ガナッシュ・ワークス
「ちょっと抱きしめてもらってもいい?」
「は?」
上司と二人っきりのオフィスに、響く甘い声。
「どうして抱きしめないといけないのでしょうか」
私はおずおずと尋ねた。
すると上司は眉間に皺を寄せて、ひとしきり考え込んだあと、やはり両腕を広げて「島田! 抱きしめてくれ!」と叫んだ。
「だからどうして抱きしめないといけないのですか!」
「新商品のためだ!」
この上司――木島部長は、手がけている新製品のチョコレートのことで頭がいっぱいらしい。
私たちが勤めている製菓会社が総力をあげて開発しているものが、そのチョコレート。
コンセプトは「相手を抱きしめたくなるチョコレート」。
バレンタイン商戦に向けて一番必死だったのは、商品開発部の長でもある木島部長だった。
「この会社の沽券に関わる!」と企画書プレゼン全てを一人でこなしてきた。アシスタントの私は放置状態で。
その木島部長が、抱きしめてくれと言う。
未婚女性のアシスタントを捕まえて。
いくらなんでも横暴だ。
「セクハラで訴えたら、勝ちますよ?」
毛頭ない気持ちを呟くと、木島部長は動じずに更に大声で叫んだ。
「セクハラが怖くて、商品開発が出来るか! 島田! 抱きしめるんだ!」
言ってることが無茶苦茶です、部長。
上長命令だ、と言わんばかりの高圧的な態度。
「部長、ちょっと落ち着きましょう。お茶いれますよ」
私はそれだけ伝えて、給湯室へ逃げ込んだ。
*
あの部長は仕事一筋過ぎるから、40過ぎても独身なんだな。折角整ったお顔をしているのに。私の好みのタイプなのに、というのは蛇足だけれど。
私が商品開発部に配属になった時、独身女性の社員たちに何度羨ましいと言われたことか。しかし、それは部長の熱血過ぎるところを知らないから憧れられるんだ。アシスタントを務めてから、部長の向こう見ずに振り回されっぱなし。
「島田」
「わっ!?」
気がつけば背後に木島部長が立っていた。
動揺しているのを悟られないよう、振り向かずにコーヒーを用意する。
「悪かったよ。許してくれ」
部長はどうやら反省しているらしい。そんなところは可愛いと素直に思う。
「チョコレートのことで頭が一杯過ぎますよ。コーヒー、ブラック濃いめで入れておきましたよ」
「そうじゃない」
部長は一言否定して、私を背後から抱きしめた。
――抱きしめた? え? セクハラですか?
「抱きしめたくなるチョコレートの食い過ぎじゃないぞ」
部長の声が、耳元に響く。
「セクハラじゃなかったら、何なのでしょう」
「この商品のヒントは、お前だ島田。お前がアシスタントになってから、お前を抱きしめたくてしょうがなかった。でも俺は仕事ばっかりで、アプローチの方法がさっぱり分からない」
私を抱きしめた逞しい腕から香る、ほのかなチョコレート。
「私へのアプローチ方法が知りたいなら、一つだけ方法がありますよ」
「なんだ、それは!」
部長が私を身体から引き離すと同時に、私を回れ右させて真っ直ぐ見据える。
「抱きしめたくなるチョコレートを早く完成させてください。そうしたら私も部長を抱きしめたくなるかもしれませんよ?」
「くっそー!! やっぱりそうなのかー!!」
部長の項垂れた姿を見て私は笑う。
私の気持ちは、秘密にしておこう。
ガナッシュのように甘い甘い秘密。
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