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日本人の意識構造

ここ最近は、本ばかり読んでいる。2月下旬から、イベント事や講演などがことごとくキャンセルとなり、仕事がほぼ全て飛んでいる。果たして減収額がいくらになるかは計算したくないが、おかげで時間だけはたっぷりできている。

ルース・ベネディクト著「菊と刀」

太平洋戦争中に敵国である日本人を深く考察したアメリカ人の人類学者による記録。

この本は、アメリカ人の人類学者であるベネディクトが、太平洋戦争中に敵国である日本人に関して理解を進めるために研究したものを、戦後すぐに出版した本。当然、日本にやってくることはできないため、文献や日本からアメリカに移民した人たちへの取材、捕虜からの聞き取りを繰り返してまとめたもの。

実際に日本に来ないでここまで書き上げたのは物凄い鋭い。とは言え、所々で間違った理解をしている箇所などもあるが、その捉え方でアメリカ人の精神性が見えてくる部分もあって興味深い。

本の書き出しがこうだ。「日本人はアメリカがこれまで国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵であった。」

アメリカ人からしたら理解不能な日本人の思考回路を、どう理解し、どう説明していくかが面白い。

日本人による「恩」の観念について書いている。

「恩」にはいろいろな用法があるが、それらの用法の全部に通じる意味は、人ができるだけの力を出して背負う負債、債務、重荷である。
日本人が「私は某に恩を着る」と言うのは、「私は某に対する義務の負担を負っている」という意味である。そして彼はこの債権者、この恩恵供与者を彼らの「恩人」と呼ぶ。

「恩」とは相手に対して負債を抱えることである、と。微妙に外れている。ファールチップ、というところか。

ただ、こういうのを読むと、アメリカ人的思考と日本人的思考の差が如実に見えてくる。

ベネディクトは「恩」を相対的なものとして捉えている。人と人との間で、キャッチボールするように行ったり来たりするようなものというイメージで語っている。受動と能動の関係性という思考から、抜け出せない。

「恩」は、相対的な能動や受動の関係性ではなく、ある意味で絶対的な中動態的なものだろう。アメリカ人の思考方法が、いかに能動受動に縛られているかが分かる。そして、その能所関係ではない世界があることに、気付けない。

そんなベネディクトにぜひ読んでもらいたかった本は、菊池寛の「恩讐の彼方に」だな。あれを理解できるのだろうか。自己実現の話だね、なんて陳腐な結論に至ることのなきように。

「菊と刀」と並行して、会田雄次著「日本人の意識構造」を読んでいる。

会田雄次は、この本の中でルース・ベネディクトに苦言を呈している。

会田雄次はヨーロッパ史研究者。後年は日本人論を多く書いている。太平洋戦争に一兵卒として従軍し、ビルマ(ミャンマー)で終戦を迎えた後に現地のイギリスの捕虜収容所で過ごした日々を記録した「アーロン収容所」はかなり面白い。日本人とイギリス人の差異を、是々非々で観察して書いている。

「日本人の意識構造」を読んで、なるほどと思った表現として、日本人は「白紙化」であるがヨーロッパ人は「黒紙化」であるという。日本人は、常に相手の立場になってものを考える、察するという態度がある。それは言わば「白紙化」であり、相手に自分の色を合わせることができる。しかし、ヨーロッパ人の態度は、相手の経験も体験も全て取り込み、自分の紙にその色を塗り重ねていく。絵の具を混ぜていく、という考え方であり、次第に紙は「黒紙化」していく、ということだ。

今日でもイギリス人は、新聞紙上で「第二次大戦における日本軍の英人捕虜虐待」の特集をほとんど定期的と言える執念ぶかさで行なっている。「日本軍残虐行為特別展覧会」というのが、町や村の盛り場や百貨店で行われている。
だが、それをもってただちにイギリスの指導層は、日本人に対する反感だけを鼓吹していると考えては行きすぎであろう。そういう側面もたしかにある。だが、彼らは、父祖の体験を自分の体験にしようとしているにすぎないともいえる。この場合、イギリスの青少年の考え方はこうだ。日本の青少年が戦争体験を押しつけられるのに反対するとは、逆の考え方なのである。押しつけてくれ、体験化させてくれ。だが、それを体験化したって、そう体験を直接味わった人と同じ考えを持つというのではない。「ただその上で自分で考える」ということなのだ。

非常に素晴らしい、わかりやすい例えだ。

もちろん、この白紙化と黒紙化のどちらが正しいなどと言っているのではなく、人間の物の考え方には、このような差異があるのだと述べている。

そうやって考えていくと、なぜ日本人が時代とともに素早い変わり身を取れるのかがよくわかる。明治になって徳川時代を排して西洋列強に伍そうと考えてからわずかな期間で世界に進出していったか。また、鬼畜米英と罵りながら戦った相手に、一晩明けたら全てなかったかのように民主主義は素晴らしい!と転換できるのか。
長所でもあり、時に短所にもなる。だからこそ、個性が乏しく、全てが曖昧で、何事もはっきりしないと見られるし、実際にそうだ。自分の意見よりも先に、周囲や世間の目を気にしてしまう。

では日本人は本当にただの白紙人間なのか?というと、なんとなく、紙の種類がそもそも西洋と違うのだろうと思った。日本人も異文化の絵の具を取り込んでいくのだが、その紙の「裏側」にどんどん吸い込まれていって、そこに滞留するのではないか。白紙なのは表向きだ。

会田雄次も書いているが、西洋は縦社会と横社会が編み込まれた織物のような社会構造であり、全てが表。一方の日本社会は縦構造で成り立ちながらも、その裏側に糊打ちがしっかりしてあるのだと言う。

本音と建て前、ウチとソト、上司の前での発言と同僚同士で語られる内容の差異、祇園の芸者文化、日本では全てが裏側の暗黙の了解だ。

このような、日本人と西洋での考え方の違い、社会性の違い、または同一性、それらを知ることで、冒険や探検の根源が見えてくるのではないかと、手探り中だ。

探検が覇権主義と手を結んだのは、大航海時代以降だ。そこにあるのは資本主義でもある。資本主義を知るには自由と責任、公共性を知る必要がある。

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