かおる

舞台、美術展、本、映画などのレビュー記事など。アカデミアの端っこでこっそり芸術研究をし…

かおる

舞台、美術展、本、映画などのレビュー記事など。アカデミアの端っこでこっそり芸術研究をしています。

最近の記事

【舞台】『スリルミー』――松岡広大さん演じる「私」の痛ましさについて

※松岡さんの演技のここが好き、という話を一生するだけの記事。 ※以前ツイートしたものをベースとして文章化したもの。  ――何を知りたい?  倫理審査委員会から真の動機を訊ねられた時、俯いていた「私」はゆったりと顔を上げる。黒く蟠っていた闇の中から徐々に「私」の顔が仄明るく浮かび上がり、観客はそこで初めて「私」という男の顔を目にする。  「何を知りたい?」 そう訊ね返すとき、松岡さん演じる「私」は薄っすらとした不安、微かな警戒心、そして苦い痛みを滲ませる。自分の最も触れられた

    • 【舞台】『スリル・ミー』の背景――ユダヤ人のゲイであるということ

       舞台『スリル・ミー』は、1924年、アメリカで起きた殺人事件を題材としている。作詞・作曲・脚本を手がけたステファン・ドルギノフは過去公演のパンフレットにおいて、以下のように述べている。  この事件の犯人である青年レオポルドとローブの二人がなぜ殺人という極限に至ってしまったのか、そのことを彼らの親密性から捉え直すこと。これがドルギノフの意図であった。  ドルギノフは、「私」(=レオポルド)が「彼」(=ローブ)に執着した結果、99年の終身刑という歪な鳥籠に「彼」を閉じ込めよう

      • 【美術】光、空間の調律者から純粋なる存在への道程「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」(新国立美術館)レビュー

         光とは、我々にとっていかなる存在なのだろう?  この展覧会を訪れた日、ようやく訪れたかのように見えた秋の涼しさは早々に休息をとり、残暑の厳しい光が私のうなじを焼いていた。昼に訪れた新国立美術館は太陽に燦々と照らされ、いかにも現代建築らしい無機質な肌が輝いている。中に入れば、複雑な骨組みを持つガラス張りの大きな窓から、光が木漏れ日のように降り注ぐ。その光景は、美術館の空間にふさわしく、ある種のインタスタレーション的な性格すら帯びていた。  そう、何も年々高くなっている入館料を

        • 【美術】どこでもない風景画の光「野又 穫 Continuum 想像の語彙」展(東京オペラシティ アートギャラリー)レビュー

           野又穫の描く風景は、随分と奇妙なものだ。それは彼の絵が、どこの、いつの時代とも知れない建築を描くからではない。突如として屹立する建造物は廃墟のようでもあり、作りかけのようでもあるようで、それでいて何処からも人の匂いがしない。だが、そうであるはずなのに、野又の絵は見る者を何かしら懐かしい気持ちへと誘う。懐かしい、という感情は、私はそれをかつて見たことあるという感覚――翻せば、それはどこかに存在していたという感覚に支えられている。  つまり、野又の絵が持つ奇妙さとは、何処にも存

        【舞台】『スリルミー』――松岡広大さん演じる「私」の痛ましさについて

        • 【舞台】『スリル・ミー』の背景――ユダヤ人のゲイであるということ

        • 【美術】光、空間の調律者から純粋なる存在への道程「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」(新国立美術館)レビュー

        • 【美術】どこでもない風景画の光「野又 穫 Continuum 想像の語彙」展(東京オペラシティ アートギャラリー)レビュー

          【舞台】暗澹たる青春劇としての『スリル・ミー』――「彼」と「私」の若さと未成熟さをめぐって

           どうか、僕を恐れてほしい。  タイトルともなっている「スリル・ミー」は、「私」から「彼」に向けられた狂おしく、切ない告白だ。作中幾度か口にされるこの言葉は、この舞台における「愛している」だと言ってもいい。だが、「愛している」という言葉が、思いが「僕を恐れてほしい」=「スリル・ミー」という形をとらざるえないところに「私」と「彼」の悲劇があり、その顛末を駆け抜けるようにして描くのがこの舞台の眼目である。  ストーリーはいたってシンプルだ。  舞台は、服役中の「私」が過去を語る

          【舞台】暗澹たる青春劇としての『スリル・ミー』――「彼」と「私」の若さと未成熟さをめぐって

          人形のリアリティとは何か――松濤美術館「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」展レビュー

           その展示空間はいささか、というよりもだいぶ奇妙なものであった。展示室へと足を踏み入れると、右手には見慣れすぎるほど見慣れているリカちゃん人形、そして左手前方には見るのは初めてでありつつもその異様な形から呪術的なものであることが瞬時に了解される古代の人形とが同時に視界に飛び込んでくる。その二つの展示品の間にも、やはり様々な人形が思い思いの立ち振る舞いをしている。  この展覧会の名は「私たちは何者? ボーダレス・ドールズ」。この名に端的に示される通り、本展は民俗、考古、工芸、彫

          人形のリアリティとは何か――松濤美術館「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」展レビュー