死ぬまでに

 僕は死ぬのが死ぬほど怖い。小さい頃からそうだった。幼稚園生くらいの時のいちばん古い記憶の一つに、「夜中に目が覚めたら急に死が怖くなって、トイレに入っている母親に、ドアをどんどんと叩きながら『死ぬのが怖い!無になるのが怖い!』と泣きながら叫んでいた」というものがある。

 中学生の頃にも似たようなことがあった。ネットの記事で「背が高い人は心臓への負担が大きいため早く死ぬ。また、遺伝子的に背の低い人には長生き遺伝子があるが、高い人にはない。つまり、背の高い人は2重で早く死ぬ」というのを見たのをきっかけに、また死ぬのが死ぬほど怖くなった。自分は背が少し高かったから。それからというもの、軽い鬱だったのだろうが、何事にも心が動かず、死んだような日々を送っていた。結局それは時間の経過で治ったから良かったのだが、完治したのではなく、目を背けることに慣れたというだけだった。

 いまでも僕は、夜、無音の中で眠ることができない。目をつぶっていると、死ぬということ、死んだら無になるということ、無になったらどうなるのかということ、そういう思考がどんどんと進んでしまい、泣きたくなるほど叫びたくなるほど暴れたくなるほど死ぬのが怖くなる。だから、毎日ラジオや音楽を流し、その音に集中することをしないと眠ることができない。

 死を怖がるのは、ほとんどすべての人の共通する感情だと思うが、自分のそれは顕著だったと思う。ただ、稀有というほど珍しくはなかったとも思う。堀江貴文が「死の恐怖を忘れるために仕事し続けている」ということを言っていたのはよく理解できた。これを見つけたのは中学生の時だったと思う。ネットで死が怖くなくなる方法を調べても「死なんて寝るのと同じようなもん」とか「死んだらその死を自分では認識できないから考える必要がない」みたいなのしか出てこない。そんなんで怖くなくなるんだったら、こっちも困ってないわ。俺らはお前らよりもずっと死について考えてんだよ。そんなこととっくに思いついて、それでも解決しないから悩んでんだよ。って思った。だから「死の恐怖はどうしようもなくて、目を背け続けることしかできない」というようなホリエモンの考えはとても共感できた。多くの人にはそんなの理解できないのが普通なんだと思う。「死?まあ、こわいよね」くらいの認識しかないんだろう。こっちが異常なんだろうな。たしかに悩んで怖がって解決するものじゃないのに何でそんなに死のことばっか考えてんのかって感じだもん。俺も知りたいよ。なんで死のことばっか考えてんだろう。

 死について考えてたどり着いた(現時点での)結論のようなものもある。それは、「僕たち人間は自然、また、宇宙、そして、もっと大きな流れの中のひとつである」ということだ。なんか胡散臭いというかスピリチュアルっぽいように思うかもしれないけれど、ちょっと聞いて(読んで)ほしい。
 例えば僕らがケガをしたら、その部分の細胞は死んでいるわけだけど、僕らは生きてるしケガはすぐ治るしそんなことは気にせずに生きていく。人間もそれと同じで、自然という大きな流れの中で命あるものは死んでいくけど生まれてくるものもいる。人一人死んだからって自然が終わったりしない。もっと言えば自然がもし終わっても宇宙は終わりはしない。人間の生死なんていう小さなことを気にしているなんて意味がない。
 ただ、それでも死ぬのは怖い。さっきも言ったけど、そんなこと言われても(自分で言ってるんだけど)怖いもんは怖い。だから困ってるんだよってかんじ。自分の中で考え方がある程度固まったのはいいけど、それが死の怖さを軽減することには繋がらなかった。収穫と言えば、こういう考え方をするようになってから、いままでアレルギーが出ていたスピリチュアル系のこととか宗教系のことも、ある一定の筋は通ってたりもするのかもな、なんて思うようにはなった。まあ、死とは全く関係ないけど。

