【短編小説をひとひら】カメラカメラカメラ4
新宿駅から歌舞伎町を通り抜け、新宿区役所を見ながら進むと、「新宿ゴールデン街」という看板を見つけることができる。昔ながらの、こじんまりとしたスナックやバーが並ぶエリアである。ここは歌舞伎町とは趣が異なり、落ち着いて飲みたい大人が足を向ける場所だ。
十河岳人(そごうがくと)はひかりに、「ゴールデン街脇の花園神社で待ち合わせよう」と告げた。ひかりはさっそくスマホの地図を見ながら、花園神社を目指して歩き始めた。
彼女は新宿には土地勘がない。ましてや歌舞伎町のような歓楽街はなおさらである。すでに街には夜のとばりが降りてきている。それと反比例するかのように、一帯はまばゆくネオンに彩られまぶしく輝いていく。ひかりはそのまぶしさに少しひるんだ。
「十河さんも、女子ひとりにこんなところを抜けてこいなんて。私がかよわいってこと、わかってない」
心の中でぶつぶつとこぼしながらも、ひかりは花園神社までたどり着いた。10分ほど待つと、十河が現れた。意外と早い到着だ、とひかりは思う。
「いや、すいません。ちょうど御茶ノ水にいたので、浦添さんが歩いてくる間に着けるかなって思ったんですよ。ちょっと待たせてしまいましたね」
「いいえ、そんなに待たなかったです。それよりも、歩いてくるの、ちょっと怖かったです」とひかりは少し口を尖らせる。
「それは失礼。まだ時間が早いから大丈夫かなって思いました。それに、昔ほど歌舞伎町も物騒ではなくなったし」と、十河は頭をかいて笑う。
「物騒だったんですか」とひかりが突っ込む。
「そうですね、抗争で発砲があったり、薬物中毒者がナイフを振り回したり、殺人事件もそれなりに。酔っぱらいの喧嘩で流血なんてのは、今もありますけどね。それは歌舞伎町に限ったことではない。ある意味、人間がむき出しになっていて、分かりやすい場ですよ。僕の私観でいえば、女性にとってはきょうび渋谷などのほうがよほど危ないように思うなあ」
ひかりにとっては、十分すぎるほど怖い話だった。それをさらりと言う十河もひかりの想像以上に癖のある人物のようだ。そんなことを考えて黙りこんだひかりを見て、十河は笑う。
「ハハハ、僕は常に傍観者ですよ。ご心配なく。近くに怪しくない店があるから、入りましょうか」
常に傍観者。達観? 諦観? どことなく仏教の教えみたいだ。仏教の教えをよく知らないが、ひかりはそのように感じた。
そう言って十河が連れて行った店を見て、ひかりは思わず苦笑した。
仏教と共通点、あるある。
見るからに怪しいたたずまいの店だった。インドの神様、頭が象のガネーシャ像が軒先にドン、と鎮座している。小さな看板には『カルマ』と書かれていて、ドアを開ける前から香の匂いがぷんぷんと漂ってくる。
「怪しくないですか?」とひかりは笑う。
「そうかなあ。分かりやすいと思うんだけど……」と十河が言う。
分かりやすい、というのは十河にとって怪しい範疇に入らないらしい。
室内も薄暗い。カウンターとテーブルが2つあるだけの小さな店だ。しかし、テーブル席はビーズのカーテンで区切られていて、秘密めいた空気である。
十河が、「こんばんは」と声をかけると、カウンターの奥から声が聞こえた。
「あら、岳人なの? 久しぶりねぇ、今日は早いわね」
ひかりの姿を見た店の人間は驚く。
「えっ、ヤングな女性!? 珍しいわね。ようこそ、いらっしゃいませ」
ヤングって……。
ひかりは店の人を見る。ボブカットできっちりとメイクをし、インド風の綿のドレスを美しく着こなしているその人は、大柄の男性のようだった。
十河は会釈だけすると案内を受けるまでもなく奥の席に進んでいく。
名前で呼ばれるほどの常連なのだ、とひかりは納得する。そして、少し安心する。
「ママ、とりあえずコーヒーを2つ、アルコールは後だ」
「はい」と勝手知ったる様子でカウンターから返事がある。
「浦添さん、それで鈴原さんの家にあったカメラを見せてもらっていいですか」と十河は切り出す。それがメインの用件であると分かっているので、ひかりはスッとカメラを出す。十河は差し出されたコンパクトカメラを手に取ってじっくりと眺める。その表情からひかりは十河の感情の動きを読もうとするが、特に変化は見られない。
ひかりはそのカメラ、μ(ミュー)について会社の雑誌のバックナンバーで仕様を調べていた。
1991年3月発売。レンズは35mm/F3.5の単焦点。シャッター 1/15秒~1/500秒。AF 0.35m~∞、プログラムAE、重量 170g。スライド式カバー。目立っているのはカバーがスライドしてレンズを含めて収納できる点だろうか。そして、社長が言っていた通り、形にメリハリがあってたいへん美しい。
