暗黒報道⑦ 第一章
軍事国家を目指す権力V天才女性記者の知略戦
■「ママは毒物を入れていない」とセイラは言った
水本夏樹とセイラが公園から立ち去った後、大神はしばらくベンチに腰をかけたまま動けなかった。どっと疲れがでた。重要参考人との単独インタビューということで、かなり緊張していたのだ。興梠の要請もあり、夏樹の人権などを無視して、ずけずけと失礼極まりない質問を繰り出した。
夏樹の印象は悪くはなかった。「直談判しに行こうとした」という話は、いささか無理筋だと思ったが、その他ではうそを言っているようには見えなかった。そもそも、鍋にヒ素を入れて大惨事を起こした犯人がその後、普通にバイト先に行って働けるものだろうか。
公園のベンチでノートパソコンを取り出し一問一答を書き上げ、興梠にメールで送った。
すぐに電話がかかってきた。
「今、一問一答を読んだ。君の心証はどうだ? クロかシロか」
「グレーです」と大神は答えた。「ヒ素を混入したことを認めていないのでクロではないし、ホテルに行ったことは確かなのでシロとも言えない」
「わかった。明日の紙面で『重要参考人浮かぶ』という記事を出稿する。それまでは秘密だ」
「えっ、ちょっと待ってください。明日の朝刊ですか。それは危険です。感触はグレーと言いましたクロとは言っていません」
「君の感触で記事を出稿するのではない。こちらでちゃんと警察の裏をとっているから出稿するんだ。大丈夫だ。送ってくれた一問一答は使うから」
「明日の紙面に掲載するとは、夏樹さんに言っていません」
「言う必要はない。容疑者なんだからな。しかも実名を出すわけではない。気になるなら今から自宅に言って『書くから』と通告すればいい」。いつの間にか容疑者になっていた。
「自宅は教えてもらえませんでした」
「自宅まで尾行しなかったのか」
「しませんでした。そこまでする必要はないと思いました」
「大神らしくないな。プロの記者としては失格だな」
「興梠さん、捜査を担当している大阪府警捜査一課にあてる必要がありますよね。そもそも大阪のデスクには連絡してくれましたか」
「わからんやっちゃな。大阪府警にあてる必要はないんだ。警察庁と大阪府警は一体なんだ。情報も共有している。警察組織とはそういうもんだ。東京と大阪でいがみ合っているわが社とは違う。大阪社会部はいつも東京の言うことを聞かない。反対のことばかり言うんだ」
「それでは約束が違います。私が今から大阪のデスクに電話して言います」
「それはだめだ」。興梠は焦ったようだった。「わかった。俺から言っておく。今から言う。だから君からは絶対に言うな。出稿についてはデスクとキャップの判断だ。君みたいな一記者がしゃしゃり出るもんじゃない」
「すぐに記事にするということは聞いていませんでした。ネタ元が警察庁の幹部だからといって危なすぎます」
「大丈夫だ。新しい情報が入ったんだ。夏樹は明日朝、間違いなく連行される。容疑者としての取り調べだ。夕方には逮捕される。もはや参考人ではないんだ。バリバリの容疑者に昇格したんだ」
「昇格って。本人が認めたならばともかく、否定していたんですよ。嘘を言っている感じではなかった。警察が調べても同じだと思います」
「君の取材と警察の取り調べを一緒にするな。必ず全面自供に追い込むはずだ。とにかく後は任せろ。お前の役目はここまでだ。よくぞ本人からインタビューをとった。その点は褒めてやる。余計なことを言わなければ100点満点のいい女なんだがな」
セクハラ発言もいいところだった。電話は一方的に切れた。興梠は完全にスクープをうつことに酔っている。「グレー」と言ったことを後悔した。「真っ白」と言えばよかった。直接会った感触としては、ヒ素を混入したという感じではなかったからだ。
