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食へのおこだわりと時短の間

先日、スープ作家の有賀さんのnoteを読んでちょっと感じたことを書いたら、スルスルと日常で感じていた違和感のようなものが出てきた。

思うに、両極端なんだろう。特にいわゆる自炊=家庭料理に関しては、めちゃくちゃ手間暇かけてアナログに作りこむ昔ながらのおせち料理と、スーパーで買ってきた食材でサクッと作れる簡単☆時短レシピの2択だったりする。

さらに言えば、簡単&時短を選びたくない場合は、コストがかかる。時間も、お金も、知識や教養も。

レストランでいえば、ファミレスや牛丼チェーンか、ミシュラン星付きの高級店の2択を迫られるよなシチュエーション。2択に見えて実際は1択になっているのが、この違和感の正体なのかもしれない。


ただの茹でた野菜でも良い

1人暮らしをしながら企業のインハウスデザイナーとして働いていた20代中盤の頃、夜遅くに帰宅してスーパーの安売り惣菜を食べる日々ばかり続いていた。

そんなある日、ふと「ちゃんとした野菜が食べたい...」と思ってホウレン草を買って、家に帰って茹でて醤油をかけて食べた。それが、すごく美味しかった。

こんなの料理と言っていいのかはわからないんだけれど、何もレシピを見て再現するのが料理ではないし、料理以前に「食べること」って実はもっと原始的な行為なんだと思う。

茹でただけだったけれど、あの時食べたホウレン草の少し土の香りのする生々しい味は、今でもたまに思い出す。


おこだわりと時短の間

この違和感の正体は、きっと振り幅の少なさだ。豪華or簡素という見え方のせいで、その中間にあるはずのたくさんの「ちょうどいい」が見落とされている。

そんな「ちょうどいい」が、それぞれにフィットする形でたくさんあって選べる状態が、きっと本当に豊かで文化的な社会なんだろうな。

それに近い入門から中級者へのラインナップとしては、やはり無印良品だったり、北欧暮らしの道具店、中川政七商店、scopeなんかが取り組んでいるように感じる。それに対しての有賀さんの回答が以下。

ライフスタイル誌の全盛期をリアルタイムで過ごされてきたからこその意見。

メディアが弱体化し、雑誌が減り、文化の流通量が減った。ウェブメディアもマネタイズできない、貢献が可視化されないものは続かずに消えていった。

そして現在、文化の流通を担う存在はがんばっているお店になりつつある...でも、それだけじゃダメじゃない?という意見には、僕も同意だ。


結局、文化は教育なんじゃないか?

豊かさとは何なのだろう?土鍋で炊飯したご飯をお櫃に入れて卓上に持ってくるののは確かにそそるし、お櫃の木の香りがかすかにうつってウットリする。

でも、レンジでチンしたパックご飯でも、お気に入りの作家さんの500円の箸置きに箸をセットして、少しだけ背伸びした100均でも無印でもないお茶碗で食べるのも、また一つの楽しみ方としてアリだろう。

いっそ器がなくて、冷めたご飯をおにぎりにして、醤油をちょっと塗ってアルミホイルと魚焼きグリルで焼いてみたり...その時に巻きつける海苔だけは一等品の香り高い海苔を使う、そんな選択肢だって良い。

人生は振り幅だ。

色々知った上で、自分がその時にフィットするものをきちんと選ぶことが、ちょうどいい暮らしを過ごすという事なんじゃないだろうか?

簡単時短だけじゃない、かといって超絶技巧とリッチ&ゴージャスでもない、ちょうどいいフィットする現実解...もう少し探して広めていこうと思う。

優劣をこえた先に豊かさがあるのかも?
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