 歳を取ったら死ぬのが怖くなくなると聞く。私の母も死ぬのは怖くないと言う人間だ。しかも結構早い段階からそうらしい。冒頭で書いた幼稚園生の頃の話だけど続きがあって、泣いている僕をなだめながら母は「お母さんは死んだらもういいかな。無になっても。だってもうたくさん頑張ったからね」と言った。僕にはその気持ちは全く分からないが、歳を重ねれば、もしくは経験や思考を重ねればそのような考え方にたどり着けるのだろうか。それとも母はもともと死をそこまで怖がらない多数派側の人間だからそのようなことを言えているだけなのだろうか。前者だったら良いのだが。一休さんのモデルになった一休宗純が坊さんのくせに欲塗れのジジイだったことは有名だが、死の直前の言葉は「死にたくない」だったらしい。やっぱり歳をとっても死が怖いままの人もいるんだなという絶望と共に、きっと一休宗純は俺と同類なんだろうなという何とも言えない安心感もある。死が怖くなくなるなら、早く歳を取りたい。

 少し逆説的だが、僕は自殺すら羨ましい。自殺したい。自殺するということは、一時的に死の恐怖から逃れられた、もしくは死の恐怖を超えたということだと思うから。こんなことを言ったら、「お前は自殺する人の心境を何もわかってない」と言われるかもしれないが(そんなこと言われたことない)、「お前らは死のことを何もわかっていない」と言い返したくなる。僕も良く分かっていない。

 話は変わるが(既に変わりまくってるけど)、僕は死刑制度には反対だ。それは冤罪とか取り返しがつかないとかそういう理論的な話ではなくて、「いかなる理由があっても人を殺してはいけない」という感情論に尽きる。悪いことをした人なら殺していいって、お前ら死を分かっているのか?って思う。人を殺すんだぞ?死のことをよくわかってないから、殺すなんていう発想が生まれるんだろうな。死なんて人間が扱って良い代物じゃない。

 死をこんなに怖がる理由は他にもある。僕は最近難病になった。潰瘍性大腸炎ってやつだ。難病とは一生治らない原因不明の病のことで、つまり僕の病気は一生治ることはない。幸い死には直結しないが、癌を誘発したり、治療のために投与されている免疫抑制剤が癌その他諸々の重病の発症率を上げているから、健康とも言えない。病気だから健康なわけはないんだけれどね。なんでこんなに死を怖がる俺が難病にかからなくちゃいけないのかと思うが、難病に急にかかって納得している奴なんていないだろうからおとなしく呑み込んでいる。これのせいで僕は「思考の癖によって死を身近に感じている人」ではなく、本当に死が身近な人になってしまった。非常に悲しいことだ。死が怖いということは、病も老いも怖いということだ。この治らない病を抱えながら、さらなる病のリスクと戦いながら、老いていく。そんな人生を歩んでいかないといけない。苦しすぎる人生だな。我ながら。

 僕の人生の目標は「死を受け入れること」だ。死を受け入れられたら、極論その瞬間に自殺しても良い。だって死を受け入れられているんだから。早く死ぬのが怖くなくなりたい。死ぬまでに死を受け入れたい。それのためなら何を失っても良い。だって死んだらすべて終わりなんだから、その死を受け入れられるかどうかだけが、大事なんだ。宗教を心から信じる家や国に生まれてくればよかったのに。病気になんてならなければよかったのに。死をこんなに怖がるような人間じゃなければよかったのに。と思う。でもどうしようもない。

 きっと歳をとって死を受け入れられた人は人生に疲れていたんだろうな。「こんなに頑張ったんだからこれ以上はもう良いよ」って。そうなるためには、一生懸命生きないといけないな。生き飽きるくらい。
 僕は一生懸命生きていきたい。後悔が無いように人生をやり尽くしたい。長生きして色んな景色を見てみたい。そして僕はいつか、死ぬまでに、死にたいと思いたい。

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