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入れてあげればよかった。

今も忘れられない、恋がある。

真夜中。帰宅して、アパートの外階段をあがろうとしたら、そのど真ん中にその子はいた。小さい小さい子猫だった。思わず、歩みが止まる。こっちを、じっと見ている。うひゃあああ、かわええーーーとつぶやきながら近づく。ゆっくり手を伸ばすと、すりすり、と自分の身体を押し付けてくる。ひえーーー、かわええーーー、とまた声が出る。すると、私の歩みに先んじるように、その子も階段をあがっていった。

子猫の3歩後ろをついていく形ですすむと、すたすたすた、と子猫もすすむ。そして、まるで知っていたかのように、私の部屋のドアの前で止まった。

中に、入りたそうにしている。若かった私は、困り果てた。まず、猫を飼ったことがない。つまり、猫を自分のテリトリーに入れたことが一度もない。ちょっと中に入れて、撫でさせてもらうくらい、いいじゃないかと今なら思うが、その頃の私はなんというか、少しのあやまちもおかすことはできない、おかしてはいけないのだと信じていた。中に入れて、うれしくて、うれションのひとつもされてしまったら、私はもう、どうしたらいいのかわからない。

ほんの少しだけ、ドアを開ける。猫が入り込まないように注意深く。そして自分の身だけを、中へすべりこませる。ドア際で猫が私を見上げている。ごめん、ごめんね、とドアを閉めた。

そのことが、今になっても、思い出されるのだ。私の人生、ずっとそうだった気がする。そうやって、潔癖なまでに失敗を恐れて、いつ何をしでかすかわからない他者を、避けて避けて生きてきちゃったんじゃないか。だから今、こうして、寄り添う人も犬も猫もうさぎもいないまま、ひとりで生きているんじゃないか。

ひとりの生活は、手放し難く好きだ。休日の真っ昼間の白ワイン。突然思い立って出かける温泉施設。相手の様子を気にする必要のないひとり旅。のびのび、しみじみと幸福である。けれど、大多数の人が通過してきたはずの「他者と暮らす」という関門が、私の人生に一向に訪れないのは、なにか、私に欠陥でもあるのかなと思ってしまう季節が、正直なところ、まったく無くは無かった。

そのたびに、あの子猫を思い出す。あのとき、あの子を家の中に入れていたら、なにかが変わっていただろうか。あれ以来、愛しいなにかが私の帰りを待っていてくれたことはない。(2020/02/08)

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