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自分が自分であって大丈夫という「自己肯定感」

はじめに

自分が自分であって大丈夫という「自己肯定感」
を提唱し、その概念を広めることに貢献した高垣忠一郎先生。

その高垣先生の生前のインタビューが存在します。
D.Liveさんによる貴重なインタビュー。
Youtube で見ることができます。

1時間20分程のインタビューですが、勝手ながらその中でも特に私が感銘を受けた箇所を文字にしてお伝えさせていただきます。
文章の方が入るという方もいらっしゃるかと思いまして。

「自己肯定感」あまりにも巷にあふれて、ぼやけてしまったこの言葉。
とりあえず、褒めて育てれば自己肯定感がつくんじゃないの?
と、私も安易にとらえていました。

いやあ、参りました。

目から鱗です!

たとえ話を織り交ぜながらわかりやすく教えてくれます。

以下すべて、高垣先生の言葉です。

・命相場の価値観 と 世間相場の価値観

『僕たちは確かに社会の中で適応していくために自我(エゴ)という適応装置を持って生きているわけですよ。

自分は とか 私は とか

これは人間だけ。他の動物はそういう意識観念をもっていない。
自分というものが無かったら、これをやったのは自分という責任をとることができなくなるわけですから。

自分がエゴの欲に支配されちゃって
今の人材競争の中で勝つか負けるかというところで動いてるのはエゴ。

しかし、人間というのは命、生きもの。
命っていうのは40億年くらい前に海の底で窒素や炭素や水素やそういうありふれた元素が結びついて命というのはできているわけ。

炭素や酸素や水素というのは星が爆発して飛び散ってできたもの。
それが寄り集まって海の底でできたってことは
命というのは宇宙内存在ですよね。

で、エゴは社会内存在。社会の中で生きていくための社会内存在。

人間ていうのは、
宇宙内存在としての 命の軸 と
社会内存在としての エゴの軸
この二つの軸を持って生きている。

だから、価値観を二つ持っていないといけない。
命相場の価値観 と
世間相場の価値観

この二つの物差しを持っていないと
今は、世間相場エゴの価値観ばっかりで世間相場の物差しばっかりで
自分を測っている。

命相場の物差しは、エゴの世間相場の物差しと全然価値のつけ方が違うんだよ。
例えば、水やお茶。これなんかはほとんどタダに等しい。タダじゃないけど。
だけど、水やお茶がなかったら生きていけないんだから。
命相場でいったらめちゃくちゃ価値があるものなんだよ。

僕なんか時々里山散歩したり、虫に「よう!そこにいたか」とか挨拶したり
花やら植物やらいろんなものと出会って。
このときはエゴではなく命レベルでふれあってる。
そのときは自分という意識はあまりない。

例えば、講演に行ってたくさんの人へ話をするときは、
たくさんの眼差しが僕の方を向いてるわけだから、どういう風に評価されるんかなと、自分をすごく意識するんだよ。
このときは、エゴ自我の自分というものをとても意識させられる。

でも、花やら虫やら空とか雲とか樹だとかそういうものを相手にしてるときは、自分てものをほとんど意識しない。
命として僕は包まれて存在しているわけですよ。

そのときに感じることや気分だとか、そりゃまた素晴らしいものがある。

この命の物差しを忘れてしまって、エゴの物差しばっかりで自分を測っている。だからよけいしんどくなるわけですよ。
だから、命の物差しをきちんと自分の中に据えて、命の自分をしっかりと自覚して生きていく。

・人材はポイ捨てされる

人材なんてのは、これは道具ですから。
このペットボトルみたいなもんだよね。底が穴が開いてお茶が全部流れちゃったら、ペットボトルがペットボトルとしての値打ち存在価値がないわけ。捨てられる。

今、人間がこんな風になってしまってるわけよ。
「お前、人材として役に立たん、お前の代わりはいくらでもいる」とポイ捨てになる。

そのようなものの中に自分を閉じ込めてたら「お前なんかダメだよ役に立たないよ、オレの期待している資質能力もってねーじゃねーかっ」て言われたら、存在そのものを否定するしかないじゃないですか。

