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かなしさと距離を置く(日記60)

かなしさと距離を置けるようになったのは、ほんとうに、ここ最近のことだ。


日々はたおやかに過ぎてゆき、そのなかで、就労移行支援に行って勉強をしたり、おうちで洗濯したり、掃除したり、料理したり、同居人氏たちと笑いあっている合間に、ときたまひょっこり、「かなしさ」が顔を出すくらいの頻度になった。


「かなしさ」が顔を出すとき、理由はなくて、からだが重たく、胸が詰まるようになって、何もしたくないと、ただうずくまりたくなる。


でも最近は、そこから、のろのろと立ち上がって、少しうずくまったあとにまた、歩き出せるように、なってきた。


あんなに親しかった「かなしさ」は、どこに行ってしまったのかというと、それは多分どこにも行っていなくて、わたしのからだのなかに、マーブル模様になって、溶け込んでいるのだと思う。


マーブル模様になって溶け込んだ「かなしさ」の代わりに、思い出したのは、「たのしさ」だったり、「うれしさ」だったり、「幸福」だったり、した。


今日も夕方、ぼんやりコーヒーを飲みながら、同居人氏1が仕事をする姿を見るともなく眺めているとき、同居人氏2から、「いまから帰るよ」という電話がいつものようにあったとき、「ああ、しあわせだな」と、思った。


わたしの「かなしさ」は、長い間、わたしの隣に、ずっといた。


中学校にあがったその日から、わたしの「かなしさ」は積もる一方で、いつもいつも、出口を探していた。


出口にする手段はその時々で様々で、からだを痛めつけたり、食べて吐いてみたり、学校に行かなくなったり、大人になってからは、仕事をがんばってがんばって、はち切れるまでがんばって、ぽきりと折れるように辞めて、また生きるためにがんばって働いて、ぽきりと折れるまでがんばっては辞めて、を、繰り返してきた。


わたしの「かなしさ」は、言葉もたくさん、連れてきた。


いつも書きたいことが溢れて、止まらなくて、ノートに何冊も何冊も、詩を書いた。そういう自分が自分の「アイデンティティ」で、あかるいもの、すこやかなものは、「嘘」だと思っていた。


生きることは、ままならないこと。
「かなしさ」があって、それをやり過ごして、息をしていくこと。
そう信じていた。


それは今でも、そう思っている。
生きることは、ままならない。
「かなしさ」があって、それをやり過ごして、息をしている。


でも、と思う。


生きることは、ままならない。
けれどもそこには、「かなしさ」だけが、あるわけじゃない。
たおやかな日々の中には、「うれしさ」も、「たのしさ」も、「せつなさ」も、「幸福」も、同じ分量だけ、存在している。
それが、マーブル模様になって、わたしのからだとこころを、駆け巡ってゆく。
生きていくということは、そのマーブル模様のキラキラを、キャッチしていくということ。
今のわたしは、そんな風に、思う。


むかしから、「やさしいね」と言われることが、多かった。
でもむかしは、「かなしさ」がわたしの隣にぴったりとくっついていたから、その言葉を素直に受け取れなかった。


「やさしいって、利用しやすいってことでしょう?」


と、ずっと、ずっと思ってきた。
「やさしい」が、わたしにとっては、うれしい響きを持たなかった。


でも、今なら、うれしい。
「やさしい」って言ってくれて、ありがとうございます、と、こころから思える。


中学生のあの日から、わたしのからだはわたしのままなのに、こんなにも、変化している。
たぶん、13歳のわたしがこの言葉を読んだら、きっと、信じないと思う。
あなたのとなりにいるその「かなしさ」が、いつか溶けて、その代わりに、「幸福」がそばにいてくれるようになるよ、なんて、絶対に信じないだろうと思う。


でもそれでいいのだと思う。
わたしは、わたしの「かなしさ」と距離を置くために、「時間」が必要だった。
とても、とても長い「時間」が必要だった。


この長い「時間」がなければ、わたしは、いまわたしのそばにある「うれしさ」や、「たのしさ」や、「幸福」を、ほんとうのこととして、受け取れなかったと思う。


この長い長い「時間」があったからこそ、今日わたしは、コーヒーを飲みながら、「ああ、しあわせだなあ」と、ぼんやりできたのだと思う。


これからも、悲しいことは、きっと待っている。つらくて胸が詰まることも、あるだろう。
そして、「かなしさ」で身動きがとれない日だって、なくならない。
なくならないのだけれど。
生きてさえいれば、今日のような「幸福」が、ぽたりと目の前にこぼれ落ちてくる。
それを、そっと大事に、両の手のひらで、掬いたい。
誰かにとってはささいなことでも、わたしにとっては、まぎれもない「幸福」を、ひとつずつ、確かめながら、掬い上げていきたい。
それが今日の「幸福」から学んだ、たしかなことだ。


そしてこれからも、「やさしいひと」でありたい。
なんでもできるひとにはなれないけれど、自分が信じた「やさしさ」だけは、手放さずにぎゅっと、握りしめていきたい。
誰かの「かなしさ」に寄り添うときにそっとそれを手放して、ただとなりにいて、「かなしさ」の渦中にいるそのひとの声に、耳を傾けられるひとでありたい。


もうすぐ春が来る。
わたしのこころにも、ぷくぷくと、たくさんの感情が芽吹いている。


ああちゃんと、生きているんだな。
そう思った。

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投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい