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夏休み自由研究「ぎんしお少々」

先日、「ぎんしお少々」という漫画が完結を迎えました。
残念ながら少ない巻数での完結となってしまいましたが、表現や雰囲気がとても自分好みで、大好きな作品になりました。
今回は、その「ぎんしお少々」において、「なぜ彼女たちはフィルムトイを使うのか」をテーマに考えていきたいと思います。


作品紹介

「ぎんしお少々」(作:若鶏にこみ)はいわゆる日常系きらら4コマで、フィルムトイを主題として、人と人との関わりを柔らかに描いています。キャラクターもみんな可愛らしくて魅力的です。
また、「カメラ漫画」ではなく「写真を撮ることそのものの話」である(にこみ先生談)、というところは少し変わった点でしょうか。
噛めば噛むほど味が出る作品ですので、好きな人はどっぷりハマるのではないかと思います。是非ご一読を。(下記リンクより試読可能)


フィルムトイとは

さて、作中で彼女たちは、主にフィルムトイと呼ばれるジャンルのカメラを使用します。これはフィルムカメラであり、かつプラスチック等がメインの素材となっているオモチャカメラのことです。
外見は可愛らしいですが、当然カメラとしての性能は低く、またフィルムであるが故に現像の手間もかかります。
彼女たちは現代の女子高生(1名社会人ですが)なので、当然スマートフォンを所持しています。そしてそこには、下手なデジカメよりも性能の良いカメラが付いています。撮った写真はすぐに確認できて、加工・共有までできてしまう優れものです。
それなのにどうして、彼女たちはフィルムトイで写真を撮るのでしょうか。
今回は主に撮影行為を行う、藤見鈴さん、塩原まほろさん、塩原もゆるさんについて、それぞれ考えてゆきます。

若鶏にこみ『ぎんしお少々 2』p.18,芳文社,2022


「撮影者」「被写体」「閲覧者」

個々の具体的な話に入る前に、少し用語について説明しておきます。
にこみ先生も度々言及している写真論「明るい部屋」において、著者ロラン・バルトは、次のようなことを、写真について考える端緒としています。

私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象となりうることに注目した。すなわち、撮ること、撮られること、眺めることである。

ロラン・バルト(花輪光訳)『明るい部屋 写真についての覚書』p.16,みすず書房,1985

ここでは、これら三つの動作の主体、すなわち「写真を撮る人」「写真に撮られる人」「写真を見る人」のことを、それぞれ「撮影者」「被写体」「閲覧者」として話を進めていきます。


藤見鈴の場合

藤見鈴さんは、高校から別々に暮らすことになった双子の妹・藤見しろさんに、自分の生活が楽しいということを伝えるため、フィルムカメラで写真を撮るようになります。
当然彼女はスマホを持っています。銀さんとは頻繁にLINEでやりとりをしているようですし、友達の多い彼女のことですから、インスタやtiktokにも親しんでいるでしょう。
しかし彼女は、少なくとも銀さんとのコミュニケーションに関しては、フィルムカメラを使おうとします。

その理由を考えてみると、「それはスマホでやってもらって(①-p.61)」に「それじゃ上手に伝えられないっていうか…(①-p.61)」と返し、「過ぎた事を上手に伝えるのは難しい……(①-p.65)」と述べる鈴さんには、「反スマホ」的な思考があるように思います。

カメラのスマホへの移行は、写真の歴史の中で最も大きな変化であると言えます。そしてそれにより起こることは「撮影者」の埋没です。

しかしスマートフォンでこれらが一変した。今はポケットの中にスマートフォンというカメラがいつでも入っているが、それは写真を撮るぞという意気込みのもと持ち歩いているわけではない。撮影にコストはかからず、いつでもいくらでも撮れ、特に作業しなくても整理・保存される。つまり、撮影・現像行為が意識されなくなったため、忘れやすくなったのだ。加えて簡単にシェアできるようになり、ほかの人が撮った写真を保存することもたやすくなった。かくして、撮影者が誰なのかは曖昧になった。

大山顕『新写真論 スマホと顔』pp.144-145,株式会社ゲンロン,2020

そんなかつての写真から、撮影してから閲覧されるまでの間、つまり幻像時間がなくなって、写真のすべてが現在のものになった。(中略)写真の時制はExif情報に記されたものではなく、閲覧時刻に属するようになった。簡単に言えば、写真のありかは撮影者から閲覧者に移行したのだ。

