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夜に思う


『死ぬ』が人生の選択肢に無かった頃って、一体どんなんだったんだろう。
毎日何を考えて過ごして、何を想って眠っていたんだろう。

忘れてしまったし、私はもう、二度と戻れないんだろうなと思う。
働けるようになった、今でも思う。

こんな自分にした、全ての存在が憎い。
私自身もコミ、で、憎い。

いや、私自身がワタシを責める必要はあるのか?

ワタシは悪いのか?

いいや、ワタシも悪い。
そうなのだ。



いつまで縛られなくちゃいけないんだ?
どうやったら解放されるんだ?
いつまで疑って、怯えて、耐えて、偽って、夢も憧れもない残りの時間を、一人ぼっちで過ごしていかないといけないんだ?


生きていて、楽しみも目標もない毎日だ。
苦痛と空虚、そして『死ぬこと』が選択肢に残り続けているだけの人生だ。


失うばかりの人生で、もうきっと、誰のことも信じられない。

誰かと生きていくこともできないし、生きていきたいとも思えない。

できることなら、誰とも繋がりたくない。
でも、孤独もつらい。

傲慢だなぁ。


『ただ生きているだけでいい』
そんな頃に戻りたい。
リセットボタンがあるなら、すべて最初からやり直したい。

前に進む道と、後ろに繋がる道がある。
それは分かっている。

戻ることはできない。

でも、進むこともできない。

ずっと。ずっと。

立ち止まって、うずくまって。

未来を希求することも。
幸せを望むことも。
私には。
もう、私にはできない。

望む未来や幸せは、望んでは、欲してはいけない未来らしい。

私が今も望むのは『人生のリセットボタン』を押すことだ。


でもそれは、ダメらしい。
なぜ?
どうして人間は生きなくてはならないのか。

考える。

死ぬことは、悪らしい。

ということは、その悪の原罪は『生まれてくること』なのではないのか?
『生きていること』自体が悪なのではないのか?

だって『生』がなければ『死』は無いじゃないか。

生きていることが、生まれたことが悪なのに。
それなのにどうして、同じ悪である『死』は許されない?
生きることのみが賛美される?

生も死も、同じ『悪』じゃないか。


死を望むと、生を賛美する人々に叱られる。
貴方たちが盾にしている生も悪だろう。
なんで偉そうに言うんだと、思う。

理不尽だ。



今夜も不安が襲ってくる。
衝動が襲ってくる。

昨日も。明日も。


きっと。ずっと。



それなのに。平気な顔で仕事をする自分もいる。


最近は、仕事以外していないから、他の自分は分からなくなった。

誰かと会っている時って、どんなんだっけ?
友達と過ごす時って、どんなんだっけ?
趣味って、なんだっけ?

病気の自分と、やりたくはない仕事をしている自分。

毎日、それだけだ。

病気の自分を少しでも忘れるために働いている。
お金を稼ぐために働いている。

残りの時間は『病気の自分』と一緒に過ごしている。

そんな感覚だ。



つらいね。
きついね。


発症した当初のような、猛烈で、選択肢が一つしか思いつかないような『希死念慮』ではなくなってきている。
そういう意味では、“治ってきている”のかもしれない。

ただ、確実に言えること。

生きることの意味は、まったく見つけられていない。

生きたい、とも思えない。


それは、怖いから。

再び恐怖と苦痛のどん底に、叩き落とされるのは恐怖でしかない。
その可能性がチラつくだけで、耐えられない。


生きてさえ、いなければ。

もう怯えることはない。
なにも不安に思うことも、誰かや何かを、そして過去を妬むことも、後悔することもない。


生きてさえ、いなければ。


そう思う。


私にとって、恐怖と苦痛の根源となる足音が聞こえる。
勘違いなのか、現実なのか。

あらゆる気配や視線を敏感に感じ取り過ぎる、無駄に研ぎ澄まされた自分の感覚が嫌いだ。




タイムリミットは、近いのかもしれない。




そんな恐怖と共に、今日も夜だ。


「noteで稼ぎたい!」そんな想いで書き綴っているのでは決して無いのですが…。 なんせ無収入の現実です。。。 もしお気持ち・お心添えを頂けることがあるのなら、めっちゃ嬉しいです! 治療に向けての日々のため、大切に使わせて頂きます。