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日本人的「今後ともよろしくお願いします」の真意

ここ最近は仕事もなくなり、冒険研究所での子供受け入れも無くなっているので、やることがないのでひたすら本ばかり読んでいる。じっとしていても仕方がないので、これまで読まなかった本を読んで、自分の思索を深める一助にしたいと思っている。

昨日からロラン・バルト「表徴の帝国」を読んでいる。

印象的な表紙の本書は、フランス人の思想家で記号学者のロラン・バルトが日本の表徴、つまりは言葉で表す「意味」ではなくそれぞれの現象表面に現われてくる事象や心象を読み解きながら、日本論を説いたもの。

フランス人感全開の日本論で、ステレオタイプ的な「神秘的な東洋の国」という見方も多いが、我々日本人が気付かずにいる点を冷静な視点から指摘している箇所も多く読み応えがある。

「文楽」について。

魂あるものと魂なきもの、という基本的な二律背反を扱って、「文楽」はその二律背反の成立を妨げ、そのいずれの側にも偏ることなく、背反を消滅させる。フランスの操り人形(たとえば道化人形)は、俳優と正反対のものを写しだす鏡を俳優に見せてくれるものである。この操り人形は生命なきものに生命をあらしめる。だがそれは、人形の劣等性、人形の無自動性の無価値ぶりをよりよく示すためなのである。「生命」のカリカチュアにほかならない姿を見せることによって、この操り人形は「魂」というものの限界をはっきり示して、俳優の生きた肉体のなかにこそ美と真実と感情はあるのだと主張するものである。ところが現実には、俳優はその肉体を使って虚偽をつくるのである。「文楽」はというと、これは俳優の存在を人形に刻みつけない。わたしたちから俳優を追いはらってしまう。何によって?生命なき物質がこの舞台においては、生命ある(つまり「魂」を与えられた)肉体よりも無限に、より多くの厳粛と戦慄をもたらすものだという肉体観によって、である。

文楽の人形に魂があるのかないのか、魂を込めているのか込めていないのか、という二律背反を消滅させる、というのが良い。

「包み」について。

日本の包みは、運ばれる品物の一時的な飾りではなくて、もはや包みそれ自体が品物なのである。包装紙そのものが、無料だがしかし貴重なものとして聖化されている。包みが一個の思想なのである。
たいていは幾重にも包まれたこの包みの完璧さそのもののために(人はなかなか包みをときおおせない)、包みが包みこんでいる内容の発見を包みはさきへ押しやるーそして包みこんでいる内容はおおむね無意味なしろものである。

おおむね無意味なしろものってのも、言い過ぎな気はするが「内容の発見を包みが先に押しやる」というのはそのあとの文章につながる。

包み箱が包みこみ、そして包み箱が表徴するもの自体は、ひどく長い時間、「もっとあとに置かれる」ことになる、あたかも包みの機能は空間のなかに保護することではなくて、時間のなかに運びこむことででもあるかのように。

これを読んだ時、瞬時に浮かんだのは、なぜ日本では過剰包装なのかである。

問題は中身ではなく、包み、解くまでの長い時間に意味があるのだろう。

「世間」論を多く書いた阿部謹也さんは、著書「世間とは何か」の中で、日本には個人が形成する「社会は存在せず、あるのは世間だけだ」と述べる。世間を構成する三要素として、①贈与・互酬の関係 ②長幼の序 ③共通の時間意識 を挙げている。 

ロラン・バルトが述べている「包み」の役割は、一つにこの「共通の時間意識」と通じている。

「その節はありがとうございました」「先日はお世話になりました」「今後ともよろしくお願いします」これらの挨拶はすべて、日本人が無意識に行う「両者が共通時間に生きた(もしくは生きる)確認行為」である。

「先日はありがとうございました」という言葉は「あなたと私は過去において同じ時間を過ごした関係ですよね?」という、過去の確認であるし、また「今後ともよろしく」というのは「あなたと私はこれから先未来にわたっても関係性を続けていきますよね?」という確認である。

個人意識が確立した西欧では、個人とはそれぞれが個人の時間と空間に生きる。今後ともよろしく、とかいちいち確認しない。「あなたと私は今の瞬間においては関わりを持っているけれども、未来までずっとこの関係性を続ける必要性は必ずしもない」というのが「個人」のスタンスだ。それを個人が形成する「社会」と呼ぶ。

日本の様に他者と同じ時間と空間に生きようとする関係を「世間」と呼ぶ。世間の中に個人はいない。

世間が悪いというわけではない。日本的な縦構造の世間的システムにおいては、システム全体が一方向へと進んでいくときの推進力は非常に強い。明治維新からの近代化、戦後の復興や、震災からの復興、高度経済成長などが良い例だ。しかし、方向性が多様化すると、途端に縦割り構造という巨象は鈍化する。

我々日本人の性質はどこにあるのか、過去語られた日本人論と、現在の差異はどこにあるのか、その差異は何によって生じたのか、それらを知ることが大切だ。

包みに話を戻せば、例えば引越しの挨拶に菓子折りを持ってお隣さんに行くときに、菓子箱剥き出しではなかなか持って行かないだろう。包装紙の一枚か、のし紙一枚どうしても巻きたくなる。菓子箱を剥き出しだと、なんとなく非常識な感じがするし、失礼な感じもする。その意識は多くの日本人に今でも強くあることだろう。相手方の玄関先で渡すのに、包装紙で包んだ菓子箱をわざわざ紙袋の手提げにまで入れたりする。その手提げ、要らなくない!?と合理的に判断すれば思うのだが、その真意は、これから隣近所という「世間」に入り込むにあたって、「今後ともよろしくお願いします」という、未来にまたがる共通の時間を包み込もうとしているのだと言える。

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