直せども、直せども

 11月10日に新刊『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)を発売する。201年7月に『ライバル駅格差』を上梓して以来だから、実に1年以上も間隔が空いたことになる。

 とはいえ、1年に1冊以上のペースで新刊が出せていることは、物書きとしては僥倖であり、順調と言えるかもしれない。それでも、久しぶりの感覚に戸惑うこともあった。

10校は当たり前 驚愕の広告業界

 大学を卒えた後、就職することなくプラプラしていた私は広告の校正専門会社に潜り込むように働き始めた。と言っても、わずかな期間だけアルバイトをしていたに過ぎない。それを「働いていた」というのは、カッコつけた表現かもしれない。

 ともかく、校正専門会社に出社して、上司から言われた作業をこなし、時間になったら退社する。それを繰り返した。

 だが、先に言ってしまえば、広告の校正というのは非常に独特の感性とスキルを要求される業界で、とても自分にはできない、向かない職場だった。

 結局、1ヶ月で根をあげた。そして、結果的にクビになるのだが、その短い期間で目の当たりにした広告校正の職人たちの執念というか信念というか、内なる秘めた思いは凄かった。

 一口に広告といっても多種多様だが、私がアルバイトしていた校正会社は主に新聞の折込チラシを専門的にチェックする会社で、業界では厚く信頼されていた。業界内では、かなり有名な会社のようだった。

 折込チラシといえば、近所のスーパーマーケットが特売品を知らせたり、新装開店のクリーニング店、ファミリーレストランなどをすぐに思い浮かべるだろう。実際その通りで、多くが地域に根ざした店の宣伝チラシだった。

 私が校正していたのは(覚えている限り)中古車販売店のチラシと全国展開しているスーパーマーケット、それとコンビニのチラシだ。

 スーパーのチラシがもっともわかりやすいが、チェーン展開しているスーパーは東京都内に数店舗あり、同じチェーン店であっても品揃えは微妙に異なる。また、特売品の入荷数なども違う。

 特売品はどの店でも同じモノを揃える傾向が強いと思われがちだが、実はそうしたケースは稀。各店舗によって特売品は異なっているため、チラシのレイアウトも地域によって微妙に変わっている。

折込チラシだって思想が反映される!?

 人間の目は左上から順に見ていくという習性があるので、目玉商品はできるだけ左上に配置される。また、スーパーのチラシは1日限りではなく、1週間単位で紙面が構成されていることもある。

 11月1日の特売品を左上に配置し、11月2日の特売品をその右に配置するのか?それとも下段に配置するのか? 3日は、さらに下に配置するのか?それとも1日の横に配置するのか? 

 こうしたレイアウトは、基本的にデザイナーが割付するのだが、ベテランの校正者はそれらの効果も考えて、レイアウトをチェックする。

 このチラシでは、何を、どう見せたいのか? それを効果的に反映させるためには、どうしたらいいのか? 商品の写真サイズ、カット点数、文字の大きさや書体、そのほかにバランスも重要になる。

 また、1日の特売品がトマトで、2日の特売品がリンゴとなっている場合、赤くて丸い食品が並ぶと見た目的にわかりづらい。山盛りの写真を使うのか、単体写真を使うのか? カゴに入った写真かそれとも箱に入った写真か? 視覚的な見栄えも校正者はチェックする。

 そして、肝心の値段。売価が正確であるのかどうかは当然ながら、その数字の大きさ、色、書体、ほかの商品とのバランスもチェックしなければならない。そして、食品と日用品の配置バランスも重要になる。

 特売品として売り出されるのは食品ばかりではない。スーパーでは日用品も扱い、それらが特売品として並ぶこともある。しかし、生鮮食品とトイレットペーパー隣り合うのは、見た目にも気分的によくない。そんな思惑から、両者は離れた場所に配置される。

 どちらも特売品であり、スーパー側としては2つとも買ってもらいたいという思いもある。そのスレスレの部分で、レイアウトや色、写真、写真のサイズなどがせめぎ合う。

 チラシの校正は通常でも10校ぐらいする。1校あたり7、8人でチェックするから、延べ人数で80〜100人ぐらいが目を通している勘定になる。

ベテランも見逃す

 コンビニで発売する新商品の弁当のチラシを校正していたときのこと。夏に向けて「スタミナ解消!」という宣伝コピーがデカデカと躍っていた。もちろん、これは間違い。

正確には「夏バテ解消!」でなければならない。スタミナという言葉を使いたければ、「スタミナがつく」といった意味合いにしなければならない。

 これが4校ぐらいまで残っていて、慌ててデザイナーに新しい文字をつくってもらったことがあった。校正のプロ集団が叡知を持ち寄って直しても、そういったミスが発生する。ミス発生のメカニズムは、本当に不思議で仕方がない。

