あんこと広東語。その時、2つの距離は0.1mm。
今回は、自分で数年後にこの記事を読み返して“こんな時代もあったよねと‘な感じになってて欲しい、というわけで書いたものである。頼むぞ未来の俺。
■広東語を学ぶ
俺の今住んでいる香港は、日常会話が広東語である。
前も書いたのだが、俺はそもそも中国の言語というものを、全く学ばないまま香港に来た。そりゃ俺も香港のカルチャーには興味がある方だとは思う。でも積極的に「広東語を学びたい!」とまでには、これまで至らなかった。
そんな中で突きつけられる「第3言語を学習せねばならぬ」状況に直面し、“奮闘努力の甲斐も無く今日も涙の日が暮れる”状況を今回伝えたいと思う。
■他言語学習は映画「タイタニック」の終盤シーン
映画「タイタニック」を観た人は、登場キャラクターたちが海に放り出されるシーンを覚えていると思うが、俺の広東語学習、というか他言語学習のイメージはマジでアレである。
ほっといたら溺れるので、何かに乗ったりしがみつく…。そのしがみつくものは、浮いて身体を預られる部分が大きければ大きいほど安全である。
他言語学習は、まず最低限浮かぶための身体の動かし方が、アルファベットと発声だ。
そして最初にしがみつくものは単語である。文法を学ぶということは、浮いてたモノがつながっていくイメージで筏(いかだ)に小舟になり、実際に話したり聞けたりすることが、帆やオールに、そしてエンジンになって自由度が上がり、生存率が増す…そんなイメージだ。
■日本人は英語が出来ない…こたあなくね?
俺は7年間英国にいた割には、「お前の英語は…understandableだな…」と、どんなにヘボくても、まず相手を褒める英国人にすらこの程度の評価の英語力なのだが、英国に到着した時は、あまり絶望感は無かった。むしろ「ああ、なんとかやってけるよな」という安心感の方が強かった思い出がある。
先ほど言った例えで言うと、くっそボロいが浮くライフジャケットを身に着けており、映画「タイタニック」で浮いてたドアくらいの大きさのものが周りに浮かんで、掴まっている状況だったのである。
もちろん英語のスキルとしては低いのだが、生存するという最低限の目標に限った場合では、良くは無いが希望は見える。
つくづく「ああ、本当に日本は米国に占領されてたんだなー」と、時々思う一方で、俺はまだミステリーもジェラシーもどちらも広東語で言えず「この辺すら単語力が無い俺...」という絶望の海が広がっているのだ。
■絶望的な第3言語の海で過ごす
広東語の場合は英語とかなり初期状況は異なる。例えていうと、「ライフジャケット無し、かつ泳げないので、モノに捕まるが、そのモノはペットボトルだったり穴の空いた浮袋」状態に近い。
要は「捕まるモノの形は見えるし存在はわかるが、捕まると浮力が足りなさすぎて、自力でなんとかしないと溺れ死ぬ」のだ。
自力で何とかする=地味で継続的な…本当に筋トレと同じ能力が必要となるわけで、その辺をこれまでの人生でグレート・エスケープしてきた俺が、ついにとっ捕まるときが来たのであった。
■俺たちに必要なアンコ
さて、他言語を使うときの脳はバッテリーに似ている。英国滞在時代に俺がよく思ってたのは「脳内英語電池」というやつだ。
この電池が切れると、英語を「音声」ではなく「音響」として捉えはじめてしまい、脳への情報の入力が遮断される。というか、理解するのを拒否するようになってしまう。
このバッテリー容量は一定ぽいのだが、英語に慣れてくると消費電力がどんどん低電力になり、ある程度長持ちするようになる。なぜなら英語を英語のまま理解できるようになるので、翻訳消費電力は少なくてよくなるからだ。
それとは別に今回気づいたのは「脳内・他言語モードの存在」である。
俺が広東語を学習するときは、脳を「外国語(英語)モード」に切り替え、そして広東語を学ぶという作業を行っているらしく、どうも広東語→英語→日本語という翻訳をしている気がするのだ。
だから、かなり非効率な電力の消費をしていて、ものの見事に「もうバッテリーが20%以下の省電力モード」になり、これまた学習後「俺の集中力の無さったらねえ」「予習も復習もダメな俺は...」と毎回落ち込むわけである。
ちなみに、バッテリーの急速充電は「甘いもの」なので、俺がしょっちゅうアンコを作っているのはそのためである。
てなわけで、なぜアンコと広東語の距離が0.1ミリなのかを理解してもらったところで、この一曲をば。
それでは下次再見(はーちーじょいぎん、またねー)!
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