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父との別れ、いつかくる自分が死ぬ日についての想像力

父の日は中学生くらいから、ずっと嫌いだった。僕の父は、僕が中学一年生の時に亡くなっている。

父のいない父の日は、改めて喪失をまざまざと見せつけられ、周囲からのよそよそしい気の使われ方も嫌だった。自分ではどうしようもない事だからこそ、歯がゆく、焦燥した思いだけがくすぶっていた。


父との別れ、それは、今から23年前。

1995年のゴールデンウィークが、別れの始まりだった。

その年は、まさしく激動と言っていい年だったと思う。年明けすぐに阪神淡路大震災があり、春先には地下鉄松本サリン事件があった。多くの人が天災とテロの犠牲になり、多くの残された遺族を生み出した悲しみの年。

先に断っておく。今日の話は僕と父親の死別の話だ。どうしても暗くなるし、やはり今思い出してもしんどい。シラフで書くのはしんどいので、こうして夜中に酒を飲みながら画面に向かっている。


それでも、今書いておくべきだと思った。同年代で、最近父親を亡くされて、ちょっと元気のない末吉さんを見ていて書こうと思った。

同じく同年代で、末期ガンを宣告されながらも僕の娘と同じくらいの息子さんとの日々を綴っている幡野広志さんの写真展に行ったせいもある。

肉親の死という重い、取扱注意の話だけど、娘二人に恵まれて人の親にしてもらった今だからちゃんと書いておこうと思う。それに、今日は父の日だ。

(この話はゴールデンウィーク中に書き始めたけれど、思い返しては涙が出て筆が止まる厄介なテーマだったので、書き上げるまでこんなに時間がかかってしまいました。現在、闘病中の方や肉親を亡くされたばかりの方にはつらい描写があるかもしれません。どうぞ無理をして読まないでください。共感を求めたいわけではなく、自分の中の喪失と向き合うために書きました。少しでも誰かの癒しになれれば幸いです。)


死と別れは突然訪れる

23年前のゴールデンウィーク。中学一年生になったばかりの僕は、高望みした中学受験を失敗して、エリート家系の父を少しだけ失望させつつ公立校へ通っていた。

祖父は東大法学部主席卒の裁判官、父は東大に入れず慶応法学部だったが法の道には進まずに日本語教師という道を選んだ。東大に入れなかったことは良かったらしいが、そのせいか僕が受験に失敗しても父は寛大だった。

そして、僕の両親は駆け落ち同然で一緒になった事もあり、特に帰省というイベントは一回も経験する事がなく、いつも通り家族で家で過ごすゴールデンウィーク。

40代を迎えたばかりの父は働き盛りで忙しく、時代はまだ24時間戦えますかという雰囲気の頃だった。

いつものように家でも仕事をしている父が、めずらしく腰が痛いと言って寝込んでいた。

30代の前半の頃にぎっくり腰で入院した経験のある父なので、父も母も腰痛だと思って病院へ行くことにした。

病院へ行った父は、そのまま大病院への紹介状をもらってその日のうちに大病院へ行き、即検査→入院となり家へは帰ってこれなかった。

病名は、急性骨髄性白血病。ステージⅣ。

突然変異で造血細胞が異常化して、ガン化した細胞が無制限に増殖する。現代医学でもうつ手はほぼなく、全身へガンが転移して死に至る。事実上の死の宣告だ。

余命宣告は3ヶ月。当時、母はこの事実を僕ら子供達には伝えずに耐えた。


半年間の闘病生活

3ヶ月と言われた父だったが、夏をこえて耐えた。

家庭内の力強さの象徴でもあった父が闘病生活でやせ細って行くのを見るのは、こども心にとてもつらかった。

しかし、うちはまだ運が良かった。両親は発病する数ヶ月前に、がん保険に入っていたのだ。

母は保険なんかに入ってしまったから病気を呼んだのかもしれないと自分を責めていた時もあったが、がん保険のおかげで高額な治療費も僕ら家族の暮らしも守られた。

半年間の闘病生活は、受験勉強でバラバラになりつつあった家族が一つに集まるきっかけになり、皮肉なことに病魔と出会ったことで家族の結束は強くなった。

僕は入ったばかりの部活を休みがちになり、学校もあんまり行かなくなった。

それどころじゃない気がしていた。子供心に、何かおかしい、たぶんもうすぐ会えなくなる、そんな予感があった。


天国への階段

闘病生活が進むほど、だんだんと父の病室が上の階へと移っていった。大部屋だったものが、少し広めの4人くらいの部屋になり、最終的には個室になった。

あとで気づいたのだけれど、臨終が近くなるほどそういう風に部屋を移動させられていたんだろう。

最後の部屋は、近代的なその大学病院の最上階の部屋だった。

御茶ノ水の丘の上に建つ病院の最上階。天気が良ければ富士山を望める絶景に、ホテル暮らしのような優雅な暮らし。

保険金も毎日入るし眺めのいい部屋で過ごせるなら入院も悪くない、なんて強がって笑う父が、裏で「なんで俺が。。。」と涙をこぼしたと聞いたのは、僕が成人した後の話だ。


別れの記憶

父との最後の日のことは、ぼんやりとしか覚えていない。

冷たく暗い病院の風景。高級ホテルの最上階のようなフロアなのに、真っ暗な闇の底のような、絶望感と虚無感だけは覚えている。

たくさんのチューブに繋がれてやせ細った父の心電図が徐々に弱くなり、警告音が鳴る。部屋を出ているように言われて、廊下で待っていると「バチッ!!」という音と共にドアのガラスが眩しく光った。