 そして、もっとも正確性を要する売価は、8〜9校あたりまで記載されない。それが正式な売価と勘違いしてしまうから、ダミーとして数字を入れることもない。完全に白抜きにされている。なぜか?

 スーパーでは、生鮮食品は仕入れによって売価・入荷数が変わる。だから、2日前か前日にならないと決まらない。

 そうしたことから、校了直前まで売価は記載されない。そして、校了直前になって初めて売価が判明する。それでも、さらに売価は変更されることが多い。それほど、売価はリアルタイムで変わる。まるで生き物のようだ。

 校了直前は、本当に慌ただしかった。家に帰らない人は何人もいた。なかには、奥さんが会社まで着替えを届けに来たりもするのだが、会社のフロアに顔を見せて、開口一番「本当に仕事してるんだ?」と驚いた顔をした。内心、夫が浮気をしているのでは?と疑っていたようだ。そんな場面に遭遇したこともある。

 てんやわんやの状態になる校了直前は、それこそ全員が印刷所で待機する。待ち時間は長い。作業台の下に潜り込んで仮眠を取るのが当たり前。そんな笑い話も耳にした。

 そうやってチラシが刷り上がるのを待って、そこからデザイナーが売価を入れ、そこから校正者たちはチェック作業を始めていく。売価が正しい数字になっているか、色も合っているか、ほかの商品とのバランスが取れているか、などチェックする。

 食品は写真の見栄え購買者の印象を左右する。それが売り上げにも直結するから、作業は迅速かつ慎重さ、なによりもセンスが要求される。かなり神経をすり減らす仕事だ。ここで間違えるわけにはいかない。印刷物にとって校正者は最後の砦であり、守護神なのである。

縮小する校正

 一方、書籍の校正は広告ほどの回数を経ない。携わる人数も少ない。以前は4校ぐらいまでしていたが、最近は省力化が進んだ。1校あたり著者、編集者、社内の校正者、外部の校正者といった具合の4人体制でチェックしていた。

 そのうち外部の校正者がチェックをするのは3校ぐらいからの場合もあった。述べ人数で言うなら、15人前後の目でチェックしたことになる。明らかに広告より校正の重要性は低い。

 校正という作業は熟練が必要なスキルなので、腕の良し悪しは確実に存在する。しかし、熟練の校正者でも気づかない部分はあり、逆に素人目で気づくこともある。

 だから、できるだけ多くの目でチェックすることが校正は重要になってくる。

 最近は書籍が販売不振に陥り、経費削減を名目に校正作業がさらに疎かにされがちになっている。著者校は初校と再校のみが一般的になつた。

 外部の校正者を頼まないなんて話も聞く。校正者は縁の下の力持ちだが、その力量は表に出ることがない。校正作業を省いても、外部者、特に読者は窺い知ることができない。そのため、経費削減の格好のターゲットにされる。

 最近は、パソコンに内蔵されたソフトで文章校正ができるようになった。また、無料で使えるWEB校正ツールもある。それが校正の省力化を後押しし、省人化にもつながっている。しかし、いくらコンピュターの精度が上がっても、人間の校正能力に迫ることは難しい。

 例えば、以前にこんなことがあった。愛知県と長野県を結ぶ飯田線は、伊那谷(いなたに)と呼ばれる場所を走る。伊那谷を走ってきた飯田線は愛知県の豊橋駅で東海道本線と名鉄本線に接続する。その名鉄本線には伊奈駅(いなえき)があり、豊橋駅からも遠くない。同じ章に、伊那谷と伊奈駅が混在した場合、校正ソフトは「表記ゆれ」と認識して、2つの語句を抽出する。そして、どちらかに統一するように促す。

 校正ソフトの指摘を受けた編集者が、どちらかに漢字を統一してしまう。伊奈谷とすれば地名を間違えることになり、伊那駅とすれば駅名を誤ることになる。ちなみに、飯田線には伊那市駅もある。

