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【短編小説をひとひら】カメラカメラカメラ3

 鈴原萌世の死と十河(そごう)寿人の失踪、ふたつのできごとは本当につながっているのだろうか。

 ひかりは十河岳人、寿人兄弟の実家に行く前に萌世のことももう少し知っておかなければならないと思い、久しぶりに彼女の家族に連絡を取ることにした。携帯を手に電話帳のデータを検索する。そして、ふと手を止める。

 萌世が行方不明になったとき、彼女の母や姉と何度も電話で話したことをひかりは思い出す。あの夜の、切羽詰まったような、それでいて全てがだるくなるような感覚はまだひかりの中にも濃く残っている。

 電話の呼び出し音が鳴る。

 十河岳人も、こういう感覚を味わったのだろうか、とひかりはふと思う。肉親が突然いなくなってしまったら、自分の比ではないだろう。それは萌世の家族も同じだ……ほどなく、電話の向こう側から萌世の母親の声が響いてきた。

「ひかりちゃん? ああ、久しぶり、元気にしてますか……」

 少し元気になったのだろうか、とひかりは思う。少なくとも声は普通だった。いや、それは表向きのことかもしれない。萌世が突然いなくなった後、その衝撃を飲み込む暇もなく、訳も分からず社会的なしきたりをこなし、四十九日まではまったく息がつけなかっただろう。もしかしたら、生活が落ち着いた今のほうが、家族にとっては辛い時間なのではないだろうか。

 十河岳人・寿人のことを言っても話をややこしくするだけ。ひかりはそう判断して、お線香をあげに行きたいとだけ萌世の母親に告げた。母親は、「いつでもいいわ、ありがとう」と歓迎してくれた。

 電話をかけた週末に、ひかりは萌世の家を訪れた。萌世の家は下町ながら、比較的新しい住宅が立ち並ぶ一角にある。新しいとは言っても20年ほど経っている家ばかりだ。下町にしては新しいということになる。
 ひかりから見たら、懐かしさを覚える景色にほかならない。

 萌世の母がにこやかに出迎える。
「ひかりちゃん、よく来てくれたわね。さぁ、あがって」

 ひかりは途中で買ってきたパステルのプリンを萌世の母に手渡す。萌世の好物だったことを覚えていたからだ。
「あら、もえも喜ぶわ。一緒に食べましょう」

 リビングにあるベージュのソファに腰かけて、ひかりは萌世の痕跡を探すが、大学卒業のときに撮った袴姿の彼女の写真しか見当たらない。萌世の母親は麦茶の入ったグラスをひかりの前にトンと置く。

「写真はね、今は飾っておく気になれなくて……あれだけ。あとは、お部屋とお仏壇のところだけ」と萌世の母がポツリとつぶやく。
「はい……」とひかりはうなずく。

「ひかりちゃん、もえが帰ってこなかった夜、あなたに最初に電話したのは正しかったと思っているの。だって、お花のことも、家族でさえ気づいていなかったでしょう。情けない話よね」

 ああ、悪いことを言ってしまったのかもしれない。
 そうひかりは思った。花のアレルギーがあるからと言って、亡くなってしまえば何も感じることはなくなるのだ。言ってしまったばかりに、葬儀の花は外されてしまった。そして、萌世の母はそれに24年も気がつかなかったのかと自身を責めなければならなくなってしまった。

「お母さん、私は言わなければよかったと、今でも思っています」とひかりは申し訳なさそうに言う。

 萌世の母はううん、と首を横に振る。
「ひかりちゃんが言ってくれたこと、私たちはとても感謝してるのよ。だって、私たちは愕然(がくぜん)としてばかりだった。家族なのに、もえのことを何にも知らないんだって、打ちのめされたのよ……。それがどれだけつらいことか。どんなに聞いたって、もえは答えてくれない。それでも、冷たく、硬くなった娘に、ずっと聞いていたわ。でもひかりちゃんがお花のことを教えてくれた。もえが何に悩んでいたのか、いまだに分からないけれど、少なくとも、もえが嫌がることはひとつ分かった。せめてそれぐらいは、それぐらいは、もえの気持ちが分かるよって……だから……ありがとう」