電気ショックだ。

心肺蘇生の為、というのは表向きの理由で、もう助けられません手は尽くしましたよ、ということを母に知らせるために行ったように思えた。

ドラマみたいな「ご臨終です。」という冷たい響きのあとに、なんだかバタバタ準備をして最上階から地下のフロアへ移ったのは覚えている。

地下のフロアから車に乗り込み家へと戻り、父の亡骸のそばでよくわからずに夜を過ごした。

なんだかよくわからないままだった。

亡くなる数日前には父は痛み止めの為のモルヒネで意識が朦朧とし、ほとんど受け答えをすることもなかった。

ただ、最後に母に「こども達を頼む」と伝えたらしい。

仕事も家庭も、やりたいことがたくさんあったはずだ。

いまでも僕はたまに思う。父の分まで生きなければ、と。

父の見れなかった光景を、僕が見ることで、僕の中に残っている父のカケラにも見せてあげられるんじゃないかと思う。


一緒にお酒が飲みたかった

父を亡くしたあと、僕はしばらく不登校を繰り返した。

なんだか色々なことがどうでも良くなったし、わからなくなった。

父は死んで焼かれて灰になった。今は根津の墓地に埋葬されている。

もう会えない。いるはずの人がいない。

何かのイベントで父親が来ている友人を見ると、なんだかとても寂しかったのを覚えている。

今でも思う。一緒にお酒が飲みたかった。仕事の話がしたかった。くだらない事や、恋愛の相談や、孫の面倒を押しつけたかった。

全部、もう叶わない事だ。

失ったものは、もう二度と戻らない。

あれから僕は、あの時やっておけば良かったとか、会っておけば良かったとか、行っておけば良かったとか、そういうことをなるべく残したくないと思って生きている。


その時、遺される子ども達へ

40代の働き盛りで亡くなった父だが、昇進し部長となり大勢の部下を率いていた。その中の1人の人は、いまでも交流がある。

父が亡くなったあと、ずっと良くしてくれていた人たちが波が引くようにいなくなっていった。葬儀には数百人が来たのに。

でも、その人だけは残ってくれた。

クリスマスの夜にはこっそりと玄関にプレゼントを置いていってくれたりもした。

たまにホームパーティーや、レストランへ連れて行ってくれたりした。

父との想い出話をたくさん聞かせてくれた。

これがどれほど、僕ら家族にとって支えになったか。


僕には今、2人の娘がいる。

さいわい体は丈夫だし、入院の経験もないし大きな怪我も一度もない。

でも、人はいつ死ぬかわからない。

確実にいつかは死ぬ、でもそれがいつなのかは誰もしらない。

後悔は残さないように生きたいが、まだ幼い娘たちの成長は見守りたい。


でも、もしも万が一、自分に何かあった時に。。。

自分がいなくなったとしても、残された家族とも付き合ってくれるような、そんな人たちを増やしていきたい。そう思って仕事をしている。

いわゆる取引先としての付き合いは、その人が死ねば終わりだ。それは人と人との付き合いではなく、仕事としての付き合いだからだ。

それはそれで効率的だし、全ての人と濃い付き合いをする事は物理的に無理だろう。そういう付き合いだって必要だと思う。

しかし、僕は父が残してくれた部下の人とのつながりに救われた。

だから僕は仕事に家族を巻き込んでいる。万が一の時に、残される愛する妻や娘たちを、支えてくれる人が残ってくれる確率を少しでもあげておきたいから。


末期がんで闘病中の写真家の幡野さんが、息子さんの写真をUPするたびに、今は亡き父の姿が重なる。「みなさん、この子をどうかよろしくお願いします。」という声や想いが、なんだか聞こえてくるような気がする。

幼い息子さんに、幼い頃の自分が重なる。

できれば、もっと一緒にいてあげて欲しい。でも、リアルな闘病生活の前に根拠のない希望だけを述べても仕方がない。

僕は、写真展には行ったが幡野さんにも息子さんにもお会いしたことはないけれど、何か力になれればと思っている。どんなことができるかはわからないけど、少し考えたい。


久しぶりに父の話をしっかり思い出して書いて、涙が出た。

23年もたつ。それでもやっぱり、寂しい。

忘れないよ。

あぁ、でも、ちょっとでいいから、会いたいなぁ。。。

ウイスキーの好きだった父に、好きな銘柄の話とか聞いてみたかったなぁ。


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