見出し画像

履歴書が、おもしろかったよ。

生まれた時点で、過酷な人生は決まっていた。第二次ベビーブームのピーク世代。ありとあらゆる試験が、試練が、とんでもない競争率とともに襲い来る。クラスの人数もめちゃ多い。だから大人の目はすみずみまで行き届かない。だいたいのことについて、「その他大勢」として生きていく。そんな術を、折々に握りしめながら生きてきた。

そんなふうだから、そもそも高望みをしない。飛び抜けたことをして褒めてもらおうとか、抜きん出たことをして拍手をもらおうとか、最初からあんまり思わない。小学生の頃だったろうか、「女子大生ブーム」っていうのがやってきた。コドモは観ちゃダメな時間帯のテレビ番組で、おねーさんたちがきゃいきゃい騒いでちやほやされながら一時代を築いていた。すごいなあ「ジョシダイセイ」。楽しそうだなあー。

時が過ぎて、私も「ジョシダイセイ」になった。そのとたん、世は「女子高生ブーム」に沸いた。誰もこっちを向いていない。しかも私は「女子」であることをうまく扱えない「女子」だったので、「きゃいきゃい」とも「ちやほや」とも縁遠いまま、就職活動に突入した。そこへ訪れたのが「就職超氷河期」だ。私と同い年の女子たちばかりが、「内定」からはじき出された季節。

ただでさえ、同い年の人間は大勢いるのだ。なのに、「その他大勢」のままでは食い扶持にあぶれる事態がやってきた。わけがわからなかった。だって「その他大勢」でいることが得策だと思い知りながら生きてきたのだ。どんな局面にあっても「その他大勢」でいさえすれば、身の安全は保証されていたのだ。

飛び抜けたことも、抜きん出たこともできないし持ってない私は、競争率の高そうな大企業は、はなっから希望からはずしていた。それでも、私はこぼれ落ち続けた。こんなに落ちるもんかね、っていうくらい、こぼれ落ちた。これはいまだにちょっとしたトラウマだ。

大人は、社会は、私を拒む。それが私の「社会」の原風景になった。

かろうじて、社長面接にまでたどり着いた会社がひとつだけあった。想定される質問に対する答えを、私は磨きに磨き抜いた。そしてその日を迎え、私はそれを流麗にうたいあげ、最後、社長が私に言ったのだ。

「君は、ほんとうに就職したいのかな?」

一瞬、答えに詰まった。「その会社の志望動機」は考え抜いてきたけれど、「そもそも就職がしたいのかどうか」は考えたことがなかったからだ。大学3年生になったら、就職活動をするものだと思っていた。「しない」という道があるなんて考えてもみなかった。え、就職、したいです。したいですよ。だって、それが普通なんだから。

「さっきから君の言うことは、練られているなあと思ったし、よく考えてきたんでしょう。でも君はほんとうに、うちの会社で働きたいと思っているのかな。君がさっき褒めてくれた人事部のスタッフも、そりゃあ会社の窓口になる人たちなんだから、こっちもいい人を揃えるに決まってるよね。君のその素直さが、僕にはとても危うく見えるよ」

反論はしなかった。こういうときにあがくという選択肢が、私の辞書にはない。

「履歴書も読んだよ。おもしろいんだよ、君の履歴書。君は、ものを書くとか、そういう方向へ進んだほうがいいんじゃないかなあ」

この就職活動で、唯一もらった褒め言葉だった。履歴書が、おもしろい? 履歴書が、おもしろいって何??

私の就職活動の記憶は、そこでぷっつり途切れている。そこから半年間実家で「プー」をやって、たまたま愛読していた演劇雑誌がアルバイトを募集していたのでそこに潜り込んだ。そこから、「ものを書く」仕事に流れ着いて、今がある。

今思えば、あの頃の私はちっとも、就職なんかしたくなかった。その会社から仮に内定をもらっていたらと想像すると、思わずホッと胸をなでおろすほどに。そんなこともわからなくなるほど、私はあの頃、「その他大勢」であり続けることに必死だった。

現在、46歳。独身、フリーライター。みんなと同じ年頃でケッコンすることや、みんなと同じ水準の収入を得ることとは、まるで反対側を生きてきた。気がついたら46歳だった。ほんとびっくりする。

あの頃思い描いていた「その他大勢」からもこぼれ落ちた「その他大勢」を今、私は生きている。将来や老後のことは、恐ろしすぎて考えられない。けれど私は言い切ろうと思う。私は、こういうふうにしか、生きてこられなかった。そしてこの道の始点を掘り返せば、そこにあるのは、どう考えても、あの日の社長のひと言なのである。(2019/12/08)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?