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苦手なこと(日記59)

いまだに苦手なんだなあ、と、思うことがある。
気がついた時には、苦手になっていた。


さかのぼれば多分中学生のとき、入学していちばん最初に思ったこと。



「ああ、みんなが変わってしまった」
「ああ、みんなが、『男』と『女』になってしまった」


思春期の、はじまりだったのだと思う。
どんどん変わっていくからだとともに、みんなの雰囲気も、だんだんと大人になっていって、なんだかわたしには、とても遠い、遠くてまぶしくて、手の届かないものに見えてしまった。


そのときは、そんな言葉知らなかったけれど、


『疎外感』


というものを、入学式の当日に、強烈に感じてしまった。


おとなになった目で見れば、中学生、ましてや中学1年生なんて、しっかり「こども」だと思うのだけれど、そのときは、中学校という枠組みのなかで息をしているときは、そんなこと微塵も思えなくて、まるで自分だけが出来損ないのような、いくらあがいても、みんなの「ふつう」に手が届かないような、スタートラインにすら立てていないような、そんな気持ちになった。


その時からだと思う。
「集団でいる人々」というものが、とても苦手になってしまった。


たったひとり、面と向かって、お話をすることはできる。それは自分にとってよい時間になることが多いし、他愛のない話でも、もし相手がこころを開いてくれるのなら、もう少し踏み込んだ話でも、できる。


もうひとり加わって、たとえば3人でお話をするということも、たぶん、できる。お話を聞くことがとても好きだから、うんうん、と相槌をうって、会話をたのしむことができると思う。


それが、4人くらいになってくると、どうしたらいいか、わからなくなる。
5人以上とか、もっとたくさんの人数とかになってくると、わたしは自分の立ち位置がわからなくなって、うまくやらなくちゃと焦って、わたしが「ほんとうは」この場をたのしめていないことがバレないようにしなくちゃと焦って、どうしてたのしめないんだろうと、悲しくなってしまう。



それでも、高校生のときは、部活の部長をしていて、3学年含めると60人くらいの部員たちを、束ねることも、やっていた。
みんないい子で、やさしい子で、こんなわたしでも、部長として頼ってくれて、一緒に時間を過ごして、全国大会で一位になったりもした。
(部活はお琴の部活でした)


そのとき平気だったのは、たぶん、みんながやさしかったのもそうだけれど、わたしには、「部長」という役割があったから、その責任感で、みんなと関わることができていたのだと思う。



でも、あれからたくさんの時間が経って、おとなになって、ひとりのひととして、誰かとコミュニケーションをとろうというときに、どこかのコミュニティに参加しようというときに、相手が「集団」であると、うっ、となってしまって、その場ではなんとかやり過ごせても、その場をはなれるとぐったりしてしまうし、「集団」と関わることを、なるべくなら避けたいな、と、思っている。


今日も、就労移行支援でそのような場面があって、帰ってきてどっと疲れてしまって、改めて、自分は「集団」が、どうしても苦手なのだな、と思った。


でも、と、思う。


わたしは、ひとりのひとと、じっくり、ゆっくり、お話をすることが、好きだ。
ひとりのひとと、じっくり、ゆっくり、関係を深めてゆくことが、好きだ。


だったら今は、それでいいんじゃないかな、と思った。


たくさんのひとと、うまく関われなくても、良い。ひとりのひとと、誠意をもって、やさしさをもって、関わることができるなら、関わることを望めるのなら、わたしは、大丈夫なんじゃないかな、と、思った。


これから先、たくさんのひとと、上手に関われる日が来るのかは、わからない。
ひとには、どんなひとでも、得意や苦手があるものだから、わたしのこの「苦手」は、ずっと「苦手」のままかもしれない。


でも、「集団」をどんどん分解していったら、最後は「ひとりのひと」になる。
その、ひとりになったひとと、向き合って、視線を交わして、ことばを重ねることが、わたしにはできるから、自分を卑下することはないのかな、と、思った。


これからも、苦手な場面に出くわすことはたくさんあるだろうけれども、そんなときは、「でもわたしは、ひとりのひとと、きちんとお話することができる」ということを、忘れないようにしたい。
自分の苦手を、長い目で見てあげたいと、思う。

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