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それと似た何か

今朝は朝陽がとても柔らかくて綺麗だった。

ここ最近夜はお酒を飲んで酔ってそのまま寝てしまうのでダラダラとした夜更かしにはならずむしろ普段からすれば早寝なので今朝も一度6時半に目が覚め7時を回ったところで起きて水を入れた薬罐に火をつけつつお風呂を溜めた。

数日前高田馬場の書店でたまたま見かけた女性精神科医の書いた本を読みながらお湯に浸かった。この分野はそれなりに興味があるがはじめて聞く名前の方の本だ。

色々あって(ないのかもしれない)ここのところ精神的なコンディションがかなり低いところにある。

こうしたことは周期的に訪れるし毎年大体決まった季節にそうなることが多い。

それはそうとして不思議とそんな決して良いとは言えないコンディションの中において自分の心が日に日に落ち着いていくのを感じている。何か瞑想がうまくいってる時のような。かすかなフロー状態を常に伴った感覚のような。

身体があったまり本に飽きたのでシャワーで身体を流していると妙に自分の肌が生々しく感じられた。「生きてるんだな」と思った。言葉にすると極めて陳腐だがそんなような感覚だった。いつもより肌理が細かく濡れた肌が自分の身体なのにもかかわらず官能的ですらあった。

身体を拭いていると不意に「しあわせだな」と思った。いや思ったのではなく感じた。

何か過去と呼ばれるものが手の届かない場所にあるのではなく少し離れてはいるが電車に乗って2.3個離れた駅に行けるのと同じように普通のこととして今も変わらずある気がした。そしてこの感覚としあわせが関係しているようにも思ったが深くは考えなかった。

とここまでお風呂から出ていつもより1時間早く起きたことをいいことにこの文章を書いていたがそれなりに良い時間になってることに気づき部屋の掃除をすることにした。

キッチンで昨日の食器を洗っていると今度は「自由だな」と思った。これは感じたというよりは思った。それは徹底的な無力感とも呼べる感覚を伴うものだった。

ここ最近いくつかある普通ならば片付けなければいけない「問題」に手をつけず「放置」している。
その問題にはもちろん他者が関わっておりアクションを起こさないことは「無責任」だとも言えるがそうしておくことしか出来ない、というかそうすることだけが唯一自然で何か流れに逆らわないなめらかな行いのように感じられた。ちなみに放置するということも一つのアクションであることには変わりないがそんなことは今はどうでもいい。

無力であること。それは力を行使して物事に対して何も影響を与えることができない状態だとも言える。
何かに対して力を行使すればそれは必ず巡り巡って自分の元へ帰ってくる。因果応報と呼ばれたりする。
かりそめかもしれないがキッチンで洗い物をしてる時に感じた自由(ここで今感じた、と書いたがやっぱり思ったのではなく感じたのだろうか)は何故か一瞬自分がこの因果の流れの外側にいるような気がしたからかもしれない。

何でも自分の思い通りになる時に人は自由を感じるだろうか。今朝感じた自由は何一つ自分の思い通りにはならないという無力な状態においてだった気がする。

通常の時であれば問題を放置することによってそれに関わる他者が不利益を被ったり感情が不安定になることを考え申し訳ないとか迷惑をかけていると言った気持ちになり(そもそも自分にも不利益があるだろう)何かしらリアクションを起こすのだが今回は無責任にもそれは自分の課題ではないのだと何故か落ち着いた心持ちになってきている。

言葉にしていくうちに矛盾があらわれてくるし
言葉にすることによって表現しようと思っていた当のものから遠ざかっていく。

ここで書くことをやめてもう一度今朝感じたしあわせや自由を感じようとしてみたがもうそれらはどこにもなかった。

結局のところ後から「それと似た何か」を見つけるだけだった。

#記録 #早起き #自由 #しあわせ

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