声が出た。いや、とりたてて広い部屋ではない。床が畳のビジネスホテル、みたいな感じである。それなのに胸はずんどこずんどこ踊っている。明日の朝までは、ここは私だけの部屋、私だけのおふとん!!

さっそく浴衣に着替えながら、テレビをつけてみる。小一時間前まで自宅で見ていたテレビである。なのに、なんだろう、いつもより面白く見える。言わば、旅先のローカル番組感。ああ、なんか観ちゃう。「歴史秘話ヒストリア」になぜかバカリズムが出ている。

バカリズムを見終わって、フロントでもらったQRコードをチェック。お風呂場の混雑状況がわかるようになっていて、「空きあり」って書いてあったので、勇んで乗り込む。

最上階(18階)にある、内風呂と露天風呂。天気はあいにくだったけれど、幸い、貸し切り状態だ。薄墨色の空が、だんだん色濃く、重くなっていって、ビルの明かりがどんどん映えてくる。やがていわゆる「夜景」になるまでのグラデーションを、露天風呂でふやけながら過ごした。

風呂場を出るとそこはラウンジになっていて、無料のアイスキャンディーが取り放題だ。それを片手に、新宿の夜景を見下ろす。小さなグラウンドでフットサルしている人たちが見える。ドリブル、パス、シュート。淡々と繰り返されるそれらを、みかん味のアイスキャンディーをくわえながら眺める。

部屋に帰って、日本シリーズを観る。ジャイアンツ、こてんぱんである。コンビニで調達した缶ビールとレモンサワーが、あっという間に胃へ消えて驚く。ちょっと身体が冷めてきたな、と思ったら、またお風呂場に行く。熱すぎず、ずっと入っていられる感じのお湯である。

「風呂に浸かる」も「部屋でごろごろする」も、自宅でできる行為ではある。でもぜんぜん違う。こんなに気分が違う。エレベーターを降りて、部屋に向かいながら、またしても、むふふとほくそ笑む。

朝。館内のレストランに朝定食が用意されている。私と同じように、浴衣姿のお客さんたちがそれぞれごはんに食らいついている。ああ、旅だ!と思う。私と同世代の女性と、そのお母さんらしき二人連れを見かける。ああ、親を連れてくるのもいい選択肢だなあ。

ちょっと早めに身支度して、宿を出る。出たら、いつもの新宿である。いつもの電車に乗って、いつもの道を歩き、自宅に戻る。所要時間40分。不思議な気分である。なんたらトリップとか、なんたらスリップをしたみたいだ。

そして今、書きながら思い出した。朝飲もうと思ってコンビニで買ったバナナジュースを、部屋の冷蔵庫に置いてきてしまった。わーーん。やってもーたーーー。オチがついたところで、旅の覚え書き、これにておしまい!(2020/11/25)

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