大西つねき氏の「命の選別」発言の問題点(文字起こし付き)

れいわ新撰組の一員である大西つねき氏が、「命の選別」なる発言を行い、twitterで議論になっていました。僕もこの動画を見た上で、この発言は問題であり、優生思想的な発言だなと感じました。そのことはラジオでも言及しています。

他方で、大西氏の発言を擁護する者もいます。「優生思想ではない誤解だ」と言いたいらしいのです。典型的な擁護論は、以下のようなもの。

優生思想を「優良な遺伝子を残す」目的であると狭く定義し、そのような主張をしているわけではないから優生思想ではない、と言っているわけです。しかし、歴史的な優生思想の実践は、そのような定義に当てはまるものではありません。

ここに連ツイしたものと重なりますが。

優生思想は、「優良な遺伝子を残す」という発想に基礎付けられた政治思想と説明されますが、実践された優生思想の経緯を追うと、そのような定義では不十分であることがわかります。というのも、例えば日本の優生保護法が継続する経緯の中では、単に「遺伝」の話がされていたのではないためです。

以前、古市憲寿氏も、「優生思想は遺伝形質や血統の改良を指して用いられるのが一般的」と定義を狭めておられました。しかし優生学的実践は、そのような「一般的」な定義のもので遂行されてきたわけではありません。何を優良・改良・有意義とするかは、その都度変わるということ。そして時代を経て、優生思想的表出は、遺伝以外の根拠に基礎付けられ、人々を動員してきたのです。

優生思想の実践を擁護する人々は、様々な時代や立場で論拠を変えながらも、「生活能力」「扶養」「社会財政負担」「当事者の不幸」などを根拠に、断種などを正当化してきました。「遺伝」という「生物・自然」に基礎付けられた思想というより、「遺伝」という視点を借りた、社会的選別行為であった点を見ることが重要だと思います。ここで重要なのは、どのような根拠だてがなされようと、排除される対象が、社会的マイノリティであり続けてきたことです。

今、優生思想という言葉が障害運動などで用いられる時、広く「いる命/いらない命」「役立つ生/負担となる生」を一方的に線引きする発想に対して、批判的に用いられます。狭く、「優良な遺伝子を残す」などという思想に基礎付けられた排除のみを批判するのではなく、かつて行われてきた排除が、その思想形式を変えながらも温存されることを、拡張された「優生思想」という言葉を用いて警戒しているわけです。

今回、大西氏が持ち出した論理は、「若者の負担」論で、「選別」対象は「高齢者」です。しかしここには重要なレトリックが隠れています。彼の言う高齢者は、単に加齢を重ねた人ではありません。医療的ケアや介護、他人(ここでは「若者」とされています)の支援が必要な存在を指しています。すなわちこれは、障害者や病人の「選別」として機能する言説です。

「群馬チーム」による当該文書は、あくまで個人の「死生観」であると擁護します。しかし大西氏は政治家を志している者であり、選別の話題も、政治的テーマとして繰り広げています。そして、その「死生観」や「幸・不幸観」を、政治的に導入していくこともまた、まさしく優生思想の実践における特徴でした。

そして本人も動画の中で、「僕はそういう政治家になる」と発言している。単に個人が、自分の死生観を示したものではなく、政治信条として捉えていいでしょう。さらに「どこまでその高齢者を長生きさせるのか」というのが彼の議題でした。彼は、自身の死生観の話をしているのではありません。動画で彼は、他人の命の話をしているのです。

障害学や障害運動は、「命の選別」に抵抗してきました。自身も障害運動に携わってきた、重度障害者である木村英子議員が鋭敏に反応したのは、とても重要です。

さて、このような趣旨のツイートをしてもなお、「大西氏は終末医療について問題提起している」「優生思想ではない」「切り取った部分だけを見ないでください」という反応があります。

しかし僕は、今回も動画を見て、なんなら文字起こしをしながら確認した上で、批判を行なっています。閣僚の問題発言などでは、「全文見たらもっとひどかった」というケースがよくありますが、今回は率直に言って、そのレベルです。そもそも全体として、大西氏の言葉は、浅く、軽い。

