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「好き」の第三者であること

 私は、「なにかを熱烈に愛してる人」にめっぽう弱い。

 たとえば演劇を作る人たちに、その思いを聞いて文字にしていた頃がそうだ。映画の学校の事務員さんを、務めていた2年間もそうだ。忘れもしない、その学校に新しい試写室ができたばかりの夜。誰もいないその空間で、映写スタッフ陣が私の知らないアクション映画をガンガンに上映して、悦に入っていたときのこと。その、悦に入っている人たちの後ろ姿が、なんだか妙に離れがたくて、私はそこに居座り続け、あげく終電を逃したのだ。

 私自身が、なにものかを主体的に愛しているのではなく。「なにものかを主体的に愛している誰か」のことが好きなのだ。そういう誰かについてまわって、にまにまするのが私の性癖。ずっとずっと、そういう歴史だった。

 思い返すのは数年前、舞浜方面にある、某ねずみ王国でのできごとだ。それまでおそらく20年以上はご無沙汰だったその地で、完璧に作り上げられた異国情緒の中、のんびりとビールを飲んでみたい。そんな妄想をSNSで投げかけたところ、生粋のねずみ王国マニアが、同行者としてまっしぐらに手を挙げてくれた。

 ねずみ王国のすみずみまで、詳しく知りまくりの女子だった。ねずみ王国を熱烈に「好き」な人を案内役にするなんて、最高の道行きであることを私は確信した。舞浜駅で合流すると彼女はすでに、「しーちゃんに観せたいもの」を綿密にリストアップしてくれていた。彼女は意気揚々と言う。

 このショータイムがここで○時○分に始まるから、10分前には着いていたいので、そのためには●時●分にここを出ないと!!

 彼女はちびっ子連れだった。ベビーカーをかっ飛ばして彼女は先を駆けてゆく。よりによって、雨が降り出す。ちびっ子が濡れないように、傘を掲げて私も走る。

 もちろん行ってよかったし、すごく濃密な旅だったけれど、汗みどろになりながらこのとき、思い至ってしまったこと。

 「好き」の当事者の皆さんの愛情に、私のような第三者が、横から乗っかるのってちょっと、どうなんだろう……?

 これって、「好き」のカツアゲじゃないか……??

 今まで仕事もプライベートも、いわゆるフリーランスで生きてきて、ひとつの居場所に収まったためしがない。どの居場所も、やがてはじき出されるか、あるいは自分が飽きてしまうかのどちらかだった。演劇のインタビューライターも、映画学校の事務員さんも、務めきることができずに今ここにいる。

 その理由について、ついに合点がいった気がした。そりゃあ、続かないわ。だって私は、「好き」の当事者じゃないもの。第三者なんだもの。

 もう、人の「好き」に乗っかるのはやめよう。私の主体的な「好き」を探そう。私の中から「好き」が湧き上がるのを待とう。

 そう心に決めてから、かれこれ2〜3年が経つ。「それ」はなかなか湧き上がってこない。注意深く待つ日々。

 ……そこへやってきた、WBCだった。ワールド・ベースボール・クラシック。

 オリンピックとか、ワールドカップとかのたびに、心を占めるのはいつだって「うらやましい」である。選手に対してではない、観衆に対してだ。とんでもないパフォーマンスをして、カメラのフラッシュの真ん中で微笑む選手たちの、ここまでの変遷を私は知らない。もしそれを知っていたら、この輝かしい場面はどんなに感慨を増すだろう。どんなに面白みを増すだろう。

 そう、面白みの種はいつだって「変遷」である。M-1グランプリが面白いのも、そこまでの彼らの「変遷」が全面的に開示されているからだ。これまでの出場歴。その成績。どういう持ち味のふたりが、どういうタイプの漫才を、どんな現場で積み重ねてきたのか。どんな「変遷」が今日の漫才につながっているのか、そのグラデーションを私は観たい。

 WBCで伝わってきたのも、それだったように思う。流行語大賞の座に収まりながら、思わぬ不振にあえいでいたあの人や、「勝ち」に対してこんなに貪欲なのに、所属チームではそれに恵まれずにいる大スター。プロ野球を観ない私でもかろうじて知っている、そういう人たちの集合体が、闘志と信念をむき出しにして、球場いっぱいに跳ねまわっていた。

 ニュース番組を見れば現地で、あるいは選手たちの地元で、試合経過に一喜一憂するファンたちの姿が映し出される。知らない者どうしが手を取り合い、お互いにエールを送りあったりしている。

 「野球」を、熱烈に、愛している皆さん。
 選手も観衆も、私の性癖ど真ん中である。

 ああ、好きだ。「野球が」ではなく、あなたたちのことが私は好きだ。こういうときに「みんな盛り上がってるけどアタシ乗れなーい」とか「野球なんてなにが面白いのー?」みたいに、みんなと違う態度を取ることを「個性」と勘違いしていた季節もかつてあったけど、今はまっすぐに思う。「好き」に揉まれてきりきり舞いしている、あなたたちこそが美しい。

 私の人生は、このままなんだろうか。誰かの「好き」をうらやみつつ、横から乗っかることも自分に禁じながら、こうやってそーっと、そーーーっと生きてくんだろうか。

 ……。

 …………。

 ここで、私の思考は止まる。この「……」の意味を、ここ数日ずっと考えている。「好き」の当事者になりたい気持ちはある。でも、当事者になりきれない私のことも、私は嫌いじゃなかったりする。

 WBCに底知れずわくわくした私は、しかし「野球が好き」になりたいんじゃない。「野球が好き」なあなたが好き、なのだ。いつ、どうやって、どんなふうに「好き」になったのか。あなたにはそれがどう見えていて、どんな光を放っているのか。それが知りたい。ただ、それが知りたいのだ。

 実家に帰れば、いつの間にか巨人ファンだった母がいる。付き合いは50年近くに及ぶのに、彼女がそうなったきっかけも過程も、私はまるで知らない。まずはそれを、人知れず紐解いてみたいなと思うのだ。(2023/03/24)

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