2024年のはじまりに(日記52)
12月31日。
わが家は、早めの「初詣」にゆくために、同居人氏2が運転する車で、神社にむかった。
コロナ禍で推奨されていた、「年内に初詣を済ます」ということを、そのまま取り入れているわたしたち。
31日のお昼過ぎにたどり着いたいつもの神社は、それなりに人がいて、これから夜に向けて屋台を準備している人たちがたくさん軒を連ねていて、活気があった。
並ばずにスムーズにお賽銭箱の前へゆき、今年のお礼と、来年もよろしくお願いいたします、の旨を、こころのなかで唱える。
持っていた小銭ぜんぶをお賽銭箱に入れてしまったから、3人合わせて100円玉が1枚しか残らなくて、3人分として、おみくじを1枚ひいた。
番号がついている棒がたくさん入っている筒を、わたしがしゃかしゃか降って、同居人氏2が筒を逆さにして番号を読み上げ、同居人氏1が該当の番号の引き出しからおみくじを取り出す、共同作業でのおみくじだ。
結果は「末吉」だった。
でも、3人での共同作業がうれしくて、わたしはおみくじをおさいふにそっとしまった。
1月1日、おめでとう、おめでとうと言い合って、3人でおせちとお雑煮を食べた。
それから映画をみようと同居人氏1が言い出して、1日からホラー映画を観て、あんまり怖くなかったなあってのんびり過ごしていたら、能登で、おおきな、とてもおおきな地震があった。
東京も、ながく、ゆらゆらと揺れて、これはどこかで大きな地震があったのかもしれないと、直感的に思った。
テレビをつけると、それまでお正月一色だったものが、一瞬で様変わりしており、同居人氏2と一緒に、しばし画面に釘付けになった。
東日本大震災のことを、思い出す。
あのとき、わたしは、テレビの前で泣いていた。
あまりのできごとに、胸が押しつぶされて、何も言えないし、なんてことが起きたんだろうと、ただただ、涙を流し続けた。
寄付もしたし、支援物資も送った。
それでも、自分がたまたま生きているということが、なぜだか申し訳なく、思っていたような気がする。
2024年になったいま、また、大きな地震を目の前にして、わたしは、涙を流さなかった。
刻々と全貌が明らかになってゆく、被災の状況を見ながらも、あのときのように、自分に対して、必要のない、申し訳なさを感じることは、なくなった。
あのとき学んだこと。
被災地ではない、わたしたちにできること。
それは、準備が整うのを待って、募金をしたり、いらぬ情報を流さぬようにしたり、デマを許さなかったり、いつもの自分たちの生活を、しっかりとまわしていくということ。
支援は一度きりじゃなく、細く、長く、続けていくとよいということ。
わたしは、自分に言い聞かせて、yahoo募金が立ち上がったことを見計らって、しずかに、募金した。
いまもまだ、いまだからまだ、被災の全貌があきらかにならずに、たくさんのひとが、つらい思いをしているのだと思う。
だからこそ今、自分にできることは、これから、細く、長く支援を続けてゆくことだし、自分のできる範囲で、祈りをかたちにしてゆくことなのだと、思う。
そして、自分の日常も、忘れない。
自分の日常を、否定しない。
自分の日常がなければ、これから先、細く、長く、つらい思いをしている方々を、支援することは、できないから。
だから、こんなときでも、わたしは、こころのなかでおもう。
3人で、あたらしい年を迎えられたこと。
noteで関わってくださるみなさんが、今日も元気でいてくれること。
ぜんぶ、ぜんぶ、ありがたい。
このことは、ちゃんと、「あけまして、おめでとう」という言葉に含まれる、祈りだ。
だからみなさん、あけまして、おめでとう。
そしてどうか、ことしもよろしくお願いいたします。
いま、つらい思いをしている、被災された方々を、忘れずにいます。
どうか、あなたが、1日でもはやく、あなたの日常へ戻れますように。
わたしにできることは限られていますが、わたしは、わたしにできることを、諦めません。
あなたへ。
祈りをかたちにして、届けたいです。
投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい