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ミャンマー〜タイの旅(1) 現地集合

大学4年生の夏、学生最後の夏休み、ミャンマーとタイに行った。
中国シルクロードの旅行で出会った旅好きの人たちに触発されて、ひとり旅をしてみたい気持ちが募り、
航空券と数泊だけのホテルを手配して
ひとりで旅を計画した。

実際にはずっと一人ではなっかけれど、
1人で日本を出国し、途中1人で行動し、
帰国も1人だった。
この時味わったエキサイティングな経験が、その後のトラベルホリックのきっかけだったと思う。

その年(2003年)の夏休み、
台湾・中国へ一緒に行った親友(幼馴染)が、大学のゼミ旅行で東南アジアをまわっていた。
その後ゼミ仲間4人とミャンマーまで行くことになったけど、一緒にミャンマーどう?と誘ってくれた。
もしくは、ミャンマー行くことになってんと聞いて、私が行きたいと言ったかもしれない。
ミャンマーという魅力的な響き。
なかなか、情報が入ってこない未知の国。
学生最後の夏休みはミャンマー旅行に決まった。
しかも、ミャンマー現地集合ということになった。

2003年は、インターネットはそれなりに普及していて、eメールで友達とメッセージをやり取りをしていた時代。
携帯電話は海外で使える仕様のプランを申し込めば現地で使えるけれど、通話料は高額で、
スマホみたいに地図が便利に使えるアプリなんてない時代。
持って行ったところで使い道は無く、私は自宅に携帯電話を置いて海外へ行っていた。
今は空港にいればWi-Fiがあるので、LINEや メールでタイムラグなくメッセージのやりとりはできるけれど、当時はそんなことは不可能。

私が出国するまで、先に旅をしていた友人とのメールのやりとりは数日おきだった。
それは想定内だったので、日本にいる間に待ち合わせ場所は決めていた。
バンコクの空港で待ち合わせすることに決めていた。
ミャンマーへはバンコクの空港を経由して入国するから、
私は日本から、友人はカンボジアからバンコクに入り、同じ飛行機でミャンマーへ入る事にしていた。
ヤンゴン行きの出発ゲート前で集合。

どちらかに飛行機の遅れとか何かトラブルがあって、空港で出会えなかった時はどうするか。
ガイドブックから想像して、首都ヤンゴンでいちばん有名な観光地であろうシュエダゴンパゴダというお寺で待ち合わせしようと決めた。

空港で待ち合わせもけっこう無謀だけど、
そこで出会えなかった時の待ち合わせがもっと無謀だったと、改めて感じる。
行ったことない場所なのに、知らないお寺で何時間、もしかしたら何日か待つことになるかもしれないのに。

こんな待ち合わせだけど、何故か不安はなく、空港で出会えると少し確信めいた気分でいた。若いってすごい。もし完全に1人っきりになってしまっても、すぐ日本に帰ればいいだろうと楽観的だった。

結果は、ちゃんと空港で出会えた。

先にバンコクに着いたわたしは、
出発ゲートへ続く通路の道中にあるベンチで、数時間待った。
バンコクの空港はさすがハブ空港、世界中の人が行き交っていた。
ベンチから人を見ているだけで、数時間はあっという間だった。

ミャンマーへの入国には、どうしても情報が得られない不安な事が1つあった。
インターネットでも、地球の歩き方でも調べはしたけれど、確かな情報は得られず。
それは、外国人は入国の際に空港で$300払う義務があるかもしれないという事。
学生にとっては、約30,000円はキツい。できれば払いたくない。
払った人がいたり、払わずに入国できた人がいたり。
確かな情報はどこにもなかった。
空港の到着ロビーに小さなブースがあって、そこで払うらしいと誰かのブログにあったように思う。

いよいよそれらしき所を通る時が来て、
キョロキョロしながら歩いていたら、そのまま払わずに空港を出られた。拍子抜け。
うれしい誤算だった。


初日泊まったゲストハウスからの景色

ミャンマーでは当日飛び込みで探して、ゲストハウスに泊まることにしていた。
泊まるところを決めずに旅をするなんて、今までの私では考えられない旅行の仕方。
ただ、5人グループの一員になった私に、不安はほとんど無くなっていた。

ヤンゴン市内は、道路はちゃんと整備されていて、日本車をよく見かけた。ミャンマーの人って日本車を買える所得なんや、と思いつつ歩いていた。
うぐいす色の京都市バスを見つけた時、車体の文字が日本語のプリントそのままだったのを見た時、多く見かける日本車は中古車なんだと気づいた。


日本語プリントそのままで走っていた京都市バス


ボージョーアウンサン マーケット

ボージョーアウンサンマーケットという、一番大きそうなマーケットへひとまず向かった。
まず、両替ができるところを探していた。
そこですぐに、数人の男の子のグループに日本語で話しかけられた。日本語が堪能でとても驚いた。

両替するならレートのいいところに連れて行ってあげると言われた。どうする?と言った表情のわたしたち。
とりあえず行ってみようという事でマーケットの裏の方へ連れていかれた。1人では絶対に行けないうす暗さだった。
彼らのリーダーなのか親分なのかボスなのか、よくわからない体格のいい男性がいた。殺風景な、何屋さん?という感じの店構え。
親分風の男性が言うレートは良くはなかったけれど、さほど悪くもなかった。
結局、滞在中何度かそこで両替をお願いした。

日本語ペラペラな彼らはマーケットに行けば必ずいて、近づいてきては今日は何するの?などと色々話しかけてきた。
お土産を買うならココ、
マッサージ屋さんに行きたいと言ったらお店とは思えないアパートの一室みたいなお店へ案内してくれた。
彼らの仕事は何だったんだろう。きっと彼らはあと数ヶ国語を操る事ができたと思う。

マーケットには、彼らと同じく毎度出会う女の子が絵はがきを売っていた。
おそらく6〜7才。
道端には物乞いをする人もいた。

そういう人に出くわした時、私はびっくりして、戸惑って、どう対応していいか分からないでいた。
絵はがきを買ってあげたほうがいいのか。
座っているその人の前にある器に、お金を入れた方がいいのか。

なぜ子どもが働いてるのか、なぜ道端にいるのか、
背景を教えてくれた人がいた。
それを聞いても、
何が正解なのか答えが出せなかった私は、
絵はがきは買わなかったし、
器にお金を入れる事はしなかった。
今でも思い出したらモヤモヤする。ぎゅうっとなる。
こういう感情は、日本で暮らしていたら抱く事はなく、そういう背景に考えをめぐらす事もなかっただろう。

ミャンマーという国の治安がどのようなものなのかの情報が少なかった上に、軍事政権の国はどうなっているのかも想像がつかなくて、
ひとまずいつもの私の海外旅行スタイルで街歩きをした。
洋服の下にウエストポーチを装着して、その中にパスポートとお金を入れて厳重に隠し持つスタイル。
すぐ使う用のサッと取り出せる財布には、チェーンをつけるほど念には念を入れていた。

しかし、ミャンマーはものすごく安全だった。

ポケットにむき出しに財布を入れていてもスリに遭うことはなさそうな雰囲気。治安が良かった。

食事は、油っこいミャンマー料理に挑戦できず、毎日ほぼ中華。炒飯。
ハンバーガーショップや世界チェーンのお店はヤンゴンには無かった。
でも、中華料理屋さんは苦労する事なく見つけられた。
その後の旅先でも、必ず各国にある中華料理屋に何度も助けられた。

ヤンゴンで数日過ごし、
わたしたちは、次の目的地のバカンヘ向かった。

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