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太陽の塔を見て反省した

万博記念公園に建つ太陽の塔を見てきた。

見てどんな感情が湧いてきたかといえば、反省のような自分を戒めるようなものだった。

デザイナーという職業についているので普段から色々なものを作って生きているわけだが、ものをつくる時の姿勢に対して反省した。

そびえ立つ太陽の塔

最近、私が何かをデザインするときには妥協していることが多いように思う。

「汎用的であること」「持続的であること」「流行っていること」など、仕事においては正論となる言い訳を並べて、「果たしてこれを見た人の何かが変わるのか」という本質に向き合っていない。

ひとつひとつ、全てのことに対して妥協なしで突き詰めるというのは難しいが、「見た人・触れた人を驚かせる面白いものを作りたい」という自分の気持ちはどこかへ行ってしまっていた気がする。

最後にそういう気持ちがあったのはいつかと思い返すと、ここ1年以上は卒業研究のことしか出てこない。

太陽が雲に隠れてしまった

太陽の塔を見てなぜこんな反省をしたのか。

まさに、太陽の塔は私がものづくりをする上で模範となるものであった。

まず、ひと目見ただけで興味が湧いてくる。

近づいてそのプロセスや造形に感動する。

その面白さは記憶に残り、人の考え方や視点を大きく変える。

私が作りたいのはこのような人の変化を生みものであり、汎用的で持続的で流行に乗っているデザインではない。

太陽の塔のデザインが今の時代に採用されることはあまりイメージできないが、50年以上前に作られたものから今も変わらずにその「エネルギー」を感じることができる。

デザインの流行というのは移り変わっていくものの、そのデザインが与えるものは変わらず、今も人々の心を動かしている。

なんというか「恐ろしさ」を感じた

デザインが目的化され、パッケージ化されていくこの時代に「変わらず人々の心を動かす」ことを目指すのは容易ではない。

しかし、本来私がやりたかったのはそういうことではないかと頭を叩かれた気分だ。

学生のうちは「学生だから」と社会のことには対して目を向けずに「何を作ったら良いか」「何が本当に面白いか」を考えていた。

社会人になって文字通り社会に近づきすぎたことで、ものをつくる気持ちにノイズが混じったのか。

太陽の顔に「ちゃんとやれよ」と言われた気がした。

初めて内部を見た

私はデザインをやっているのか、芸術・アートをやっているのか定期的にわからなくなっている。

これも定期的に思うことだが、私の頭を叩くのはいつもデザインではないのだ。

アートだったりもするし、自然の風景だったりもするし、工場だったりもする。

なぜデザインではないものに頭を叩かれるのかというと、そういったものは自分で考えて何かに気づかないと何でもないものだからだと思う。

デザインは見ていると参考になるし、関心することも多い。

しかしデザインである以上、だいたいのものはすでに何かわかるものになっている。

当時の展示空間に使われていた構造

デザインではないアートや風景は、よく見て何か自分の知識や経験、感情などと結びつかないとよくわからないし何も得られない。

しかし何かに気づいた、それも自分だけが価値を感じられたような時はビビッとくる。

世の中にない、新しくて面白くて変わらないものをつくるためには「自分だけが価値を感じられる」ようなものに出会わなければいけない。

太陽の塔はデザインに怠けていた私を叩き起こしてくれた。

おかげで本当に作りたいものと向き合い続けることができそうだ。

公園前のモノレールから刺激が強かった

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