#文化の日 『スローフード宣言』
このごろ、食べることばかり考えている。
もともと食いしん坊なのもあるが、今長期的に挑んでいるプロジェクトのなかで、より多角的に食と向き合うようになった。
そんななか、縁あってとあるサンプル本をいただいた。
アリス・ウォータース著、小野寺愛訳、『スローフード宣言 食べることは生きること』だ。
島根県の離島にある「海士の風(あまのかぜ)」という小さな出版社から出されたこの本。著者の価値観に近い出版社と組みたいという思いからここに決まったそうで、なんだかその成り立ちを思うだけでわくわくしてしまう。
せっかくの文化の日ということで、この本を紹介しつつ、私が最近考えている食のことについても綴ろうと思う。
・食べることは生きること
「食」というのは単に体を生かすだけでなく、心を生かすものでもある。
アリス・ウォータースは、私たちが何かを食べる時、私たちはその食にまつわる「文化」も一緒に飲み込んでいるということを書いている。特に「ファストフード(早くて、安くて、便利で、大量生産されていて、世界中どこへ行ってもどの季節でも同じような味の食べ物)」によって、今世界中にファストフード的な文化や価値観がはびこっていることを危惧している。
つまりファストフードを食べることで、なんでも早くて、安くて、便利で、大量生産されていて、いつでもどこでも同じであったほうがいいという心が、知らず知らずのうちに育ってしまうということだ。その心のあり方は、私たちの生きる環境や、娯楽や、政治にまでつながっていく。
逆に言えば、食のあり方を改善すれば、私たちの心や暮らしも改善されるということだ。そこでアリスが提唱しているのが本のタイトルでもある「スローフード」である。本の中ではこれについて、「美しさ」「生物多様性」「季節を感じること」「預かる責任」「働く喜び」「シンプルであること」「生かしあうつながり」というトピックごとに語られている。(詳しくは読んでほしい)
私たちは日々ごはんを食べる。その食事がどこでどのように育まれ、どんなふうに調理され、どんな空間で誰と何を話しながら食べるのか。そういったことの積み重ねが、私たちの体と心を作っている。食事が変われば自分の心も暮らしも社会に対する眼差しも、あらゆることが変わっていく。まさに「おいしい革命」である。
・私の食歴
この本を読みながら、自分がこれまでどんな食事をしてきたかということを思い返していた。「職歴」ならぬ、「食歴」である。
まず思い出すのは保育園での食事。私の通っていたところは自然との触れ合いや季節行事に対する志が高く、食育にも力を入れていた。もう20年以上前になるが、ご飯が麦ご飯だったことや、おやつに煮干しせんべいを食べていたこと、誕生日会では手作りケーキをみんなで囲んで食べたことなど、よく覚えている。
それから、家での食事。実家は共働きでありながらも、主に母が日々バランスの良い食事を作ってくれていた。おかげで食べ盛りの時期にちゃんと肥えたし、食べ物の好き嫌いはない。
それから祖父母との食事。両親の都合がつかない時は祖父母が来て、ちらし寿司や新鮮な果物を食べさせてくれたし、正月には手の込んだおせち料理を作ってくれた。また、田舎へ行けば新鮮な魚や、畑で育てた野菜、山で掘ったたけのこなどを食べさせてくれた。
そして、自分で作る食事。自分でごはんをつくり始めたのは、小学4年生のころだった。学童を卒所し放課後自宅へ直帰するようになると、暇を持て余してお腹が空いた。ちょうど放課後の時間帯に流れている料理番組を見ているうちに、自分でやってみたくなった。
初めは卵焼きとか、簡単なものからだったと思う。次第に作れるものも増え、親や妹に「おいしい」と言ってもらえた経験を重ねて、ごはんを作ることが好きになった。何より、自分の食べたいものを自分で作れるということに喜びを感じ、自信がついた。
こうして振り返ってみると、私には「食」を通して体と心を育む土台がしっかりあることに気づく。こればかりは、これまで私を生かしてくれた人たちへの感謝に尽きる。幼いころから現在に至るまでに重ねてきた全ての食体験が、今の私を形作っている。おかげで私の中には、「おいしいごはんを楽しく食べられれば大丈夫」という大きな肯定感が根付いている。
・最近、何食べてる?
友達の様子を知りたい時、「最近どう?」と聞くより「最近、何食べてる?」と聞いたほうが状況がよくわかるような気がする。
周りの同世代では毎日パックのご飯だったり、家で食べる習慣がなかったり、そもそもちゃんと食べていなかったり……。本当に、食の寂しさや優先順位の低さを感じることが多い。
でも、そんな友人たちを招いて食卓を囲めば、みんなご飯の土鍋を開けた瞬間顔がほころぶし、じっくり焼いた芋やとうもろこしに感動する。
みんな、本当は食事の楽しみを知っているはずなのに、それができない、優先されないのはなぜなのか。
経済的な貧しさ、住環境の悪さ(都会のひとり用マンションのキッチンは狭すぎる)、時間的余裕の無さ、人間関係の希薄さなど、要因は色々あるだろう。しかし何よりも大きいのは、アリスの言うファストフード的な価値観が世の中に広がっていることなのではないかと思う。
本質より、表面的な効率やスピードが優先されること。過程を楽しむより、わかりやすい結果を求めること。安ければ安いほどいいと思い、その背景でしわ寄せが行く誰かのことを思えないこと。そういうサイクルの中で簡易的な食事が繰り返され、心に虚しさが積もっていく。
今、生きるのが辛かったり難しいと感じている人は、まず身近な食事を変えてみるというのはひとつの手かもしれない。小さなことからでいい。食べる時間帯を変えてみたり。ひとりの食事に誰かを誘ってみたり。パックのご飯を炊飯器に変えてみたり。八百屋で目に止まった野菜をひとつ買って食べてみたり。そういう小さな瞬間にこそ、生きる喜びが潜んでいるかもしれない。
「丁寧な暮らし」という言葉が揶揄的に使われることもあるけれど、決してハードルの高いことではないと思う。お金が少なくても(少ないからこそ)丁寧は実践できるし、手間暇かけた分これまで見逃していたことがきっと見えてくる。時間がないならば、本当にその忙しさが幸せにつながっているのか見つめ直すべきなのかもしれない。「丁寧」とは「自分を喜ばせること」だと思う。自分の喜ばせ方を知っている人は強い。
・最近おいしかったもの
最後に、最近心からおいしい(その過程や空間も含めて)と思った食の一部を紹介する。すべて、鹿児島県阿久根市にて。
まだまだ紹介しきれないほどおいしいものをたくさん食べて、心も体も満たされた。やっぱり自然の恵み豊かな町は、食も人も生き生きとしている。アリス・ウォータースが本に書いたようなことが阿久根では当たり前に実践されていて、その魅力を再発見することができた。
都会でも、形は違えど出来ることがあると思うから、私はひとまずおいしいごはんを探求して、好きな人たちと楽しく食べたい。
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