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個人と社会の関係性の冒険論を、考える

それにしても毎日本ばかり読んでいる。

コロナの影響で、予定されていた講演は全てキャンセル。先月はオンラインで実施したものもあったが、それもごく一部。打ち合わせも全てオンラインとなったため、家からほとんど出なくなってしまった。

時々、冒険研究所には行くが、その回数もめっきり減っている。早いところバリバリ動き回りたいが、いつになることやら。

まあ、おかげさまで時間はたっぷりできているので、大渋滞している本たちを読んでいる。

私が最近好きな分野は、宗教、社会学、人類学、政治、といった感じの、人間とはなんぞや?系が多い気がする。本を読んでいると、自分が何を探しているのかが、次第に見えてくる感じがある。

目下のところ、私の興味の対象は「個人と社会の関係性」かもしれない。これは、やはり「冒険」を基軸に考えている。

冒険や探検と呼ばれるものの社会性を問う議論が時々存在する。多くの場合、その行為者は社会性を感じてやっていることが少ない。私も同様だ。冒険に社会性は無いと思っている。でも、それは後から付いてくるし、大なり小なり勝手に付いて来ざるを得ないものでもある。なぜなら、我々は人間の中で生きているから。

世の「冒険論」は「何をすべきか」もしくは「何をすべきでないか」に焦点が当てられることが多い。冒険探検の手法や対象に向かう姿勢に重きが置かれる。その手法や姿勢であるところの「すべき」「すべきでない」を通して「如何にあるべきか」にアプローチをかけている。「あるべき」というのは、大雑把な理解としては「一個の人間として如何にあるべきか」ということだ。

冒険論では「一個の人間として如何にあるべきか」を冒険探検を通して考えるのだが、どうも話はそこで止まってしまう。社会に対するカウンターというか、アンチテーゼというか、「一個の人間」という直径1mの穴をどこまで深く深く掘り進めていけるか、に執心していく。穴を掘る道具を通して、穴を掘る人の姿勢を考えようとする。

人間とは「人の間」で生きる存在であり、社会は決して一個の人間のカウンターではあり得ない。冒険や探検という「行為」は社会に対するカウンターであるが、行為者はカウンターであり得ない。行為と行為者は別だ。もし、一個の人間が社会に対するカウンター(反社会的)の存在であるとしたら、それは「倫理」に逆らうことになる。倫理とは、法律や常識と同義では無い。法律違反をしてもそれが倫理違反であるとは限らない。冒険探検の行為者は、そのスレスレのエッジを行くことで、人間共同体の存在根底たる秩序を図る。それは、行為によって図る。どこまで自分の穴を掘り進められるか、試す。その先に新たな可能性が開かれることはあるが、それは行為の前に担保されているわけではなく、結果的に開かれてしまうかもしれない、程度だ。

行為と行為者の関係は、穴を掘る人と、手に持つツルハシに例えられる。行為者たる穴掘り人は、行為たるツルハシでザクザクと穴を掘り進む。無論、人とツルハシは同一では無い。冒険探検の手法や向かう姿勢という「行為」たるツルハシのあり方を通して、ツルハシを手に持つ穴掘り人たる「行為者」の存在意義を考えるのが、日本人的な冒険論な気がしている。

私がなんとなく物足りなく感じているのは、この理屈で話を進めると、どうも「穴の中」だけで話が完結してしまう気がしているからかもしれない。要は、行為者たる個人と穴から出た外の世界であるところの社会との関係性を、あまりにも二項対立的に捉えすぎてはいないかと。いくら社会に対するカウンターだと息巻いてみても、結局は社会に戻っていくわけだし、そこから生まれてきた。穴の中も穴の外も、我も彼も自他不二的に存在しているはずだ。

「個人と社会の関係性」を考えながら、この辺りを深く考えたいと思っている。


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