以下に、文字起こしを貼っておきます。公党から国政政治家を志すものの発言であるという観点から、公益目的としての重要性を鑑みて、少し長いですが。

*************

「格差」(※コメント受けて)の話ね。うん。やっぱりでデフレの原因、デフレってやっぱり大きいのは、僕はその所得の、こう、あの所得の何、配分のいびつさというか。あの、あまりやっぱりごく一部の人たちのところに、その、集中しすぎというか。マネーストック、お金自体は、本当にずっと増え続けているんだけど、それが動いてないっていうのはやっぱり本来使うべき人の所には行かないんだろうな。それはやっぱり今の金融システムが借金金融システムなんで、あの、利息っていう膨大な、不労所得が、不労所得が発生していて。特に銀行とかそういったところに集中していくんですよ。

あの、銀行というところは何もないとから数字で、お金勝手に書いて作ってそこに利息かけているので。で、もちろん政府にもその利息をかけて、政府から利息を得てるっていう。で、結局その銀行が儲けたものってどこに行くかというと、ほとんどの人の手元にはいきませんよね。ごく一部の株主とか。だから多くの人たちの手元に、本当にお金を使わなきゃいけない人たちのところに行かない。でこれは本当悲劇的なのはお金が行かないことによってお金がないから活動ができない。

例えば子供たちの教育に、もう充分使えない。そうすると本来はそれがあれば、てかそもそも金なんかどうだっていいんだけどね、その子供たちが学んで動いて、その人々が動けば新しい価値がどんどん生まれる、もっと可能性は広がった、広がったにも関わらず、たかだか数字の金がないということのために、多くの子供たちの大事な時間が浪費されるって、これ本当に大きな問題で。あの、まあそのコロナの件、コロナの件もね、この、都知事選、都知事選終わったらいろんな話をね、どんどんまたしていきたいかなと思ってるんですけど、それも、今学校が多くの子供たちの時間を浪費してますよね、おそらく。

浪費っていうか、本当に、もっといろんなことができる、あの、もっと時間を有効に使って、今しかできないことがいっぱいあるのにもかかわらず、それをやらせない。これ本当にそんだけの、あの、意味があるの、っていうことは真剣に考えなきゃいけないと思うし、このまま言っちゃうと、その、このままもしかして、その学校教育とか我々の生活のあり方が、これからね、こういうウイルスみたいなものが、いくらでも出てくる可能性がある中で、我々はずっと、死に怯えて、その、ある生を精一杯生きることなく長生きすることだけに、その時間を使っていくのかっていう。これ本当哲学的な死生観の問題でもあるし。そこを我々も今考えなきゃいけない時期だと思うので、その話はまたね、あの都知事選の後にしたいと思いますけど。うん。

「学校でクラスター起きてる」(※コメント受けて)?うん。で、クラスター起きちゃいけないの?このコロナっていうのは?これ本当に怖いものって話ですねまずは。それ以前にね。「クラスター起こしちゃいけない」「感染広げちゃいけない」っていう前提で全部やってますけど、もう一回そこを考えなくてもいいんじゃないかなと僕思ってますけど。

(※コメント受けて)この間から「一月万冊」、ひとつきまんさつって読むの?のチャンネルのことがちょいちょい、なんか。安富さんが出てるって話ですよね。ちょっと見るんですけど。まああれですね、そこら辺はどうでしょ。あの、その方ご存じ上げないんで、もし何か話があれば、考えたいと思います。

(※コメント受けて)高齢者は怖いんすか。高齢者は逆にアレですよ。もうなんかそんな長くないじゃないですか。これもだからどこまで長生ききたいのかっていう話、これまたね、講演会でも結構ねハードな話しますけど。あのーー。うん、まあ、あれですよね。リスクは常にあるし、まあ死ぬ原因はいくらでもあるので。んー。それをどう考えるかですね。

「高齢者は死んでいいのか」(※コメント受けて)。高齢者は、高齢者死ぬ確率は高いし、そもそもね。えっと、その話しましょうか。えっと、どこまでその高齢者を長生きさせるのかというのは、我々、真剣に考える必要があると思いますよ。なんでかってというとその。まあ今はその介護の分野でも医療の分野でも、その、これだけその、人口の比率がおかしくなっている状況のなかで、あの、特に上の方の世代があまり多くなってる状況で、その高齢者をちょっととにかく長い死なせちゃいけないと長いさせなきゃいけないっていうそういう政策を取っていると、これ、多くのお金の話じゃなくて、あのもちろん医療人が介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これはこの若者たちの時間の使い方の問題になってきます。