大山顕前掲書p.111

カメラ・オブスクラからフィルムカメラ、そしてデジタルカメラの時代までは、撮影者となれるのは限られた人間のみでした。しかし、その制約は、スマホの登場によって霧散します。今や誰もが撮影者であり、世界は特段の意識無しに撮られた写真で溢れています。
そしてそれらの写真は、撮影後すぐに閲覧可能な状態になります。現像時間が失われて撮影と閲覧がシームレスになったことで、撮影行為の影は薄れ、シェアされ閲覧されることこそが写真の重要な目的となりました。
こうして、「閲覧者」が重要になり、「撮影者」は消えてしまったのです。

SNSに親しんでいるであろう鈴さんは、この「撮影者の死」とでも呼べるようなスマホ写真の現況に違和感を感じ、銀さんとのコミュニケーションにおいて、フィルムカメラを使用しているのではないでしょうか。

撮影と同時に閲覧され始めるスマホ写真と違って、フィルムには現像の時間が存在しています。この時間が撮影と閲覧を物理的に切り離すことで、撮影行為は特別な意味を持ち、撮影者の存在が意識されるようになります。
また、フィルムの独特な風合い(=画一的なスマホ写真との差異)も、撮影者の担保に一役買っています。

写真の現像時間の奪還は、即ち撮影者の奪還です。誰が撮ったか分からない風景も、撮影者が分かれば身近なものに感じます。
鈴さんの目的「楽しいって分かって欲しくて……(①-p.61)」のためには、必ず自身が「撮影者」であることの明示が必要なのです。


塩原まほろの場合

藤見鈴さんがフィルムを使う理由を「反スマホ」とするのならば、塩原まほろさんのそれは「反評価」的な立場から来るものであると言えます。

もゆるさんの姉であり、鈴さんの同居人[要出典]である塩原まほろさんは、高校1年生時に写真部に所属していました。
当時はデジタル一眼を使用し、楽しく写真撮影をしていた彼女ですが、自分の作品がフォトコンテストに入選したことが原因で、写真から距離を置いてしまいます。

若鶏にこみ『ぎんしお少々 2』p.82,芳文社,2022

彼女は展覧会に並べられた自分の写真を見て、「気味が悪い」という感想を抱きます。これは、彼女が写真において、「撮影行為の楽しみ」を重視していることに起因すると考えられます。

写真展の開催は画家の個展同様美術館の特別企画となった。ところが写真家は画家と同じではない。写真家の役割は、まじめな撮影では多く退いたところにあって、ふつうの写真の用途ではすべて事実上無関係だからである。私たちは撮影された被写体に関心をもつかぎり、その写真家は極力控え目であることを期待する。こういうわけで写真ジャーナリズムの成功自体が、ひとりの優秀な写真家の作品が、彼または彼女が専売の主題をもっていないかぎりは、他の写真家の作品と区別がつきにくいということにあるのだ。

スーザン・ソンタグ(近藤耕人訳)『写真論』p.138,晶文社,1979

公の場で写真を閲覧する際、まず我々が注目するのはその「被写体」です。『ハゲワシと少女』を思い浮かべることは出来ても、そのカメラマンの名を記憶している人はほとんどいないでしょう。壮大な風景写真を見ても、そこに至るまでの撮影者のドラマは語られません。重要なのは何が撮られているかであり、そしてその写真が素晴らしいほど、被写体の外への意識は希薄になっていきます。
このような場において写真は、ただ被写体と、精々が構図等の技術的な要素によってのみ鑑賞されるのです。

写真を始めて間もなかった当時のまほろさんは、評価されるようないわゆる「いい写真」が撮りたかったわけではありませんでした。
彼女が大切にしていたのは、写真において「内輪的なもの(②-p.82)」ともいえる背景的要素、即ち誰が・いつ・どこで・どんな状況で撮ったかというような、写真が備えている情報です。そしてそれは、「撮影行為の楽しみ」をそのまま示すものです。
このような考えがあったからこそ、彼女は自分の作品に賞が与えられたことで、写真に居心地の悪さを感じるようになってしまったのでしょう。

しかしその後、同じような考えを持つ友人が、360度撮れるという変わったカメラを買いました。この破天荒なカメラの存在は、まほろさんにきっかけを与えます。彼女はこれを受け、デジタル一眼を手放して、フィルムトイを購入しました。

