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甲子園中止 荻原健司が球児に伝えたいこと

 全国高校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園の中止が20日、決まった。高校野球関係者の苦渋の判断であっただったろうし、球児の落胆もはかり知れないものがあると思う。

 私には野球の経験がない。個人種目が主体のスキー選手だったので、多人数の選手を要するスポーツにある連帯や協力、相互理解からくる一体感を感じてみたいと思ったことがある。一方、それに伴う緊張や重圧は個人種目よりも大きいことを考えると、それはそれで腰が引ける。だから、落胆の度合いも個人種目の選手には理解できないものがあると思っている。ただ、自分もスキーのインターハイを目指した者として、高校スポーツの大舞台がなくなったことの失望感や喪失感は想像できる。

 選手の中には「野球は高校まで。」と決めていた選手もいただろう。 また「ここで自分をアピールして、スカウトの目に留まれば。」と、プロへの道を夢見ていた選手もいたであろう。それぞれの選手がそれぞれの思い描いた未来へ向けて、節目としての大きな舞台がなくなった落胆は大きいはずだ。

政治が奪う

 1980 年モスクワ。ロシアは初のオリンピク開催に国中が沸いていた。オリンピック開催は近代国家の証であり、大国としての権威を示す良い機会になると考えての開催だ。大会マスコットの小熊のミーシャの愛らしさとは裏腹に、日本国内では、描いた未来への大きな舞台を奪われた人たちがいた。モスクワオリンピック日本代表選手たちだ。なぜなら、日本オリンピック委員会(以下、JOC)はモスクワオリンピックに選手を派遣しなかったからだ。

 なぜその大舞台は奪われたのか。それは、アメリカが西側諸国に大会ボイコットを呼びかけた結果による。アメリカは世界の覇権をかけたロシアとの対立の中で、ロシアに大会ボイコットをちらつかせた。ロシアで開催される オリンピックが「真に世界一を決めるオリンピックではない」ことにすることがロシアへの痛手となると考えたのだろう。結果、モスクワオリンピックのボイコットを表明。アメリカは日本を含む西側諸国に同調することを要請。日本は、その要請を受け入れた。

 JOC が日本選手団を派遣しないことを決定した直後、日本代表選手たちは記者会見で懸命に訴えた。

 4 年に一度の大舞台にむけて日々の練習に明け暮れ、厳しい国内予選を突破し、いよいよ世界の大舞台への切符を獲得した。にもかかわらず、オリンピックへは行けなかった。中止ではないのに。 

「オリンピックはある。私は日本代表。でも、そこへは行けない。」そんな徒労感や絶望感、悲痛な思いは想像を絶する。さぞ悔しかっただろうし、さぞ悲しかっただろう。これは、スポーツが時の政治判断によって翻弄されてしまった、決して忘れてはならない苦い過去であり、スポーツ界に身を置く者として、繰り返してはいけないことであると胸に刻んでいる。

幻の人 欠けた思い

 当時の日本代表選手たちには今も「幻の日本代表」の肩書きがついてまわる。その一人が山下泰裕氏だ。1980 年のモスクワオリンピックに選手を派遣しなかった、あの JOC の会長を務める。山下氏はモスクワ当時、金メダル間違い無しとの前評判、絶対王者だったのである。彼の懸命の訴えは JOC に届かなかった。いや、JOC には届いたのかもしれない。しかし、時の政権には届かなかった。政治は、日本代表選手の健闘よりもアメリカへの忠誠を選択した。その時点で、政治は彼らの大舞台を奪ったのだった。

 JOC会長の山下氏の他、日本陸連競技連盟(以下、陸連)の理事である瀬古利彦氏など、大舞台を奪われた幻の日本代表は枚挙にいとまがない。瀬古氏も山下氏同様にマラソンでのメダル獲得を期待されていた。現在、彼らは日本のスポーツ界の責任ある立場として活躍している。山下氏は JOC会長として東京2020での金メダル獲得30 個を目標に掲げた。その達成に向けて陣頭指揮を執る。瀬古氏は日本マラソン界の実力を上げようと陸連にて新たなチャレンジに取り組む。日本のマラソンがおもしろくなってきたのは彼の功績だ。幻の日本代表選手たちは今、それぞれが自分の役割を理解し、それぞれがスポーツの現場で全力を注ぎ込んでいる。しかし、取り組みは違っても、大きな共通点がある。それは「日本スポーツをもっと強くしたい。」との想いだ。日本スポーツの発展は世界スポーツの発展につながり、スポーツが世界共通の文化である認識を深める役割にもつながる。自分が情熱的に愛したスポーツを振興すること、強くすること。それは、自分を肯定し、自分の存在を確かに感じることにつながる。

完璧などいらない

 私にも欠けたものがある。オリンピックの個人メダルだ。「そんな贅沢なこと、よく言えるな。」と思ってもらっ てもいいが、スキーノルディク複合の団体種目のメダルしかない自分の本心だ。94年リレハンメル冬季オリンピック。周囲から期待されるまでもなく、自分でも金メダル間違いなしと思っていた。しかし、金メダルはおろか、どの色のメダルも獲れなかった。本来あるべきものがない。獲れていたものがない。すべては自分の責任とはいえ、欠けた喪失感は今も残る。残るからこそ、自分は完璧ではないと思っている。 さらに言えば、完璧ではないと思える状態でいるほうが良いとも思える。もしあの時メダルを獲っていたなら、今の私はなかったかもしれない。人は自分の過去を美化しやすいものだし、自分もそうだ。だが、その経験があったからこそ、もっと自分を強くせねば、と思える自分がいる。苦い経験は前に進むスパイスだと思う。

球児へかける言葉はある

 「この状況で球児にかける言葉が見つからない。」そんな言葉が飛び交う。彼らの心情を思えばその通りだと思う。ただ、この機会だからこそ、伝えたいことがある。これからも、自分が愛した野球を続けて欲しい。この先、もう大会に出ないかもしれない。もう選手にはなれないかもしれない。でも、だからといって野球にかけた情熱が冷めることはないはずだ。その情熱を持ち続けて欲しい。大舞台の夢が破れても投げ出さないで欲しい。今後、進学や就職などで立場や役割は変わるかもしれない。でも、仕事の合間に地域の少年野球を教えて欲しい。教員になって生徒と夢を共有して欲しい。野球の普及のために競技団体の役員になって欲しい。それこそ、オリンピックという大舞台の夢が破れてもなお、情熱を持ち続けている人と同じように。

 あなたのスポーツへの情熱、野球への情熱をこれからも続けること。それがあなたにはできる。それは自分の存在をいつも確かなものにするだろう。いつも生きがいを与えてくれるものになるだろう。私はそう思っている。



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