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自分のことをかんがえる(日記53)


今日は2週間に一度の通院日だった。


朝から、今日休みだった同居人氏2と、山盛りのダンボールゴミと、ペットボトルのゴミを、えっちらおっちら、出してきた。


そのまま、寒いねえ、と言い合いながら、駅までの道を歩く。
同居人氏2は、今日も病院までついてきてくれて、優雅にモーニングを楽しむみたい。


病院に向かう電車は、「下り」の電車にあたるのだけれど、そのせいか、いつもだいたい、病院に行く時間は空いている。


電車に乗りながら、ぽつりと、


もし働き始めることができたら、下りの電車で通勤したいなあ。


と言うと、
同居人氏2が、



そうだよ!それが最高だよ!下りなら、朝は空いてて、帰りも空いてる。みんなと逆だからね。それは絶対いいよ〜


と言った。


最近、とても落ち着いて過ごせているおかげか、「働き始めたら」のことを、考えられるように、なってきた。


ちょっと前までは、「働き始めたら」なんて考えたら、息がひゅっ、と詰まり、それ以上なにも考えられなかったのだけれど、それを思うと、少しずつ進歩している。


2週間ぶりの病院は、いつもと変わらず、空いていた。


ぼんやり待っていると、わりとすぐ名前が呼ばれて、診察室に入る。


いつもどおり、先生の、


どうですか?


という一言から、今日も診察がはじまった。


最近、とても落ち着いて過ごせていることを話すと、それはよかったと、先生は喜んでくれた。
落ち着いているならば、いま、たくさん飲んでいる薬を、様子を見ながら、すこしずつ減らしていけるといいですね、と、言ってくれた。


就労移行支援に通うようになって、就職したあとも安定して働くようにするためには、自分なりのストレス解消法や、調子が悪くなるきっかけを知っておくことが、安定した勤怠につながる、ということを、繰り返し言われている。


そんな中で、今までずっと、自分は調子が悪くなるきっかけがわからない、もしくは、きっかけなんてないと思っていたのだけれど、今日ふと、「からだの疲れが溜まると、わたしの鬱は顔を出すのかもしれない」と、思った。


そのことを先生に伝えると、


からだが疲れる、というのは、若いときよりも体力が落ちているのだから、仕方ない部分があります。若い時のように動こうと思わずに、そこに戻ろうとせずに、今の自分にある体力というものを、ちゃんと知ってあげることが大切ですね。


と、言われた。


たしかに、わたしは、なんとなく、「元気になったら『元に戻る』んだ」と、思ってた。


でも、それが指す『元の状態』というものが、今の自分とはすでに遠いものだとしたら、元気になることが、なかなか達成できなくて、かなしいものになってしまう。


『今の自分がもっているもの』に、ちゃんと目を向けてあげる一年にすることが、働くことにつながってゆくのかもしれないなあと、思った。


帰り道、モーニングを終えてほくほくの同居人氏2と一緒に、同居人氏1へのおみやげである、おいしいコッペパンをたくさん買った。


図書館で予約していた本も受け取って、いつもとは違う帰り道を歩きながら、同居人氏2と、どうということもないことを、笑いながら話した。


家に帰れば、同居人氏1が、おかえりと迎えてくれて、家の中は、あたたかだった。


こうやって少しずつ、自分のことをわかってあげながら、生きていくんだな、と、思った。

陽の当たる方向へ、歩んでいける1年になるといい。
そんなふうに、思った。

投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい