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【舞台】『ラフヘスト~残されたもの』

『ラフヘスト』
東京芸術劇場シアターイースト 7/26(金)13:30

在日コリアン3世であるソニンさんが、今回初めてご自身のルーツに基づく役を演じられ、また訳詞も担当するということを聞き、祝杯をあげるような気持ちで観に行ったが、非常に良い舞台であった。

舞台は、簡潔に言えばキム・ヒャンアンという女性の伝記である。

韓国を代表する天才芸術家と称された実在の二人の男性。
鬼才と言われた詩人イ・サン。韓国抽象美術の先駆者キム・ファンギ。
そして自身もエッセイストで評論家で西洋画家でもあったキム・ヒャンアンは、この稀代の天才二人を夫に持った稀有な人生の持ち主。
本作はそんな彼女=キム・ヒャンアンの人生を史実に基づいて描いたオリジナル・ミュージカルだ。
京城(現在のソウル)、東京、パリ、ニューヨークと1930年代を生きた女性としては稀なる経験で世界を渡り歩き、夫を支える古き女性像の中で生きながらも、自身の才能だけでなくパートナーたちの才能をも開花させた。パートナーたちへの愛によって芸術を完成させてたキム・ヒャンアン。
このミュージカルは彼女が愛した人生を辿る旅だ。

https://bellewaves.jp/lart-reste/

本作で非常に興味深いのは、若き日のヒャンアン(トンリムと名乗る)と、老年にさしかかったヒャンアンの時間が交差することである。前者は詩人イ・サンと出会い、恋に落ちて結婚し、やがて彼の死を東京で看取るまでを、後者はヒャンアンが二人目の夫ファンギを亡くして絵を描き始めたところを基点に、彼との死別、ニューヨークやパリで結婚生活を楽しんだ時代、二人が親密性を育んでいく若き日、と過去を遡っていく。
すなわち、この舞台ではこの二つの時間が徐々に近づいていくのであり、舞台は最後、トンリムがイ・サンを看取った後、ファンギと出会う場面で幕切れとなる。それはさながら地平線の一点に向かって複数の線が収束していく一点遠近法のような構成であり、ヒャンアンという女性の内面世界での過去との対話、がこの舞台の主眼である。

本作の時間演出で面白いのはそれだけではない。トンリムの青春時代と、ヒャンアンの壮年期とは別個のものとして存在するのではなく、時折、ヒャンアンは先に待ち受ける未来についてトンリムに助言をしたり、ヒャンアンがファンギとの関係性のなかでトンリム時代のことを回想したりするように、二つの時空は入り混じる。前者は未来を先取りするフラッシュフォワード、後者はフラッシュバックと呼ばれる物語技法だが、前者はヒャンアンが手帳を開き過去のことを回想する、という舞台全体を貫くフラッシュバック法のなかで行われるフラッシュフォワード法である。一方でヒャンアンの物語が過去に向かって後退していくなかで回想されるトンリム時代は、ヒャンアン時代に向かって前進している。
フラッシュフォワード、フラッシュバックともに錯時法と呼ばれる物語技法だが、『ラフヘスト』はこの錯時法を巧みに用いて物語を進行させており、時間と、その時々の時空で展開された感情とが幾重にも折り重ねられることによって、たった4人のキャストで演じるというこの簡素な舞台に深い奥行きと豊かな陰影がもたらされている。
フラッシュフォワードもフラッシュバックも、もちろん(舞台と同じ、ある時間軸に沿って物語が展開するという意味では共通点のある)小説で用いることのできる技法であるが、途中まで過去と今、という風に並置され、交わらずに未来へ進行し、あるいは過去に遡及していく二つの時空がいつの間にか混じり合い、時空として独立していたかのように見えるトンリム時代がいつの間にか、ヒャンアンによる回想へと組み込まれている、といった構成は、舞台という表現が持つ可能性を最大限にいかしているように思う。
ヒャンアンとトンリムの時代が徐々に近づいていくこの構成は、この一人の女性がどのような傷を抱え、そこからどう立ち上がっていったのか、という人生の転機を、彼女の人生の最も奥底の部分として設定し、それを明かすような形にもなっているが、それが徐々に明瞭になり、それ故に(絶対にそれそのものして引き受けるしかないような)重さと複雑さを持ってヒャンアンの内面が立体的に立ち上がっていく様子は素晴らしかった。