どこまでその高齢者を、まぁちょっとでも長生きさせるために、こども、子供たちと若者たちの時間を使うのかっていうことは、あの真剣に議論する必要があると思います。まあこういう話多分、政治家怖くてできないと思うんですよ。まあ命の選別するのかとか言われるでしょ。命選別しないとダメだと思いますよ。ハッキリ言いますけど。何でかっていうと、その選択が政治なんですよ。あの選択しないでみんなに良いこと言っていても多分それ現実問題として多分無理なんですよ。そういったことも含めて、あの、順番として。これ順番として、えっと、その選択するんであれば、えっと、もちろんその、高齢の方から逝ってもらうしかないです。

(※コメント受けて)うん。そうなんですよ。だからね、これ本当、死生観の話になると思いますよ。あのいつまで我々は、ひたすら長生きさせるために、どれだけ、その自分たちの時間と労力をするに使うのかという話は、えーと、皆が考える必要があるしみんなが、必ず死ぬということを覚悟する必要があるし、えー、そこはもう避けては通れないと思いますよ。

じゃあこういうだから、何でしょう、あの。本当に歯に衣着せずに言う奴ってのは、まあね、批判を受けるし、なんやかんや言われるんですけど。なんか、これなんか、日本人的な感覚、僕全然ないんです、はっきり言って。そう言った意味でいうと。なんか、こう、そういうことを言うと誰が、どう思われるかとか、どんな気持ちがするかとか。そんなこと全然考えてないです。あの。それは、そうそういう風に考えるしかないんじゃないのっていうのは、あの、まあそのまんまですね僕は。うん。超本当に合理主義っちゃ合理主義ですね、そういった意味で言うとね。

うんと、「高齢者自身の選択」(※コメント受けて)……。高齢者自身の選択……。まあもちろんそれぞれの選択はあるんですけど、あの、それぞれの選択、っていうか、やっぱりシステム的に変える必…システム的というか、その、例えば、本人だけの選択ではなくて社会的な選択ってある程度してく必要があるじゃないですか。その、ベッドをどれだけ用意する、ベッドをどういうふうにその、例えば数がもうとにかく、全員に何があっても、足りるようなベッド数を保つっていうことは、それを、そのなんていうかな、それをこう、ケアするための、膨大な多分若者が必要だったりして、これもだからどこまでもやればいいって話ではなくて。どっかでやっぱあのある程度、その、線、あの、数とかね、そこらへんは選択する必要がありますよね。

で、それも、冷徹にやっぱりやなきゃだめだと思いますよ。なんか、すごいね、なんか情緒的なんです、この国は。言わしてもらうと。感情的だし情緒的だし。

でもそんなもんで、物事多分、決めていけないと思います、それだけだと。っていうふうに思います。うん。まあいいんですけどね。それぞれ考えがあってね。でも僕はそういう政治家になると思いますよ。結構冷徹にいろんなことを判断していく。で。そのそれを考えることを要求すると思います。なんか、情緒とか、感情とかでなくて、そうじゃなくて。あの、気持ちはわかるけど、その気持ちだけで全部解決するわけではないので、って結構わりと、なんか過去において我々て、そういうのが情緒的な判断とか感情的にとか。なんかその、「頑張ってる人がいるからそんなことを言うな」とか。ははっ(笑)。あとはなんでしょ、なんか「一生懸命やってるんだからどう」とか。そんなんでなんか、割と、あの例えば戦争があんだけ長引いたのもなんか、そんなような、何でしょう、合理的な判断ができなかったからなんじゃないですかね。と思いますけど。

(※コメント受けて)まあねあの寿命もしかしたら、そうね、おっしゃる通り縮むかも知れませんね、我々の世代にはね。なんか。食べてる物とかだいぶ違うような気がしますからね。

あの、まあそんなやつですということの僕、包み隠すつもりもないので、ふふっ(笑)、言っちゃいますけどね。それで選ん選ぶ選ばれなかったそれはそれまで。かなりそう言ってみると僕はなんかあんまり日本人的ではないのかもしれません。おそらく。なんか。そういうちょっと情緒的なところは、あまりないですね。全くないので。