フィルムトイは、先にも述べたとおりカメラとしての性能はよくありません。評価されるいい写真を撮ることがそもそも困難なカメラです。
しかし、これは言い換えれば、そもそも評価の対象から外れることが出来るということでもあります。そして、そこにはいい写真も悪い写真も無く、ただ「撮りたい写真」だけがあります。
フィルムトイが、狭い世界からまほろさんを連れ出してくれて、彼女は再び写真を楽しめるようになったのではないでしょうか。

まほろさんにとってのフィルムトイは、評価のベクトルから離れ、純粋に撮影行為の楽しみを追及することができるアイテムなのです。


塩原もゆるの場合

最後に、本作の主人公たる塩原もゆるさんについてです。彼女は、高校の入学祝いとしてまほろさんからフィルムトイをもらい(押し付けられ)、写真を撮り始めます。
他の二人と比べると受動的な出会いではありますが、しかし彼女のスタイルには、フィルムトイが非常にマッチしています。

もゆるさんは、気ままに世界を切り取るように、銀さんに言わせると「日記みたいに(②-p.26)」写真を撮ります。そして、その時々の記憶そのものを撮影しようとします。
(この点については以下の記事で、カメラの性能的な話を交えて詳しく述べられており、大変参考になります)


ここに付け加えて言うのならば、彼女は、撮影だけでなくそこから一歩進んだ「撮った写真を閲覧すること」を、とりわけ楽しみとしているように思います。

若鶏にこみ『ぎんしお少々 2』p.45,芳文社,2022

これは、同じ写真をある時では「撮影者」として、またある時では「閲覧者」として、二重に捉える行為です。そしてここで生きてくるのが、フィルムトイの「不確実さ」です。

我々が持つスマホは、あまり意識せずともきちんとした写真を撮ることが出来ます。また例え失敗してしまったとしても、そのような写真たちはすぐにカメラロールから削除され、撮り直されます。現代では、写真の失敗は駆逐され、成功だけが閲覧に供することになります。

しかし、もゆるさんの場合はそうではありません。彼女のカメラは扱いが非常に難しく、従って、彼女はよく撮影を失敗します。手ぶれであったり、多重露光であったり、時には写真が完全に真っ黒になってしまったり。そして、その失敗を削除して撮り直すことも不可能です。

写真は過去を切り取って未来に残すものであり、一般的に失敗が好まれることはありません。それは正しい過去ではないからです。
しかし、不確実なフィルムトイが写す失敗の写真は、撮影者自身が閲覧者となって写真を捉える際に、特別な効果を及ぼします。

失敗の写真は、自分の記憶の中の写真(=撮影時のイメージ)とは違っています。即ち、撮影者は閲覧の際、自身の意図していなかった形に変化した写真を見ることになるのです。
そしてこの違いは、特に他者と写真を閲覧する場合においてのアクセントとなります。手ぶれから焦って撮ったことがバレたり、人と猫との多重露光に落ち込んだり(喜んだり)、真っ黒になってしまった集合写真を見て笑い合ったり。
成功の写真は、鮮明であるが故に過去をありのままに写すだけであり、閲覧しても予想外の事態は起こり得ません。これは不確実な写真を残すことが出来る、フィルムトイならではの楽しみです。

このようにして、思い出を振り返るだけになりがちな閲覧行為が、新たに化学反応を起こします。そして、この閲覧行為自体が、さらに思い出へと昇華されることになります。失敗が再生産をもたらすのです。
もゆるさんが失敗した写真たちも平等に愛し、「失敗でも、実際の記憶と違う写真が出てくるのってちょっとお得じゃない?(②-p.49)」とまで考える理由は、ここにあるのではないでしょうか。

もゆるさんの操るフィルムトイは、彼女の視野だけではなく、その不確実さによって、写真の可能性をも広げているのです。


まとめ

ここまで、「なぜ彼女たちはフィルムトイを使うのか」について考えてきましたが、その理由は、一般的には欠点と思われることばかりです。
しかし、この疑問に対する答えは、そのまま「フィルムトイの良さはどこか」という問いの答えでもあります。
つまりその欠点こそが、フィルムトイの良さなのでしょう。もゆるさんの「そこもかわいいですよねえ~」というセリフが聞こえてきそうです。

この不便で不安定で不確実なカメラが、彼女たちの日常を鮮やかに彩っていくのです。





本文の引用は
若鶏にこみ『ぎんしお少々 1』芳文社,2021
若鶏にこみ『ぎんしお少々 2』芳文社,2022
より
記事サムネイルは『ぎんしお少々 1』表表紙より




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