「ああ、これは寿人のカメラかもしれません。断定はできないけれど」と十河が言う。
「同じ型ですか、やっぱり……」とひかりが身を乗り出してつぶやく。
十河はサングラスを外して、カメラをさらによく眺める。ひかりは十河がサングラスを外すのを初めて見た。そして、その目が切れ長で鋭いことに驚いた。
やっぱり、ちょっと危険な人なのかしら。
ひかりは一瞬そう思ったが、前に写真で見た弟の寿人の目にそっくりだとも思った。それなら、生まれつきの遺伝ということだろう。ひかりがそう結論づける間に、十河はカメラを見終えてひかりに戻した。
「これは寿人のカメラと考えてさしつかえない」
さっきより、断定する口調である。ひかりは首をかしげて十河を見る。
「タイプが同じというだけなら、他人の物だとも言えるでしょう。でもこのストラップは寿人が付けたものだ」と十河が言う。
ひかりはカメラを見る。撮影する向きで本体を持つと、右脇にストラップが付いている。紺色のストラップだ。特に模様などは入っていない。
「純正の付属品は黒いストラップでしたから、寿人は自分で誂えて付けたんですよ。紺色のストラップ、これでした」
ああ、だからサングラスを外したのか。
ひかりは納得する。そこまで一致する部分があるならば、これは十河寿人のカメラだと仮定して考えていいのかもしれない。
そうなのだろう、と決めてかかっていると、思い込みのフィルターがかかってしまうという話をひかりは聞いたことがあった。無実の人が周りの人の思い込みで犯罪者の濡れ衣を着せられてしまう例もある。そのような小説を読んだこともある。
ひかりはこれまでのことを振り返りながら、一人考える。
私も十河さんもまだ、勘のようなもので動いている。寿人さんと萌世の間につながりがあったのか、いや、そうであってほしいと思っている。
そうでなければ、ふたりの人間の謎がいつまでも解けないままで残ってしまうという焦燥感があるのだ。
私にしてみれば、萌世と寿人さんがどのように関わったのか知りたい。それで萌世がなぜ死んだのか、その理由なり背景が少しでも分かるかもしれないと思う。
十河さんにしてみれば、弟がなぜ痕跡を残さずに消えてしまったのか、もっと言ってしまえば、生きているのか、死んでいるのか、それが一番知りたいことだろう。そのヒントが萌世にあるならば、それが知りたいと。
そのような二人だから、思い込みというのは徹底的に追い出すべきだ。そうひかりは思う。私たちが求めているのは、「何となくそういう気がする」程度の結論ではないのだから。
しばらく黙りこんだひかりを、十河はそのままに留保してコーヒーをすすった。どこかしら店の雰囲気にそぐわない、アラビアのコーヒーカップは人肌程度に冷めている。
ひかりはふっと、十河の顔を見た。彼はひかりの考え事が落ち着いたと判断し、話を再開した。
「これは鈴原さんの家にあったものだから、彼女の私物だと考えてみましょうか。
鈴原さんにもカメラの趣味があったかもしれない。家族の影響で古いカメラに興味を持つことはありえます。でも、ご家族に該当する方はいないらしい。お母さんが全く記憶がないと仰っていたのでしょう。まぁ、何かの媒体を通して、興味を持つことはある。
このカメラは確か、1991年に出たはずです。あなたや鈴原さんは1994年生まれでしょうか、それより前のものですね。だとしたら、このカメラのどんなところに魅力を感じたのでしょう。
まぁ、あなたがたの物心がついた頃にはすでにデジタルカメラが一般的だった。そうすると、興味があるからと言って、初めからこれを選ぶとは考えづらい。これはもうとっくに販売を終えている。
中古で手に入れた? カメラが好きな人間でも中古で使えるカメラを判断するのは難しいです。初心者向きではない。
ストラップをお気に入りのものに付け替えるのも、それほど珍しくはない。それも付け加えましょう。
もし、何かモヤモヤしているのなら、こんな風に一つ一つ地道につぶしていくのがいいと思いますが」
ひかりは無言で何度も小さくうなずく。
十河も考えているのだ。
「まぁ、現像した写真を見るまでは保留ですね。今度はこれを見てください」
そして、彼は1冊の本をひかりの前に置いた。「フェルマーの最終定理」というタイトルの文庫本だ。
ひかりはキョトンとする。
「すみません、私、数学はよく分からなくて……」と首をすくめる。十河はそれを見て首をゆっくりと横に振る。
「いや、これは寿人のマンションの書棚にあったものです。書棚にあった本の中でいちばん寿人の読みそうなものだと思って、手に取ってみました。寿人はこの定理がどこまで解かれているか、学生時代に興味を持っていましたからね。でも、浦添さん、見てもらいたいのは本の中身ではなくて、こちらです」
