見出し画像

眠りこけて祈る(休職日記8)

金曜日に大きな事件があってから、ずっと寝こけていた。


起きているのが辛かったし、大きな事件のことばかりSNSからもテレビからも流れてくるから、なるべく見ないようにするしかなかった。

それでもどうしても気になってTwitterを開いたりして、ちらちらタイムラインを眺めて、なんとも言えない気持ちになって、携帯を置いて、また寝こけていた。


土曜日はほとんど一日中眠っていた。


朝起きて、あさごはんを食べて眠り、昼起きて、昼ごはんを食べて眠り、夕方起きて、料理をして、夕ごはんを食べてまた眠った。
眠り続けているあいだ、たいした夢も見なかった。


日曜日、朝起きて、同居人氏1と選挙に行って、そのまま買い物に行って、新しくなった冷蔵庫をぱんぱんにするべくしこたま買い物をして、帰ってきて、一緒に昼ごはんを食べて、また眠った。


事件が起きると、こころがぐいっとそこに引っ張られる。
東日本大地震のときも、ロシアとウクライナの戦争も、今回の事件も、それ以外にもさまざまな、圧倒的な暴力によって日常が壊される瞬間をまざまざと見せつけられると、強烈な無力感に襲われる。


無力感もなにも、自分は何者でもないくせに、と、自分では思うのだけれど、どうしても、壊された日常を思うと、胸が痛くて痛くて、たまらなくなる。


こういうときは、何をしてもダメで、だから、眠りながら時間が過ぎるのを待った。
眠って眠って、自分の心がしずかになるのを、ただ待った。


わたしたちの生活は、ほんの一瞬の、圧倒的な暴力で、いとも簡単にかたちを変えてしまう。
でもだからこそ、日々、積み重ねているものは尊くて、馬鹿になんてできなくて、ささいなこと、ちいさなこと、取るに足らないと誰かが吐き捨てるようなことにこそ、人生が宿るんじゃないかと思う。

思うというか、祈っている。
生活ってそういうものだし、生活って無価値なわけがないし、生活、生きて営んでゆく日々は、誰だって等しく、守られるべきだって、祈ってる。


圧倒的な暴力を前にして、唯一わたしにできることはこの、生きて、営んでいくという行為だけだと思うのだ。そして、言葉を厭わないこと。言葉を尽くすことを、諦めないこと。それがわたしにできることの全てなのじゃないかなあと、思う。


言葉を諦めてはいけない。
眠りこけたあとのしずかな心で、いま、思う。

投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい