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私的ケンチク批判、日本の建築家

 建築家・隈研吾の著作を追った全3回の読書会を行った。本記事では、企画者が読書会を通して考えたかったことについて説明し、簡単な総括とする。以下は各回の発表資料である。

 第一回は自分が担当し、『10宅論』『建築的欲望の終焉』の2冊を主に扱い、初期の建築批評から実作への展開の布石となる部分を読んだ。

 第二回は福原君が担当してくれた。『反オブジェクト』『負ける建築』で展開されていく一連の建築論をまとめ、批評として組み立てられている設計論が素材への関心に移行していく過程を解説した。

 第三回は曽根君が担当してくれた。最新の『点・線・面』をメインに取り上げ、これまでみてきた設計論、批評を現在の隈研吾がどのように統合、相対化して考えているかを検討した。

 さて、これらの読書会を企画して自分が考えたかったことは、近代を乗り越えようとしている建築家がどのようにそれを実現しようと考えたか、ということである。
 隈の著作を追っていくと、建築批判あるいは建築家批判に始まり、その視点がストレートに現在まで建築論として展開してきていることに気づくだろう。例えば何よりも『反オブジェクト』というのは近代建築批判である。あるいは大阪万博でのシラけた思い出が隈研吾の原体験にある(とストーリーテリングされている)ことを思い出してみても、その建築家としての活動はすべて近代批判になっていると考えてよいだろう。

 つまり、隈がやろうとしていることは、近代建築(というより近代芸術一般)における、手法の抽象化を志向したものの主体の介在は不可避であった、という近代のアポリア(難問)を乗り越えることではなかっただろうか。そして隈は、建築をオブジェクト的に作ろうとしないこと(「粒子化」である)、そしてあらゆるものがオブジェクト的な受容のされ方を回避できないことを認める(放置?)ことという、水準の違う二つの基準(表現と受容)でつくられた最小のデスループに、上記のアポリアを骨抜きにしてしまう。さらにそれと並行して、素材や構法への関心から具体的な事物をデザインの方法として採用することで、創作の方法から人称を取り除く設計論が実現されている、というのが隈の建築の方法である。
 さらにこのことは、建築が社会的な存立基盤に基づいているためにその限界を超えることができない、というのが重要な前提条件として働いていて、それ自体もエクスクルーシブな統合者としての近代的な建築家像への批判となっている。

 大変混乱した言い方になってしまっているが、例えば宇佐美圭司『絵画論』で論じられているような近代芸術の持つアポリアを、こうした批評的な矛盾の円環構造に拡張したことに、隈研吾の表現が成立する領域が広がっているということである。したがって実は、近代の建築家、芸術家が目指した手法の抽象化と、隈(や他のものすごく多くの現在活躍している建築家たち)が具体的な事物に着目していることは、表現の一般化・普遍化という点では同じ方向を向いている。

 そこで、ここから我々がとりうる方向はおそらく二つである。

 まずは、隈が批判するところの近代建築、近代の建築家の内容を詳しく検証し、現代でも有効なものの見過ごされている実践をサルベージしてくることである。
 隈の批判する近代はとても広い。現在活躍している建築家の考える「近代」が、いわゆる時代区分としての近代を大きく逸脱していることとも同様の問題であろう。建築家(もちろん建築家だけではないが)の考える「近代」は、近代的なものをかたちづくった近代以前の芸術家、建築家、あるいはそうした精神構造をさきどった思想を広く含んでいる。近代批判が、合理主義批判なのか、機能主義批判なのか、あるいは資本主義批判なのか、精緻に見極める文脈把握能力を要求する雑駁な言説もある。
 例えば隈が、戦後日本の建築家たちの試みたことは私的な表現にすぎないと批判するとき、それは私的な表現が近代的な制度の上にのみ成り立っていることのナイーブ(原義)さを批判しているのであって、私的な表現は当然ながら近代の産物ではないことに注意したい。「私的なケンチク」へと堕落した業界が、社会制度への実践的な批判を組み立てる射程を持たない、自閉した構造を持ったことへの批判として考えるべきである。

 そしてもう一つは近代を直接的な批評対象として建築論を組み立てないことである。隈の行ったオブジェクト批判には切実な問題があるのは確かだが、近代への直接的な批判であるがゆえの射程の短さもある。第三回で曽根君が指摘した次の内容はそうした問題を如実に表している。もちろん、隈はこの限界を越えようとは意図していないだろうし、ここにこそ隈の表現が成立する根拠もある。

しかし、これでは隈がかつて批判したような「長期的に見れば全員が死んでいます」(ケインズの発言、『負ける建築』pp.15)と同じ構図に陥ってしまってはいないか。「宇宙から見れば、全てが粒子です」と。

隈研吾読書会③ ナショナル・アーキテクトとして

 また、このことに関連する問題として、『10宅論』が「日本人の〜」と銘打っておきながら、東京の極めて限定的な社会階層の人間のみを論じていたことも指摘しておきたい。つまり、批評の有効範囲が東京や日本といった限定的な地域に閉じていたことにも、我々がこれから考えることのできる余地はある。もっともコスモポリタンになってしまえばそうした問題は自然とキャンセルされるのだが、、これは例えばレム・コールハースと隈研吾の、資本主義との戯れ方にある違いである、と考えても面白いかもしれない。

 以上、この読書会の簡単なまとめとしたい。読書会に参加してくれた皆様ありがとうございました。

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