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表現形式によって喚起されるもの

 紙面なり画面なり2次元の表現というのは難しい。特に建築では3次元の空間や事物を2次元の図面・画面に投影することにまつわるそもそもの困難が付き纏っている。描画形式の歴史、特に製図技法の歴史はこの困難に対して人間が行なってきた試行錯誤の歴史とも言えそうである。
 ただ、こうした見方は内容が先にあって形式が従属しているという先入観によるものであって、実際には形式によって生み出される内容があるということを否定する人はいないはずである。例えば、俳句など形式性の強い芸術がその形式性においてこそ創造性が発揮されているというようなことだと考えてよい、と思われる。ともかく自分は今、形式との関係、特にドローイングをめぐる形式と、創作や表現の様態の関係に興味がある。

 昨年同期の二人と協働で行なったコンペティションに提出したものについて、特に描画形式とその表現の内容について考えてきたことについて書く。そのコンペはたしかソーシャルディスタンスというようなことが言われはじめた時期で、都市におけるソーシャルディスタンスを実現する公共空間の提案といったようなテーマであった。自分はあまりコンペに出した経験はないのだが、協働者のスキルをフル活用することでなんとか完成できてよかった。

クラゲ・イン・シティ

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 自分はこのコンペで、デクパージュ(Découpage、一般には手芸で用いられる技法のことを指すようである)という技法に注目した。日本語にするとあまり一般的ではないのだが(実際に、コンペをやっているときは技法に名前がついていることに思い至らなかった)、いわゆる切り紙絵というやつである。コンペのときにはちぎり絵のような厚みのある絵をイメージして作っていたが、デクパージュという技法は、例えばマティスが晩年に用いていたことで知られているようである(グワッシュ・デクペ/ Gouache découpé)。たとえば以下に詳しく論じられている。

ニック・リグル、アンリ・マティスについて

 実際に図面製作では、紙をマーカーで着色したものをカット、台紙に貼り付けたのち、それを撮影してデータ化、デジタルで描いた背景の街並みにコラージュ、という工程で行った。エッジが明確に表れるように、傘の装置の部分の周りだけを着色しているが、それぞれ線画にあたるところが切った紙(ポジ)の隙間(ネガ=紫に塗った部分)になっている。

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 技法の再現ということであればそれなりにうまくいったと思う。ただ、結局デクパージュという技法が効いたというより、紙を撮影した傘の装置とデジタルで描いた背景の質感の違いであるとか、不定形っぽいかたちであるとか、そういう要素によるコラージュっぽい印象が強いといった感じもある。
 しかし、単なるコラージュではなくデクパージュという技法に注目したのは、結果としてそれが素材感の違いによるものだとしても、そうした技法に起因する画面全体の立体感であり(事実、切り紙絵にはゼロではない厚みがある)、それによる浮遊感の表現であり、このことが表現形式によって喚起される空間のイメージだとするならば、一応面白い結果が得られたと思う。もちろん、単にコラージュをイラレで作ったとして、それぞれの要素に微小な陰影を描くことによってそうした立体感を捏造することはできるのだが、重要なことは、実際に浮遊しているような装置の提案に浮遊感をもたらす技法を使った、ということではない。むしろ、そうした技法による浮遊感の表現と呼べるようなもの、描画形式によって引き起こされる印象が、提案の内容を導いたことが重要である。もちろん鶏か卵かという感じもするが。

 振り返ってみれば提案の内容が、傘を転用して街路に浮かぶ個別ブース型の喫煙スペースで、実現するとなるとちょうど医療用のヘリウムガスの不足が問題になっていた時期でもあったため、ネットで炎上していたかもしれないな、とも思う。とにかく全く箸にも棒にも引っ掛からなかったのだが、ある審査員に「何を書いてあるのかわからないが、この景色は単純に見てみたい」というようなことを言われていた、口頭なので判別できないが「書いてある」が「描いてある」ではなかったならいいなと思う。
 というか実際のところ、1年以上前の落ちたコンペなんてどうでもよく、どちらかと言えば開催延期となっている国立新美術館のマティス展を早く開催してほしいということに尽きる。新美はコロナ禍でカラヴァッジオ展を中止にした過去があるので、割と高い確率で中止になるのではないかと危惧しているがどうだろうか。キップ・ハンラハンのカラヴァッジオ/バランスは本当にいいんだよな、まあどうでもいいか、以上です。

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