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【No.8】水の声 水泳部員をぶっち抜く帰宅部員の奇跡の物語

別世界

大会前々日。
その日はプールの水を新しくする為に練習はなしだったらしい。
だが俺は、老人プールで練習をしていた。

いつも以上に疲れて、帰る時だった。
いつも通る道沿いに高級そうな服屋があった。
会津のド田舎には似合わない、それはそれは高価なつくりの服屋だった。
その窓ガラス越しに新木の姿を見つけた。

俺は自転車を止め、その姿に見とれてしまった。
凄く綺麗な女性に変身していたからだ。
服を試着していたのだろうかと思いながら。

女性店員が、俺の姿を見て、その後に新木も俺を見つけた。
俺を見つけるなり『小川君』と声を掛けてくれた。
この前、あんな酷い事を言ってしまったのに、まるで何もなかったかのように…。

新木『小川君、中に入ってよ』

ん?
ちょっと待て?
変形制服のボンタン履いた、いかにも『馬鹿』な俺はこのような別世界の店に入っていいものか?
おどおどしている俺に向って
新木『いいから、入って』
俺は無理やり手を引っ張られ、店の中に入ってしまった。
店の中がどうのこうのより、新木の手が俺に触れてしまった。
なんてあったかくて、すべすべして…とにかく、その事が先だった。
変なところだけは純粋だったわけである。

新木『ここね、あたしのママが経営するブティックなの』
俺『ブティック…?』
新木『あれぇ?ブルースは知ってるのにブティックは知らないんだ』
俺『ブティックって服屋のことか?』
新木『そんな感じかな』

女性店員『めぐみお嬢様、お友達でございますか?』

…!!
お嬢様!!
新木『そうだよ。なにか冷たいものでも出してくださる』
女性定員『はい。では、一度休憩いたしましょう』

俺は目の前の行動から言葉まで、今まで聞いたことない別世界の感覚に見舞われた。
新木『小川君そこに座ってて』
店の真ん中くらいにあったガラスで出来たテーブルに向った。
見たこともない服がいくつか並んでいた。
綺麗な服だな。
妙に気になり、値段を見た。
¥75000

そこから一歩下がる俺。
はじめて心臓が飛び出るほどの数字を見たようだった。
服でななまんごせんえん?
…はぁ?

俺がこんなの着たら服に押しつぶされるな。
正直そう思い、絶対に触らないように神経を研ぎ澄ましたことは言うまでもない。

新木が俺の目の前に座った。
新木『綺麗なお店でしょ』

俺は喋れないほど緊張していた。
なるべく体も動かさないように、それは慎重に。

俺『お…あ、うん。とっても。』
新木はクスクス笑っていた。
きっと俺の姿が面白かったのだろう。
新木『緊張してるの?』

当たり前である。
一般庶民の俺は、この店内に漂う高級感に押しつぶされそうだった。
さっきの女性定員がアイスティーを持ってくる。
これまた綺麗なグラスだ。

俺の親父が飲み干したワンカップのコップなどとは比べようもない、何ですかこの美しさは?

初めて飲む味。香りがいい。何ですかこの味は?

何もかもが初めての体験。
新木は俺なんかとはまるで違う本物のお嬢様だった。
学校では一切見せない風格だった。

俺『お、お、お前、ま…毎日あんな高い服着てるのか?』
新木は一際笑った。

新木『そうよ~。』
少し笑いながら
新木『うっそ。これはママが作った新作の一つ。私はこのブランドのモデル…みたいなものかな。』

意味が分からん。
ブランドのモデル?
何ですかそれは?

新木『来週のバイオリンの発表会にはこれを着ようかと思ってるの。どう?』
俺は『うん。大丈夫だと思う』という意味不明な返事が精一杯だった。

目の前で起きている状況、会話全てが別世界なのである。
俺は新木の事が好きだ。
でも、「中流より下の身分」の俺なんかとはつり合う訳がない。

少しショックだった。

新木『水泳大会、明後日だね。』
俺はうなずいた。
会話が弾まない。
この別世界という空間に緊張している俺のせいだ。

そっと外を見た新木は少し驚いた顔をした。
何かあったのかと思い俺も見てみる。

新木は俺のボロっちい自転車のかごの中身を見ていた。
かごの中には水泳バックがあった。
俺はしまったと思った。
水泳の練習をしている事を知られたくなかったのだ。


次の瞬間、新木は笑みを浮かべながら俺に言った。
新木『もしかして水泳の練習してる…の?』
俺は答えたくなかったが、バレてしまってはしょうがないと思い、老人プールで練習していた事を話した。


約束

新木はとても嬉しそうな顔で俺の話を聞いてくれた。
その姿はまるで女優のように…服装で人は変わるのか?
とても綺麗な姿で、俺の話をずっと聞いてくれた。

自分の気持ちが張り裂けそうな思いだった。
今、目の前にいるのは新木めぐみ。
俺の初恋の人。
その初恋の人が、とても綺麗な姿で、俺のような馬鹿の話を笑顔で真剣になって聞いてくれる。

ここは別世界だ。
空間も時間も会話も。

しかし、俺の目の前にいるのは、まぎれもなく新木めぐみ。

俺は言いようのない不思議な感覚に陥っていた。

ふと俺は言葉を漏らしてしまう。
俺『もしも、水泳大会のクラス対抗リレーで1位になったら…』
俺は言葉を止めてしまった。
俺は心のどこかで思っていたことがあった。
そして、その思いは『想い』に変わり、選手に選んでくれた新木に言おうと思っていた言葉があった。

好きだ。
という3文字。

このたった3文字を言おうと想っていた。

新木『ん?何?』
俺『ん…いや…』

言葉が出てこなくなってしまった。
新木は俺を見続けていた。

俺は意を決し言った。
俺『その時は、大会が終わってからあの喫茶店に来てくれ』

一瞬、俺を見るなり目を下に向けた。
新木はどういう意味か分かったのだろうか?

新木『…いいよ』


俺はとんでもない約束をしてしまった。
今考えれば、若気の至りというヤツだろうか?

若いという事は素晴らしい事である。
しかし、その若さ故に…という思いも、今になってみれば最高に素晴らしい出来事の一つなのかもしれない。

この日の事は、今でも良く覚えている。

きっと、新木もそうだったと思う。

俺の人生の中で初めての硬い約束だったと思う。


つづく


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