命の、そうね、「命のためと言いながら個人の尊厳を奪っていることが多いように見える」(※コメント受けて)って、僕もそんな気はしますね。難しい、そう、ほんと難しい問題なんですけど、難しい問題をちゃんと我々、こう、正面切って考える必要がありますよね。って考えることを僕は、皆さんに、こう、考えてもらうための発信は多分、すると思います。


結局、最終的に皆さんに、やって決めていただく必要がある、んですよね。僕が決めることじゃないですよ。僕はこう思いますよって、どう思いますかっ、ていうあくまでこれ投げかけなので。その結、あの、まとにかく長生きが一番っていう人達が大勢だったらそういう風になるんでしょう。たぶんそういう人達が大勢だったら僕は選ばれないのかもしれませんけど。それはそれ。僕の考え、それぞれの考えがあって良いというね。ですね。

はい。ということで。えー、まあそろそろお時間でございます。ね、またただ最後ね、あの言いたい放題言ってしまいました。大丈夫でしょうか。ははは(笑)。うん。ということでこの辺で終わりたいと思います。みなさんありがとうございました。おやすみなさい。よい子のみなさんおやすみなさい。

*************

読めばわかりますが、彼は終末医療に絞った話をしているわけでも、具体的トリアージの話をしているわけでも、そして単なる自身の死生観にとどまる話をしているわけでもありません。社会設計の話をしながら、しかし具体的な数字や事例を出すわけでも、まして建設的な提案をするでもありません。他の「感情的」「情緒的」な日本人と違って、「合理的」「冷徹」に触れられる自分、を表明したにすぎません。その上で、自分はあくまで問題提起をしている、決めるのは有権者だと言う。

彼は具体的な話は自からしていません。しかしその彼の発言に「理解」を示し、「トリアージの思想だ」「世代間格差の話だ」「必要なトロッコ問題だ」と擁護する人が、それなりに出てくる。いや、そんな有意義な話、この動画でしてましたっけ。

これは、わかりやすい犬笛政治の構図に見えます。僕はれいわ新撰組を、反緊縮ポピュリズム政党だと思っていますが、そのポピュリズム的側面を支える情念は、時にこのような形で「命の選別」を合理化しうる危険性があるな、と思います。

もう一つ。この一件を受けて、「公開の場でレクチャーを」「当事者を呼んで話を」といった声が、ツイッターなどで無配慮に上がっていたことにも懸念がありました。そしてそれを「透明性」などと呼ぶことにも。

公開レクチャーといっても、その対象が「改心」するなんてわかりません。その場で自己弁護、差別的発言を強化することだってありえます。そうした発言者を前に「当事者」を立たせ、説明をさせることに、何の違和感を抱かないのもまた、恐ろしいことです。場合によっては、二次加害になるというのに。

その懸念は杞憂だったか。木村議員は、このように書いていました。

「大西氏の発言についての当事者の意見を聞く会において、当事者たちが涙ながらに意見を訴えたにも関わらず、大西氏は自分の主張がいかに正しいかを話すだけで、当事者の必死な訴えに理解を示そうとはしませんでした。」

僕は現場にいないのでわかりませんが、元の懸念は、必要なものであったな、とは確信しました。

逆もしかりです。もし、「改心」シナリオありきで公開レクチャーして、「ああよかった」なんてことになったら、どうでしょう。そんな禊のパフォーマンスは、炎上商法と変わりません。何より、当事者は、多数派の勉強のための道具ではありません。

この動画そのものではなく、それを擁護する人が相当程度いるという事実に、ダメージを食らった人もいるでしょう。僕にも精神疾患がありますが、この動画を見たとき、そしてその擁護論を見たときはショックが大きく、睡眠に支障が出ました。

れいわ新撰組が、国会に、重度障害者の議員を送り出し、様々な改善を行ったことに喜んだ有権者も多いでしょう。今回の一連の対応などは、そのことを裏切る行為でもある。しかし投票していない人も、当事者です。場合によっては、「命の選別」の対象になるわけです。だからこそ、まだ出馬もしていない人物の発言であり、影響力は小さいなどと、軽視することはできません。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?