ウェスト・サイド・ストーリー

スピルバーグはモノや事の動かし方は上手だが、
繊細な人の気持ちの動きを撮る事に興味はなさそうというのは本作でも変わりはなかった。

という事と、

何故、旧作がセリフで語るべきシーンも唄いまくったのか、
なんとなく意味がわかった。


具体的には、
マリアの部屋内での、人物の動かし方、気持ちの動き方。
そうするなら、
オマエが歌うんかい的に唄わせる方がまだマシ。

今、ここでそれを言う?
この状況でその言葉はないでしょう等々。

もう一点は、
前提がミュージカルなんだから、そこは頑張って差別を語るよりは、唄ってとんがった部分を丸くして観客にみせようとしたワイズの方が難しい命題に正面から向き合っている感が出ていたような気がする。

JETS、SHARKSのような架空のシンボルを汚すようなエンタメでの括り方と、
リアルな国旗を汚すことのみせ方、括り方に、ああやっぱりスピルバーグだなと。

国旗を汚す別のアイデアがあったなら、よかったかも。

毎回、他のメディアでも繰り返し話してるので割愛。

旧作は、リアリズムに、
フィクションというフィルターと、ミュージカルというフィルターを二重に入れてる感(再見しないと微妙かも)があったので、人種や階層の差別感が残酷なシーンもありながら、全体的には牧歌的雰囲気に包まれていた(ような記憶が、、、)。

本作は、音楽を入れない部分で、人種を語ったり、国旗を汚したり、ミュージカルの世界観でそれをガチでやろうとするなら、更なるアイデアが欲しいし、ミュージカルを楽しみたい人にとっては中途半端で賛否が出そうな気がした。

唄うなら全部唄わせた方がいいのでは。

そして、あのシークエンスだけは、歌わないで、力強くセリフだけで綴じる・・・・。

シェイクスピアは織田信長と同世代。

当時のストーリー構成と、
今の物語の構築の仕方も、
要一考だった?

一考したからこそ、
スピルバーグなりのガチのやり方は、若い人のラブ&バイオレンスの剥き出し感に関しては、旧作よりは出せていたような気もする。

バーンスタインやジェローム・ロビンス、
何より、
スタジオ撮影の作られた世界観の中で作られるミュージカルを路上に引きずり出して、
リアリズムのミュージカルへのコペルニクス的エポックを成功させたワイズへのリスペクトをちゃんと形にしていたのもスピルバーグならではだし、
(このエポックを等価で感じ取っているのは、ヤヌス・カミンスキーだけかもしれない、、、)
分断が世界中に蔓延る世の中に、何をすればいいか?
そうだ!
この作品をリメイク しよう!
という意志はすばらしい!

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