 萌世の母は込み上げるように泣きはじめた。ひかりも涙を浮かべて、それをただ聞いていた。そして、ぞんぶんに泣かせてあげたいと思った。

 萌世の母が落ち着いた後、ひかりは2階の和室にある仏壇に線香をあげて、手を合わせた。そして、ひかりが聞く前に、母親が彼女の部屋に案内した。中学のときも来たことがある彼女の部屋、基本的なレイアウトは変わっていない。母親もそのままにして、掃除以外は何も動かしていないと言う。

 ひかりは部屋をじっくりと眺めた。ポスターなどは飾られていない。カレンダーは子猫の写真で、萌世がいなくなった月のままになっている。ハンガーラックにはスーツが数着、ブラウス、ワンピース、カーディガンがかけられている。デスクにはノートパソコンと文房具。そして、小さめの鏡や化粧道具。いたって普通の20代女性の部屋である。

 ひかりは突然ハッとして、パソコンのことを思い出す。

「あの……パソコンに何か、お友だちとのやりとりとか、日記とか……あ、それはノートとかでも、残っていなかったんですか」

 萌世の母が首を横に振る。
「私たちもそう思って、パソコンのスイッチを入れてみたの。お姉ちゃんはよく分かるから。でもね、ネットっていうの? そういうことをしていなかったみたいで、メールもしていないようだってお姉ちゃんが。日記のようなものも見つけられなかった。うちにはタブレットもあるけれど、それはお姉ちゃん専用だったし……紙で残っているものもなかったわ。たぶん、ツイッターとかLINEとか、スマホで全部済ませていたのね。でも、スマホは見つかっていないのよ」

 おんなじだ。
 十河寿人さんとおんなじだ。
 空っぽのパソコン……。
 見つからない携帯……。
 ひかりは背筋がゾクっとする感触を覚えた。

 ふとひかりの目に、ハート柄のデコパージュをした薄いピンク色の小箱が映った。デスクの片隅にひっそりと置かれている。
 ひかりはその小箱に見覚えがあった。中学の夏休み、手芸教室で一緒に作ったものだ。紙に絵柄を描き、切り抜いて箱に貼り付けて彩色し、ニスを塗って仕上げる。ひかりはあまり上手にできなくて、萌世の作品をうっとりして何度も眺めていた。だから覚えていたのだ。

「あの箱をちょっと見せてもらってもいいですか」とひかりは頼み、承諾を得るとそっとその箱を持ち上げて手元に寄せた。その箱は大きさの割にはとても重かった。そっと蓋を開けると、そこには黒いカメラが入っていた。ひかりは心臓が止まるほど驚いた。

「カメラが……」とひかりがつぶやく。
 脇で見ていた母親も、意外そうにそれを見つめる。
「こんなカメラ、うちにあったかしら……もえが使っているのも見たことがないわ」

 カメラはフィルムのコンパクトカメラのようだ。ひかりはカウンターを見る。まだフィルムが入っている……。
「お母さん、このカメラ、まだフィルムが入っています。もしよければ、少し私に預けてもらえませんか。私の会社には現像室があります。できた写真は持ってきますし、知らない人に見られることもないです」

 萌世の母がひかりをまじまじと見つめる。
 そして、「ひかりちゃんも、知りたいのね?」と言うと、手で口をおおった。その目には涙が滲んでいる。

「はい」とひかりは涙目で答えた。



「これは、OLYMPUSのμ(ミュー)の最初のタイプだね。1990年代の初頭に出たものだ。パノラマではないし。μは後続もデジタルも出ていたけど、初期のものが大層評判がよかった。デザインが秀逸だったんだね。美しいだろう」

 社長がひかりからカメラを受け取って、しげしげと眺めている。ひかりはおずおずと尋ねる。
「社長、私が現像すると失敗しそうなので……」
「うん、任せておきなさい」と社長はにっこりと笑って、フィルムを巻き戻し始める。

 ひかりはこの件が、フィルムを現像することだけでなく、自分の手に余るような予感がして、社長に打ち明けることにした。ひかりの友人である萌世の死について、ひかりが見たメッセージについて、そして、それと前後して同じ会社の男性が失踪していることをである。そして、ふたりの間にはっきり繋がる線は見えなかったが、それがあるならば探り当てたいこと。

