見出し画像

雲雀

昨夜坂本龍一が亡くなったことを知った。
もう長い間ガンで闘病(この言葉が適切かは分からないが)しながらの音楽活動だったことも知っていた。

ある時彼が担当した映画のサントラを聴いてその和音のキツさに病の影響を感じた。気のせいかもしれないが。身体の踏ん張りが効いていない、そんな感じを受けたことを覚えてる。

その後も病状がどのように推移していったかなどは詳しく知らないが作品を世に出し時折メディアで本人の姿を見ることもあった。

遺作となった「12」やその一つ前の「async」も発売を知るとすぐに購入した。

どちらにおいても自分の死期を悟りながら作られたであろう雰囲気の美しい曲が並んでいた。「12」においては特にそれを感じた。美しいが突っぱねる感じがなく優しく冷たくも温かみを感じるタッチで弾かれたピアノの曲にはタイトルではなく日付が並んでいた。

その前の「async」でも暗く厳かな曲や時に暴力的とも呼べる曲もあったが何というかあまり以前感じたような「キツさ」を感じなかった。

彼の中で「病」に対してどう認識が変化していったかは分からないが多くの人は病を自分と対立するもの、克服するもの、駆逐するもの。といったものとして捉えているのではないだろうか。現代医学においての治療の在り方にもそうした考えは揺るぎなくあるような気がする。

坂本龍一の中で自分の病やガンに対してどう認識が変化していったかは分からないと書いたがすくなくともある時から彼は病を生に対立するものとしては考えていなかったのではないかと思った。あるいは諦念なのかもしれないが。

雲雀(ひばり)と書いた。
坂本龍一の曲に「Hibari」という曲があり僕はとてもこの曲が好きで仕事で施術をする際にも良く流している。

この曲は最近のアルバムではなく少なくとも10年以上は前の「out of noize」というアルバムの冒頭の一曲だ。

僕はある時からこの曲を夏目漱石の草枕という小説のこれもほとんど冒頭に出てくる場面で主人公が人里離れた山奥で雲雀の鳴き声を聴いてるところの描写と重ねて合わせるように聴くようになってた。

その描写の一部。

「雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、只声だけが空の裡に残るのかも知れない。」

重ね合わせて聴くというよりも坂本龍一はきっとこれを読んでこの場面からインスピレーションを受けて作曲したに違いないと今では思っていて勝手に確信している。

彼は今生の喧騒や騒音から離れた。彼のシンプルで美しいピアノフレーズのループが僕の部屋に流れている。開けた窓からは風が入り薄い色の青空と雲が見える。時折明るい陽が隣の家の屋根に注いでいる。現在2023年の4月3日午前の終わり頃。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?