 ほかにも、100キロメートルとするところをタイポしてしまって1000キロメートルと入力してしまうことだってある。

 時速100キロメートルと時速1000キロメートルでは、0キーを一個多く打ってしまったがゆえに、大きく事実は異なってしまう。

 このタイポのケースは、機械は気づけない。人間でも気づきにくいみすではある。

 また、文章中に「こうした間違いもあります」と間違い例を列記するケースもあるが、コンピュターはそれを間違いと認識して直してしまう。直したら間違いの例文ではなくなってしまうのに。

 著者・編集者・校正者は、協力してミスをひとつずつ潰す。それが校正作業といえる。しかし、いくら精力を注ぎ込んでもミスが出る。また、好意から発生するミスもある。

 以前に遭遇したケースでは、私が「将軍 徳川吉宗」と書いていた原稿に、内容を充実させようとした編集者が代数を入れようとした。そのときに「6代将軍 徳川吉宗」と入れてしまった。これは再校ゲラで気づき赤字を入れて再修正した。だが、気づかない可能性もあった。

 なにより、赤字を入れてもそれが反映される保証はなく、最近の書籍は再校で著者の手を離れてしまう。そのため、再校ゲラに入れた赤字がきちんと反映されているかを確認できるのは本が完成した後になる。

 また、間違いでないが、よりよい紙面をつくるために、こういった表現の方がいいのでは?とか、こういった写真を入れるべきでは?とか図がほしいといった赤字を入るれることもある。

 そんなわけで、著作を出すという作業は“書く”ことよりも、正確性を確認する作業、よりよい紙面へと昇華させる作業、つまり校正がより重要であるという結論に行き着く。

校正は終わらない旅

 前述したように、ここ数年で校正は経費削減名目で大幅に削減された。今後も、どんどん省人化されていくだろう。なおさら著者には厳格に正確性が求められるようになっている。

 著者は自分の名前を出して本を出す手前、時間をかけて校正に取り組むことが求められている。それは当然なのかもしれない。

 しかし、当事者だからこそ見えないミスもある。当事者だからこそ、初めて読む読者を置き去りにしてしまうこともある。だから、それを指摘できる校正者は絶対的に必要だ。

 と力説したところで、肝心の出版業界全体に余裕がなくなって、校正はなおざりになる。その一方で、著者への依存度は高まっている。

 それでも、著者校にかけられる時間も、どんどん削られつつある。以前なら著者が校正に費やせる歳月は1ヶ月ぐらいあった。

 それが2週間になり、1週間になり、3日になりーーといった具合に短縮されている。これでは間違いを見つけるのも難しい。

 また、いくら赤字を入れて訂正しても、それが最終的に直しの作業をしてくれる編集者に伝わらなければ意味がない。紙面に反映されなければ、赤字も赤字ではないのだ。

 編集者に赤字の入った部分を気づいてもらうため、私は赤字の入ったページには付箋をつける作業をしている。新書は200〜250ページぐらいの分量で、400字詰の原稿用紙に換算すると300枚ぐらいになる。

 初校だと、ほぼ全ページに付箋が貼られた状態になる。赤字が反映されて戻ってくる再校をチェックすると、それでもかなりの数の付箋がつく。執筆した際に、できるだけ赤を入れないように正確性を期していても、それだけ赤字が入るのだ。

 それぐらいなら、まだ序の口といえるのかもしれない。以前、手が足りないということで、鉄道関連書籍を制作している編集プロダクションに校正のお手伝いをしに行ったことがある。

 私がチェックを担当したゲラは7校目で、聞けば9校ぐらいは当たり前にしている、とのことだった。もちろん、1校につき4〜5人の目でチェックしているから、述べ人数で40〜50人がチェックしたことになる。それでも、赤字は山のように入るのだ。

 普段、表に出ることはない校正という作業。裏から支える職人に思いを馳せるとともに、裏に出ないからこその苦労もある。なにより、同じ業界で口に糊する者ながら、著者同士でそうした話をほとんどしない。ほとんどというより、まったくしないというぐらいしない。

 書籍の執筆・編集・校正という作業は、終わりのない旅なのかもしれない。その旅の経過も、実は謎だらけ。人によりけり。校正は、いつまでも暗中模索、だ。

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