だが、冷静になって考えてみると、夏樹の行動は不自然極まりない。ホテルまで行っていることは本人も認めている。大神の短い取材の間にもあいまいな受け答えが何回かあった。なにか隠された背景があるのかもしれない。捜査本部はすでに核心をつかんでいる可能性がある。夏樹が警察の取り調べで、洗いざらい本当のことを言えば、毒物混入事件の真相が解明されていくことになる。無理矢理でも、そう思おうとした。
★★「マルチ商法」の元女性社長に出頭要請/大阪のホテル毒物混入事件で大阪府警捜査本部(特ダネ指定・テレビ・ラジオ事前放送禁止・ネット禁)=予★★
ホテルエンパイヤー大阪で起きた毒物混入事件で、大阪市内に住む製薬会社アルバイトの女性が関わっていた疑いが強まったとして、大阪府警捜査本部は4日、女性を重要参考人として事情聴取する方針を決めた。女性はスーパー美容液のマルチ商法を展開した会社の社長として中心的な役割を果たしていたが、マスコミにたたかれたことに強く反発し、以後行方不明になっていた。パーティが開かれた当日に会場まで行ったことを本紙取材に対して認めている。事件は大きなヤマ場を迎えた。
午後10時。記事の予定稿が大神のパソコンに流れてきた。前文に、重要参考人として事情聴取を受けるのは、「大阪の製薬会社でアルバイトをしている女性で、スーパー美容液のマルチ商法を展開した中心人物」となっていた。マスコミ関係者ならすぐに水本夏樹だとわかる。本文は、事件の経過が書かれているだけで、新しい要素はなかった。さらに、大神が書いた夏樹との「一問一答」も記事の予定稿として添付されていた。
大神は東京の社会部長に電話した。
部長は大神だとわかると、「スクープだな。君の手柄だ」とねぎらった。
「私の手柄とか、違いますから。予定稿を読みましたが、この記事、大丈夫なんですか」
「興梠が複数のネタ元にあたっている。大丈夫だ。君も夏樹への直あたりに成功したらしいじゃないか。謙遜するな」
「『一問一答』まで出稿されそうになっています。これではわが社が犯人と断定しているようになります」
「『一問一答』の原稿は見ていないな。デスク判断に任せよう」
予定稿が出稿されてから、大阪本社編集局で検討が始まった。大神も呼ばれた。早い版の輪転機が回り出す降版まで1時間しかなかった。
「なんなんだ、この原稿は。容疑者扱いじゃないか。水本夏樹が真犯人だと断定しているようなもんだぞ」。大阪社会部事件担当デスクの小林が不機嫌な顔で言った。前の会議で大神をなじった男だ。
「本当に夏樹が毒物混入事件の真犯人なのか」。大阪社会部長が大神に向かって聞いた。
「興梠さんが警察庁幹部ら複数の人から裏をとったと聞いています。明日朝、連行されるということも確認できたと言っていました」。大神が答えた。
「大阪府警の捜査本部はどう言っているんだ」と社会部長。相当あせっていて、早口になっていた。
小林が答えた。「今、府警の担当メンバーが総あたりで確認作業をしています。間もなく連絡がくると思います」とそこまでは丁寧に話したが、急に声色が変わった。
「それよりも大阪社会部への連絡が遅いんだよ。俺のところに一報が来たのは午後9時だ。大神さんが夏樹と会ったのは何時ですか」
「午後5時すぎでした」
「その時になんで言ってくれなかったの? 昨日の打ち合わせ会議で大阪社会部に連絡するようにって話し合ったじゃないか」
「はい、デスク同士でやりとりすると聞いたもので」
「直接、俺に言って来いよ。あんたは東京から来た応援組のまとめ役なんだよ。会議を抜け出して夏樹に会いに行ったんだよね。抜け駆けばっかりだな。そうやってスクープを取って来たのか」。容赦なかった。大神は完全に分が悪かった。なにも言い返せなかった。