「それで、カメラが出てくると言うわけだ。少なくとも、その失踪した男性のカメラと、お友だちのうちにあったカメラが同じタイプだったわけだから、追求する価値はあるのかもしれないね」と社長は言う。

「まだわかりませんけれど……」とひかりがつぶやく。

「まぁ、写真を見れば、また何か分かるかもしれないな」と社長は現像室に向かおうとする。そこに編集担当の瀧本が声をかけた。そろそろ頭頂部に年齢が出ているが、社では中堅の40代半ば、月刊誌「カメラ・ライフ」のキャップである。

「春山先生がもうすぐ対談の打ち合わせに来ますから、忘れないでくださいよ」

「ああ、『一枚の写真は価値を持ち続けることができるか』だったな。ドアノーとサルガド、ウィリアム・クラインとシンディ・シャーマンのプリントは用意してあるのかな?」と社長は尋ねる。
「ウィリアム・クラインは聞いていませんよ、エリオット・アーウィットじゃなかったですか」と瀧本は目を丸くする。
「対談相手の加藤先生は、『アッパー・ブロードウェイ』が大層お気に入りなんだ。探しておいてほしい」と社長はきっぱりと言う。瀧本はすぐさま資料室にダッシュする。編集はあと2人しかおらず、営業も兼ねているため今は外出中だ。だから、キャップも走らなければならない。
 ちなみに、ひかりは季刊のムックの編集兼、営業はじめ全般のサポートにつく。

 走る瀧本の背中を見ながら、社長は、「まぁ、今日中にはしておくよ。はい、カメラ」とひかりにμを返した。



 十河岳人には萌世の部屋にカメラがあった件をメールした。するとしばらくして返信が届いた。そこには、「空き時間にいつでもいいから電話してほしい」と書かれてあった。

 ひかりはその日忙しかった。
 新宿のショールームで写真展をしている若いカメラマンのもとに向かう。撮影機器や手法について取材するためだ。しかしきょうび、どこそこのカメラか、光源は、露出は、シャッタースピードは……などと考える必要はほとんどなくなっている。

 それでも、職業写真家にはそれぞれの方法や視点がある。それがあるからこそ、職業として成り立つのだ。

 今は誰でも、携帯電話に付属しているカメラを使って、玄人はだしの写真をいくらでも撮ることができる。保存もプリントも簡便になった。そこからさらに、どれだけ加工できるかというのが多くの人々の関心事になっている。
 分かりやすく言えば、お気に入りの店のパンケーキをどのようにおいしく見せるか、ということになるし、自分の顔をいかに「盛る」かということになろう。

 さきほどの『アッパー・ブロードウェイ』の話をひかりは思い出していた。その写真はひかりも見たことがあったのだ。

 2人の少年が被写体で、向かって左側の少年がファインダーに向けて銃口を向けている。その顔は憎悪に満ちている。向かって右側の少年は横顔だ。すぐ隣の少年の爆発しそうな勢いなど意に介さず、うつろな目をしている。
 ごくごく至近距離で銃口を向けられてもシャッターを押すことに驚くし、あれだけの憎悪の表情を向ける少年、それにまったく無関心な少年にもひかりは衝撃を受けた。

 今の写真とは違う、モノクロで粒子の粗い写真だったけれど、強烈にリアルだった。そうひかりは感じた。

 今は、リアルだと感じることが本当に少なくなっているのかもしれない。

 萌世には、どんなリアルがあったんだろう。


 夕刻になって、新宿駅南口の雑踏でようやくひかりは十河の番号を押すことができた。十河岳人はすぐに出た。
「浦添さん、今日は会社に戻りますか?」
 ひかりが、「直帰です」と答えると、十河は新宿に向かうと言う。
「ちょっと電話やメールでは……浦添さんはμを持っていますか?」
「はい、あ……でも、フィルムは今現像中で……」とひかりは少し困ったように言う。

「ああ、それは後で。とりあえず、カメラを見たいのと、僕も見てもらいたいものがあるんです」

 ひかりは電話を切ると、雑踏とビルの遥か向こうに広がる、アメジスト色の空をぼんやりと見上げた。
 総天然色の夕景だった。

(続く)

(投稿サイト『アルファポリス』にも掲載しているものです)

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