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ガナッシュ・ワークス

「ちょっと抱きしめてもらってもいい?」
「は?」

   上司と二人っきりのオフィスに、響く甘い声。

「どうして抱きしめないといけないのでしょうか」

   私はおずおずと尋ねた。
   すると上司は眉間に皺を寄せて、ひとしきり考え込んだあと、やはり両腕を広げて「島田! 抱きしめてくれ!」と叫んだ。

「だからどうして抱きしめないといけないのですか!」
「新商品のためだ!」

 この上司――木島部長は、手がけている新製品のチョコレートのことで頭がいっぱいらしい。
 私たちが勤めている製菓会社が総力をあげて開発しているものが、そのチョコレート。
 コンセプトは「相手を抱きしめたくなるチョコレート」。
 バレンタイン商戦に向けて一番必死だったのは、商品開発部の長でもある木島部長だった。
「この会社の沽券に関わる!」と企画書プレゼン全てを一人でこなしてきた。アシスタントの私は放置状態で。

 その木島部長が、抱きしめてくれと言う。
 未婚女性のアシスタントを捕まえて。
 いくらなんでも横暴だ。

「セクハラで訴えたら、勝ちますよ?」

 毛頭ない気持ちを呟くと、木島部長は動じずに更に大声で叫んだ。

「セクハラが怖くて、商品開発が出来るか! 島田! 抱きしめるんだ!」

 言ってることが無茶苦茶です、部長。
 上長命令だ、と言わんばかりの高圧的な態度。

「部長、ちょっと落ち着きましょう。お茶いれますよ」

 私はそれだけ伝えて、給湯室へ逃げ込んだ。



 あの部長は仕事一筋過ぎるから、40過ぎても独身なんだな。折角整ったお顔をしているのに。私の好みのタイプなのに、というのは蛇足だけれど。
 私が商品開発部に配属になった時、独身女性の社員たちに何度羨ましいと言われたことか。しかし、それは部長の熱血過ぎるところを知らないから憧れられるんだ。アシスタントを務めてから、部長の向こう見ずに振り回されっぱなし。

「島田」
「わっ!?」

 気がつけば背後に木島部長が立っていた。
 動揺しているのを悟られないよう、振り向かずにコーヒーを用意する。

「悪かったよ。許してくれ」

 部長はどうやら反省しているらしい。そんなところは可愛いと素直に思う。

「チョコレートのことで頭が一杯過ぎますよ。コーヒー、ブラック濃いめで入れておきましたよ」
「そうじゃない」

 部長は一言否定して、私を背後から抱きしめた。

 ――抱きしめた? え? セクハラですか?

「抱きしめたくなるチョコレートの食い過ぎじゃないぞ」

 部長の声が、耳元に響く。

「セクハラじゃなかったら、何なのでしょう」
「この商品のヒントは、お前だ島田。お前がアシスタントになってから、お前を抱きしめたくてしょうがなかった。でも俺は仕事ばっかりで、アプローチの方法がさっぱり分からない」

 私を抱きしめた逞しい腕から香る、ほのかなチョコレート。

「私へのアプローチ方法が知りたいなら、一つだけ方法がありますよ」
「なんだ、それは!」

 部長が私を身体から引き離すと同時に、私を回れ右させて真っ直ぐ見据える。

「抱きしめたくなるチョコレートを早く完成させてください。そうしたら私も部長を抱きしめたくなるかもしれませんよ?」
「くっそー!! やっぱりそうなのかー!!」

 部長の項垂れた姿を見て私は笑う。
 私の気持ちは、秘密にしておこう。
 ガナッシュのように甘い甘い秘密。