4人のキャストは誰もが素晴らしかった。人生の辛酸を舐め尽くしたような枯れた雰囲気を纏いながらもまだ自己との葛藤を続けるヒャンアン、相葉さん演じる好青年ながらもどこか独善的で孤独な詩人であるイ・サン、古屋さん演じる純朴で誠実そうなファンギ、そして山口さん演じる若く瑞々しいトンリム。
キャストは4人、音楽もピアノとヴァイオリンのみというシンプルな構成だが、キャスト全員の歌が素晴らしく、これぞミュージカル、という満足感があった。3列目で観るとやや音が大きすぎるような瞬間もあったが、全体的に楽器が美しく響き、そこに艶とハリのある4人の歌声が心地よく乗り、音楽面でも非常に楽しめた。
中でも印象に残ったのはやはりソニンさんである。冒頭からフルスロットル、という印象を受け、その歌、その佇まいに圧倒された。なんとなくだが、ヒャンアンの持つ切実さや苦しさという以上に、ソニンさん自身の何らかの切実さのようなものが歌や演技に乗っているように見えて、それが俳優として望ましいのかどうか分からないけれども、彼女が自身のルーツに沿った役を演じることを祝う気持ちで観に行った者としては、そうした彼女の様子に強く胸を打たれた。
以前、井上芳雄さんが『芳雄のミュー』で「僕は外国人の役ばかり、日本人の(=自分のエスニシティと同じ)役をやりたい」とゲストの岡宮来夢さんにこぼしていたのが印象に残っており、海外からの輸入ものばかり、和製ミュージカルもなぜか西洋モチーフのものばかり、という日本ミュージカル界の偏向のなかで、ソニンさんが『ラフヘスト』を演じる、ということの意味は非常に大きいように思うのだ。
ヒャンアンは非常によく似合っていたし、非常によくできた作品だとも思ったので、集客は難しい演目かもしれないが、またブラッシュアップをして再演してほしいと思うし、イ・サン繋がりで今回のキャストで『SMOKE』を観たいとも思った。

舞台装置は個人的にはあまり好みではなかったというか、上に吊るされているオブジェ類の意味がよく分からず、全体的に散漫な印象を受けた。
本作は(あるいはヒャンアンの人生は、と言ってもいい)、作中でイ・サンとトンリムが、同時代の芸術思潮に関心を持っている、という共通項から出発する。二人はドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』について到底善悪二元論で解釈しきれないことを語り合い、お互いに注目した点として「無意識!」と声を重ねる。二人が出会った1930年代は(作中でも言及されていたが)「モダニズム」華やかなりし時代であり、いわゆる前衛芸術、アヴァンギャルド芸術が芸術思潮のメインストリームに躍り出ている時代である。
加えて、ファンギもピカソやキュビズムに憧れており(そして彼は抽象絵画の画家として大成する)、トンリム(ヒャンアン)はそうした当時の最先端のものを理解し愛する知的な女性であり、それ故にイ・サン、ファンギと芸術家のパートナーとなって、自らも芸術の領域で成功を収めたのである。
とすれば、物語内容と密接に結びついた視覚言語として、アヴァンギャルド芸術があるはずで、(個人的にそれが好きなのもあり)そのような舞台装置で観てみたかった、と思うのである。
ただ、舞台の時間は1930~1980年代に及んでおり、またひと口にアヴァンギャルド芸術といっても多様であるため、ひとつのイメージで固定することは舞台の見え方や解釈を硬直化させる恐れもあるだろう。
一方、小さな坂を模した廻り舞台のような装置は役者自身が押して回す、という点も含めて良かったように思う。アフタートークで「自分で時間を進める(運命を押し進める)のようなイメージ」という言及もあったが、そのような意味では「時間」というものが重要なモチーフとなっている本作の舞台にはぴったりの装置であったのかもしれない。

