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ユメのない人生、ばんざい。

こんなにも全面的に正論扱いされている、つまり誰も信じて疑わないフレーズって、ほかにないんじゃないかと思う。

「夢を持って生きよう♪」
「何かひとつ、好きなことをみつけなさい♪」

すべての人が、幼い頃から、いろんな局面で、これを言われたおして生きていると思う。最初の洗礼は「おおきくなったら何になりたい?」だ。すべてのコドモがかならず、かなっっっっらず聞かれる質問。

幼かった私には、その答えがさっぱりわからなかった。ケーキ屋さんとか、お花屋さんとか、いろいろ挙げてみても全然ピンとこない。でもこの「ピンとこなさ加減」を説明する語彙力がなかった。困った私は、「大人が納得する答え」を探した。当時の私は、作文をほめられることが多かったので、「童話作家になりたい」って答えてみた。親も先生もみんな納得した。ああよかった、と胸をなでおろした。

そうか、私は童話作家になりたいんだ。ふうん。そうだったんだー。

大きくなって、人に話を聞いてそれを書く仕事に就いた。いい仕事に出会ってしまった!と思った。書くのは「人から聞いた話」なわけだから、言質の全責任を引き受ける必要がない。それでいて、「自分が見たその人の姿」を伝える仕事なわけだから、ある程度の自己顕示欲を満たすことができる。この、宙ぶらりんな、オイシイとこどりみたいな仕事を続けていたら、あるとき、鮮やかなまでにツケを食らった。

仕事が、来なくなったのだ。

ひまですよー、と知り合いの編集者に言いふらしてもダメ。知らない媒体に過去作を持ち込んでみてもダメ。数少ないお得意さま雑誌は、続けざまに廃刊か休刊。遠い昔、見事に全滅した就職活動のトラウマがよみがえる。

……そっか、私が「聞いて書く」ことが、もう誰にも求められてないんだ。

それだけのことだ。それだけのことに気づくのに、ほんと、ものすごく時間がかかった。

「しーちゃんは、インタビューに出会えて、よかったねー」
「私なんか、そんなに熱中できることなんて何にもないよー」

昔から、とてもよく言われた言葉である。でも、果たしてほんとうにそうだろうか。

私がほんとうに「インタビュー」だけを愛してやまない人間だったら。「インタビュー」そのものに喜びを感じる人間だったら。昨日だって今日だって、そのへんで誰かをつかまえて、立ち話でもいいから、手当り次第にインタビューしてると思うのだ。

でも、昨日も今日も、私はそんなことをしていない。近所の温泉施設でふやけたり、自宅で冷えた白ワインを空けたりしていた。

「インタビュー」は、大好きだ。
でも、誰にも求められていない。

こんなに哀しいシロモノを、「夢」として掲げるなんて私には無理だ。

「夢を持って生きよう♪」
「何かひとつ、好きなことをみつけなさい♪」

コドモにそんな言葉をかけているオトナがいるなら、ぺんぺん、ってほっぺたを張りたい。コドモのでっかい人生を、「夢」なんてちっぽけな一文字に閉じ込めてしまってはいけない。その「夢」が叶おうが、やぶれようが、その先も人生は続く。いや、その先の人生のほうが、ずっとずっと長いのだ。

「夢」のある者は、ボールを選ぶ。「このコースで飛んできたボールだけを狙おう」とか平気でほざく。「夢」のない者は、どんなコースで飛んできたボールも、まずは打とうとする。デッドボール食らって、青アザだらけで重ねていく人生の、なんと豊かなことか。

「やりたいことが、みつからないんです」
「将来の夢ってよく聞かれるけど、意味がわからない」

老いも若きも、多くの人が、こんな悩みを生きている。「夢のない自分の人生はダメだ」と、肩を落としている。なんだ、この宗教じみた「夢」信仰は。「持ってない」ことで引け目を感じるなんて、ほんとに令和の人生訓だろうか。夢やぶれたおばちゃんは、胸を張って言うぞ。「夢」のない君、いいぞ、その調子。打てる球を、全部打ちに行け。君の可能性は、宇宙規模だ。(2020/01/13)

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