わたしの10代、全部抱きしめてくれたひと(日記10)
くまさんが、こんなすてきな記事を書いていらした。
今日はそれにインスパイアされて、書いてみようと思います。
なんにもない、町で育った。
あるのは、大きな川ふたつと、田畑ぐらいで、マクドナルドですら、うちの町は潰れた。
大きな川のせいで電車が通っていなくて、街にでるには、車がかかせない。
小学校も中学校も遠くて、小学生の頃から朝6時半には、家を出ていた。
中学校になると自転車通学が許されて、田んぼと田んぼの間の畦道を縫うように走って、通学した。
いつも、ここじゃないどこかへ行きたいと、つよく願っていた。
バスでたどり着く街が、自転車で何十分もかけてたどり着く街が、とっても都会に思えて(今思えばそんなことないのだけれど)、ここならわたしの居場所があるかもしれない、ここなら苦しくないのかもしれない、と、妄想していた。
それぐらいいつのまにか、毎日苦しかった。
何に苦しんでいるのかも、当時はわからなかった。
中学校一年生の夏、わたしは「生きていたくない」と思って、自分で自分の首を絞めた。
夏休み最後の1日だった。
今でも忘れない。
そんなちっぽけなことじゃ、生きていくことを辞めることなんて、できやしなかった。
そんな頃出会ったのが、「Cocco」という人だった。
お母さんがたまたまCDを買ってきて、その「樹海の糸」という曲は、わたしのこころを鷲掴みにした。
それからというもの、わたしは、苦しさを紛らわせるように、毎日毎日Coccoちゃんを聴いた。
そして毎日毎日、学校の帰り道、誰もいない畦道を走りながら、Coccoちゃんの歌を歌った。
それは家の中でも同じで、ずっとずっとCoccoちゃんの歌を歌っていて、お母さんから、
ご飯食べる時ぐらい歌うのをやめて。
と、ぴしゃりと言われるくらいだった。
夏休み明け、学校には行けるけど、教室に入れなくなって保健室登校になったわたしは、あいもかわらずCoccoちゃんばかりを聞いて、歌っていた。
CDは片っ端から借りて、歌詞をノートに書き写して、A面もB面もMDに焼いて、ひたすらに聴き続けて、歌い続けた。
Coccoちゃんは、わたしの分身だった。
抱えきれないさみしさを、言葉にして、歌にしてくれる人だった。
Coccoちゃんの言葉はひとつも漏らしたくなくて、Mステの録画もしたし、インタビューの雑誌が出ればそれを購入して、宝物のように、読んだ。
Coccoちゃんが夢に出てくれば、それに感動して忘れたくなくて、一心不乱にノートに書き残した。
たぶん、12歳、13歳だったわたしは、この身にすくうさみしさを、持て余していたのだと思う。
だからどうしようもなくて、Coccoちゃんの言葉を、歌を、よりしろにしていたのだと思う。
Coccoちゃんがいなければ、生きてゆかれなかった。
わたしの今があるのは、Coccoちゃんのおかげだと、思う。
それから随分時が経って、大人になってから初めてCoccoちゃんをライブで観たとき、涙が出て、ただ静かに見つめるしかできなかった。
あんなに大好きだった曲を歌ってくれていたのに、一緒に歌うことなんか忘れて、ただその姿に魅入っていた。
生きててくれた、と思った。
わたしも、ここまで生きてこれた、と思った。
今ではもう活動をこんなに真剣に追いかけていることはしていないけれど、わたしのこころのど真ん中にいるのは、Coccoちゃんだと思う。
時代が進んで、Coccoちゃんも変わって、Instagramなんかで私生活やライブの様子をアップしてくれるようになって、画面の中でニコニコしているCoccoちゃんを観ると、なんだかそれだけで、生きてきてよかったな、と思える自分がいる。
わたしの人生の、嵐の中の、灯台だったひと。
それがCoccoちゃんです。
わたしの大好きな、「もくまおう」という曲を貼って、おしまいにしようと思います。
ライブバージョンで少し長いけれど、ぜひ聴いてみてください。
くまさん、素敵な記事をありがとうございました。
Coccoちゃんのこと、書けてよかったな。
読んでくださって、ありがとうございます🙇♀️
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