 ストーリー上で心惹かれたのは、イ・サンが一人で東京へ行きたい、と告げる場面だ。
 結婚して3か月で、イ・サンは一人で東京は行きたい、と告げ、それに対してトンリムは悲しみと怒りを露わにする。だが、揺るがないイ・サンに対し、トンリムは「私にできることはないの? そう、ないのね。じゃあ一人で東京に行ったらいい」と返す。
 目の前にいるはずの、一度は愛を通わせた相手が、自分の存在など意味がない、愛など届かない地平に行ってしまう、凄まじい愛の挫折。
 一方で、「詩人としてどうしても一人で東京に行きたい」という、それもまた絶望にも似た渇望。詩でも何でも、何かを創作することに自分の存在がかかっているとき、もはや他者の存在は意味を持たない。自分をどれほど深く愛してくれる他者でも、自分が何かを生み出すことと戦っているとき、その愛はどうやっても無意味だし、それが自分の方を向いて、というロマンティックラブ性を帯びるときには切り捨てたいものになる。その時に戦っているのは、克服したいのは、寂しさや孤独ではない故に、他者からの関心は余計なものでしかないのである。
 どちらとも随分と身に覚えがあり、トンリムにも、イ・サンにも強く共感し、心が二つに引き裂かれそうな場面であった。



ミュージカル『SMOKE』との関係も少し言及しておきたい。
『SMOKE』との関連でまず考えておきたいのは、同作も『ラフヘスト』も日本が朝鮮を植民地化した時代を扱っているという点だ。この二つのミュージカルでは直接言及されず、最近光文社から刊行された『李箱作品集』に詳しいが、イ・サンは自分の母語である朝鮮語と、強制された日本語との間で引き裂かれつつ、新たな言語表現を探った詩人である。彼の作品は少し読んだだけだが、そこには「日本の植民地支配」という暴力、および彼がそれと苦闘した痕跡が刻み込まれている。
 私が観た『SMOKE』は2024年版であり、ネットでは以前の訳詩よりも歴史性が削がれている、という指摘が多かった。それもあってか、(何も調べずに観てほしいというファンの声が多かったので)何も前情報を入れずに観た際には結局時代背景も、李箱という詩人をモデルにしていることもほぼ分からず、舞台を観た後に調べて初めて分かった。故に観ている時は、男性二人の間に共犯関係と愛憎があり、伴奏がピアノ一本という類似性から『スリルミー』のようだと感じ、ネットでも同じような印象を抱いた人を見かけたように思う。
 つまり、2024年版『SMOKE』は観た際の印象と、実際にモデルとなった詩人について調べた時に見えてくるものとの落差があまりにも激しく、後者こそ日本人として向き合うべきものであるということだ。換言すれば、『SMOKE』や『ラフヘスト』のような、日本の朝鮮支配が直接関わっている韓国ミュージカルを日本人が楽しむということのグロテスクさを、(これらの作品が好きだ、面白かった、という気持ちは無論大事にしておくとして、そことはまた別に)きちんと考えてみるべきなのではないか、ということだ。
 そして、『ラフヘスト』はそのような文脈において、ソニンさんが初めて自身のルーツに沿った朝鮮人の役を演じることができたということの意味と、意義とを考える必要があるように思う。


(以下、余談。『SMOKE』の重大なネタバレあり。観た人だけ読んで)。



『SMOKE』もオチとしては、全てイ・サンの精神世界での出来事であった、というものであったが、『ラフヘスト』もそれ自体をオチとはしないものの、構成としては似ているように感じた。韓国ミュージカルについては全然知らないのだが、このような構成法が流行っているのだろうか(それこそBWやWEでは見ないタイプだなあと)。





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