その時、スマホの着信音が鳴り響いた。
「大阪府警のキャップからメールで連絡が入ったぞ」。遊軍キャップが声をあげた。
「読みあげます。刑事部長はつかまらない。もう寝てしまっているのか、無視されているのか。捜査一課長は捜査本部に泊まり込みの模様で家には帰宅しない。事件を担当する捜査一課の警部にあたった感触では、夏樹を明日朝から事情を聴くことは間違いなさそうだ。あくまで参考人で逮捕令状はとっていない。疑いはあるが犯人と決まったわけではない。引き続き降版ぎりぎりまで取材を続けるが、記事にする場合は、相当抑えた表現にした方がいい」
小林デスクがその場で、府警キャップに電話した。「他社がうってくる可能性は?」と聞いたが、キャップは「この件について他社の動きはない。さっきの警部にもどこの社もあててきていない」と答えた。
小林デスクが言った。
「時間がないので出稿について決める。興梠は警察庁の幹部から情報をとってきて、複数から裏をとったとさっき俺にも言っていた。容疑者として取り調べをするという。だが、大阪府警の情報では現時点では、あくまでも参考人としての事情聴取だ。出稿はするとして、トーンをどうするかは大阪と東京のデスク間で決める。ところでこの『一問一答』についてはどうする。執筆者の大神の意見を聞こう」
「私は逮捕されれば、その時に使ってもらえればと思います」と大神は自分の考えを言った。
「俺もそう思う。それでは君の方から出稿を取りやめると東京のデスクに言ってくれ」と小林デスクは言った。
「私が言っても聞いてもらえるかどうか。正直、難しいと思います。私も言いますが、最終的にはデスク間で決めてもらえれば」
「しゃあねえなー。スター記者に頼んでもだめか」。打ち合わせは終わった。
大神は東京の井上デスクに連絡しようとしたが捕まらず、当日の東京社会部の出稿責任デスクの山本に電話して「『一問一答』についての出稿は控えたい、というか現時点では記事化するべきではないと思います」と話した。
「今、その件で興梠と話しているところだ。紙面構成についてはデスクに任せろ。君の出る幕ではない」と一方的に言われ、電話を切られた。
翌5日朝、記事は一面と社会面トップを飾った。夏樹に対する「一問一答」については大阪本社は出稿を見送り、東京本社は社会面に掲載するという異例の展開をみせた。さらに東京紙面では、記事の末尾に「大神由希」という署名が加えられていた。最終版の降版直前に、東京の当番デスクの山本が署名を入れた。「『一問一答』なのに署名がないのはおかしい」との考えからだった。
そして、夏樹の自宅に早朝、捜査員が迎えに現れ、夏樹は捜査本部に連行された。府警の捜査一課担当記者が夏樹の住所を刑事から聞き出し、自宅から夏樹が出てくるところをカメラマンが撮影した。ほかの社のカメラマンはいなかった。大神はセイラのことが気になった。捜査一課担当記者から住所を聞いて夏樹が連行された後の自宅に向かった。
製薬会社から歩いて20分ほどのマンションだった。夏樹と話した公園のすぐ近くだった。「水本」という表札はなかった。諦めて帰ろうとしたところ、セイラがランドセルを背負ってマンションの正面玄関から出てきた。
「セイラちゃん、お母さんは?」
「男の人が来て、一緒にどこかに行った」。大阪府警の刑事のことだろう。
「セイラちゃんは1人で大丈夫なの」
「小学校にちゃんと行くようにとママに言われた」
「1人で行ける?」
「大丈夫」
「帰りは?」
「ママが迎えに来てくれるから大丈夫」
「そうか、わかった」
大神が黙って見送ろうとすると、セイラが「おねえちゃん」とはっきりした声で言った。
「ママはね、毒物なんて入れてないから。絶対に入れてないから」
そう言うと、セイラは大神に背を向けて走っていった。