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季節外れと風鈴と

 ―――季節外れ、というのが正しいのか、それとも季節通りというのが正しいのか.........。

 手元の温度計をふと見ると、たったの21℃。雨が降りしきる家の外は、20℃を優に割っている。夏の終わりは、突然に。そして、薄気味悪いくらいに。暦に忠実にやってきた。

 少し前、それも夏の終わり、8月31日の頃には、外を歩くという行為には身の危険を感じたものだ。背負い鞄と背中の間がぐっしょりと濡れる。マスクをつけていることを後悔し、人がいない場所ではこっそりと外して歩く。いくら短い袖の衣服を身に着けようが、冷感素材を身に着けようが、サンダルで通気性を稼ごうが、そんな健気な努力を嘲笑うかのように、熱気ははっきりと質量を伴って、全身に重くのしかかる。ひとたび歩けば、自分の手足がどっしりとした熱気の層をぶわっ、ぶわっ、と切り裂いているのが分かる。陰の外に出れば、すかさず燦燦とした太陽が真っ黒な髪を熱し尽くす。人間の髪が黒いのをこれほど呪うことはなかった。

 そのはずだったが、9月になった途端、熱気は嘘のように消え失せた。駅のエスカレーターを降りて外を歩くけば、一歩踏み出すごとに、半袖から露出した腕が、心地よい冷気の中をするり、するり、と抜けてゆく。マスク越しでも、まっすぐに吸える空気。一切風のない、冬場の月夜を想像させるくらい空気が軽いのが分かる。小雨が舞っていて、雲が空を覆っているというのに。

 こんなはっきりとした境目が、夏の終わりである8月31日と、秋の始まりである9月1日との間でまっすぐ引かれたことは、記憶の中ではなかったと思う。

 もしも夏の神と秋の神がいたとしたら、彼らの関係性はこうだと思う。夏の神様は夏休みの宿題を最終日までため続ける小学生で、秋の神様は夏休みの宿題の提出を待ち続ける担任教師。もちろん、夏休みの最終日に必死になってやる宿題が終わるわけがなくて、夏休みが終わっても宿題を出し切れないやんちゃ坊主。黒板の左端に「夏の神様くん ポスター未提出」「夏の神様くん 読書感想文未提出」と書かれるタイプだ。「お前の中ではいつまで夏休みのつもりなんだ」と、周囲や秋の神様に言われる始末。ずーっと夏が終わるのを先延ばしにして、結局9月の下旬位に全部提出しきる。そうして、やっと夏休みが終わるタイプ。

 ところが、今年の夏の神様は、やけに生真面目だったらしい。宿題の提出日にかっちり全ての提出物を出し切って、秋の神様の前で全力のどや顔をしている。「どうだ、参ったか」と言わんばかりに。

 秋の神様としては、夏がそんなに早く全部の提出物を出してくるなんて思ってもいなかった。だから、逆にどう対応していいか分からなくて、調子が狂ってしまった。そうとしか思えない。

 そんなことを考えながら、薄着の人々を横目に家まで向かう。

 りいん、りいん、りいいいいいいん。

 ただでさえ軽くて澄んだ空気すらも追い越して、澱みのない涼音がまっすぐこちらに飛んでくる。秋の神様の調子が狂った中では、いささか寒気すら感じるほど透き通った音であった。

 思わず歩調を緩めて音の主を探してみると、それは蕎麦屋の入り口にぶら下がっている、鉄細工の風鈴であった。

 まっすぐに吹いてくる風に任せてその身を大きく揺らし、りいん、りいいいいいん、と健気に透明な音を奏でていた。空気が軽いから、過剰なまでにその音色は響き渡ってしまう。既にこんなに涼しいというのに、せっせと自分の役目を果たして鳴く風鈴を眺めているうちに、なんだか哀愁すら感じてきた。

―――涼を告げる音って言っても、これはちょっと違うよなぁ。

 季節外れだと感じつつも、これは健気な風鈴を責めるわけにはいかない。

 あまり聞いていると余計に寒く感じてきたので、音の主に背を向けて、早々に去ることにした。

 今年は嫌に生真面目だった夏の神様。やっぱり性根はやんちゃ坊主で、健気な風鈴を振り回し、いたずらをして遊んでいたのかもしれない。

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