そう言うと、十河は本からカバーを外して、文庫本の本体を出して表紙の面をひかりに見せた。そこには手書きでこう書いてあった。
〈これはバグなんだ。今すぐ逃げろ!〉
そして、裏表紙の面にはこう書いてあった。どちらも鉛筆か、シャープペンシルで書かれている。
〈いや、あなたを一人にはできない。会えなくなるのは、いや〉
ひかりはそれを目にしてごくんと唾を飲んだ。
「バグ? これ……は?」
十河は顎髭(あごひげ)を撫でながら、冷静な口調で検証をはじめる。
「何でしょうね……それは僕にも見当がつかない。
とりあえず、この表紙の方は弟の字で間違いないと思います。癖のある右上がりの字。これは弟の蔵書だし、そう考えるのはおかしくないでしょう」
ひかりは裏表紙の文字を凝視した。
ひどく懐かしさを感じる、少し丸くて形の整った字。そして、頭が混乱する。
「これは……萌世の字に似ています。絶対とは言えないけど……でも、分からない。本当に? でも、なぜ?」
十河は混乱している様子のひかりを見て言う。
「うん、これもカメラ以上にいろいろなことが考えられるかもしれません。僕の考えだけを言えば、この文字が鈴原萌世さんのものだとするなら、ふたりは親しいーー程度はわかりませんがーー間柄だったと思います。僕は、失礼ながら友人に頼んで、寿人と鈴原さんを知る人、いわゆる会社の同僚に話を聞いてもらったんですよ。みなさん、知らないという答えばかりだということでした。もっとも、鈴原さんの件はことがことだけに箝口令(かんこうれい)が敷かれていたのかもしれません。そのつながりは、あったとしてですが、細心の注意を持って隠されていたように思えます」
「萌世は彼氏とは結構前に別れたと言っていましたが、寿人さんは独身だったのですか」とひかりが尋ねる。
「ええ、弟は独身ですし、結婚したこともありません。彼女がいたかどうかまでは分かりませんが……」と十河は答える。
「じゃあ、なぜ、なぜ隠さなければいけなかったのでしょう」とひかりは十河に問う。十河は首を傾げて、「なぜでしょうね」と落ち着いた声で言う。
その落ち着いた様子はひかりの気持ちにも連動した。きっと十河は他にもいろいろあたっていて、この件に関する方向を定めているようだ。
私も、いちいち動揺するばかりではなくて、事実をしっかりと見なきゃ。
その時、他の客がガヤガヤと店に入ってきた。十河は時計を見る。もう針は9時をさしていた。ふたりは1時間半以上も話し込んでいたことになる。
「ママ、腹が減ったんだけど」と十河が言う。
「はぁい、仕込みが終わったわよぉ。カレー、食べていってね」とカウンターから声が響く。先刻からスパイスの刺激的な香りが漂っている。ひかりは猛烈にお腹が空いていることに気がついた。ほどなく、銀色のグレイビーボートに盛られたカレーと、ライスの盛られた白い皿、そしてピクルスのトレーが運ばれる。
「うわぁ、美味しそう」とひかりが笑みを浮かべる。
「いつも不思議なんだけど、この盛りかたは、インド風じゃないね」と十河がスプーンを握る。
「ええ、いれものは中村屋さんを踏襲(とうしゅう)してます。味はオリジナルだからね。文句あるぅ?」と、ママは開き直る。中村屋とは新宿にあり、カレーが名物の老舗レストランである。
「うん、うん、味はオリジナル、スパイスが強烈に効いてる! 本場に負けてないですよ」とひかりが感嘆しつつ、パクパクと口に運ぶ。ママはニッコリ笑って水をふたりのグラスに注ぐ。
「このお嬢ちゃん、可愛くて素直じゃないの。岳人、また連れてきなさいよね」
「ああ、機会があったらね」と十河はそっけなく言う。
お互いにほどほどの距離感があって、いい感じだーーとひかりは思った。
翌日、「カメラ・ライフ」社にひかりが出社すると、ひかりのデスクの上にA5判の封筒が置いてあった。ひかりはあたりをキョロキョロと見渡すと、ファイリングにいそしんでいる経理の萩元葉子に尋ねた。
「あれ、社長は?」
萩元はああ、という顔をして、「新作カメラの発表記者会見があるって急に知らされたとかで、他に誰もいないから、社長が」と言った。よくあることなので、特に何も感慨はないらしい。
「あ、ひかりさんに写真を渡して、って」
「はい、これですね。ありがとうございます」とひかりは自分のデスクに腰かけ、ゲラ刷りの山に埋もれて、もどかしく封筒を開ける。
入っていたのは、10枚ほどのモノクロ写真だった。
ひかりは、それらを慌ただしく見ていった。そして小さく、「あっ」と声をあげた。
(続く)
(投稿サイト『アルファポリス』にも掲載しているものです)
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