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【短編小説をひとひら】夕暮れの海岸に花の香り

 学校の帰り、僕は海辺で寄り道をしていた。

 まだ少し寒い春の夕暮れで、人はいない。それをいいことに、僕は力まかせに砂を蹴散らして歩いていた。
 海からの風がぶわっと通りすぎる。僕は砂が入らないように、とっさに目を閉じた。

 目を開けると、まぶしいほど白いワンピースを着た女の人が見えた。
「コータロくん?」と彼女が僕に聞く。
 目を見開いて、呆然としたような顔だった。僕はその女の人に少しも見覚えがない。歳だってかなり上だと思う。
「はい」と僕は怪訝そうに答えた。普通は怪しむだろう。僕の名前を知ってるし。
「……本当に? えーと……少しだけ、一緒にいてもいい?」
 ふっと、花のいい香りがした。断る理由もないので、僕はコクリとうなずいた。

 僕たちは浜辺を歩きながら話をした。といっても彼女が聞いて、僕はそれに答えるだけだった。
 新しい母親に馴染めず反抗的な態度をとってしまうこと、進路で父親と意見が合わないこと、教師の指導にも嫌気がさしていることなどを話した。
 彼女が親身に聞いてくれたからか、僕は素直に何でも喋っていた。

 砂浜を端まで歩くと神社に行き当たる。彼女はハッとする。
 そして僕を見て微笑んだ。
「コータロくん、今の悩みは全部なくなる。現実を見て、進む道を自分で見つけて、幸せになるの。大丈夫だよ」
 彼女はそう言って僕をぎゅっと抱きしめた。僕はとてもびっくりして、石のように固まっていた。
「私、あの神社にお願いしたの。最後に14歳のコータロくんに会いたいって。だって、その頃の写真しか見てなかったから」と彼女が言う。
「よく……分からないよ」と僕は戸惑う。
「分からなくていい。こんなふうにもっとあなたと話したかった。ずっと一緒に……」

 次の瞬間、びゅうっと風が吹いて僕は目を閉じた。
 目を開けると、もう彼女はいなかった。
 花の香りだけが漂っていた。


 それから20年経った。
 僕は結婚して子どももできて、平凡に暮らしている。あの女性は誰だったのだろう、と思うこともあるけれど、もう顔もまったく思い出せない。

 ある日、僕は通勤電車を待ってホームに立っていた。
 すると、突然花の香りが鼻腔をくすぐった。僕はハッとして、横を向いた。

 そこには僕よりかなり若い、白いワンピースの女性が立っていた。

Fin

(投稿サイト『アルファポリス』にも掲載しているものです)

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