でも、命の軸をきちんと持ってたら、世間の軸を否定されたって、

どっこいオレはちゃんと生きとるで!
と相対化することができる。

だから、エゴにギアを入れるときと、命にギアを入れるときと
ギアチェンジをせなあかん。
ギアチェンジをしながら日々の生活を生きていく。

今は、本当に片っぽだけの物差しに捉われて、その物差しをダメだって評価されたら丸ごと自分はダメだとなる。
自分が生きものとして生きてるということを忘れてしまってる。

僕が言っている
「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感は、
生きて存在している自分を肯定するわけですから、命レベルの自分を肯定している。エゴも含めての命。

エゴっていうのは命が社会の中で生きていく上で必要だから備えた適応装置でしかない。
命が主体なんだよ。
エゴは命である主体が社会という約束事の世界で生きていくために必要だから着ている着物みたいなもの。
いつのまにかエゴが主体面してえらそーにして、
命ってのを自分が消費するためのガソリンくらいにしかない感じがあるよね。

・エゴの自己肯定感 と 命の自己肯定感

最近は評価して褒めてやって自己肯定感を高めるなんて言われてるけど、
そんなもんじゃねえや。そんなのエゴだよ。

お前すごいな英語ペラペラやな とか
いやー田中君すごいねこんな機械扱えるんだねすごいね とか
言われて元気になるのはエゴだろ。

英語がしゃべれなくなったり、機械が扱えなくなったら
ダメな自分になる。

その人の性能や資質を評価して褒めてやって高めようという自己肯定感は
エゴの自己肯定感。人材の自己肯定感。

僕の言っている存在の自己肯定感は、生きて存在するそのものの自己肯定感というのは、命、生きものとしての自己肯定感。

評価でエゴは元気になったり強くなったりするけども
命は、評価では元気にならない。
命が元気になるのは 愛 なんですよ。

ハグされて元気になるのは命そのもの。
丸ごとの命そのものが元気になる。
愛は丸ごと肯定だからね。

あるベンチャー企業の社長からある女性がプロポーズを受けた。
「あなたのような有能な女性といっしょに働きたい」と。
女性は断ったんだって。
プロポーズの言葉がだめだった。
私が有能でなくなったらポイ捨てやろ。

あなたトップなんてね。こんないい大学入って、お母ちゃん鼻高いわ。
お母ちゃんほんとに僕のこと丸ごと大事にしてくれてるんやろうか
と疑いたくなる。


・子どもが不登校になったとき

子どもが不登校になったとき
親が
人生を競争レースみたいにとらえてるか
人生を生きものとしての自分を表現することだととらえてるか

によって違ってくる。

人生を競争レースのようにとらえてると
効率的に無駄なく走っていくことを期待する。

そうすると競争レースから脱落した我が子を否定的に見る。
なんやねん早く元に戻さんといかん ということになる。
そして、効率よく学校にもどす方法はないかと思うわけでしょ。
どうしたらその子をうまく操って操作して学校にもどすことができるか。
ということばかりに関心が行くじゃないですか。

1969年、アポロ11号が月面に着陸したでしょ。
あの数年後から不登校(当時は登校拒否)が急激に増え始めたんですけど、

あるお父さんが、月に宇宙船を着地させることができるような時代に、
子どもひとり学校に着地させることができないんですかって。

宇宙船ってのは人間が作った機械なんだよね。だから操作して自由に動かすことができますよ。
でもね、子どもは機械じゃないでしょ。生き物ですよ。
その生き物を親が自由に操って学校に着地させることなんてできませんよ。

だから、

不登校の子どもが元気になっていくことを手伝う仕事は
決して調子の悪くなった車を直すような仕事ではない。
と言い続けてきた。


・自分で自分を治していく

車だったら、車を直すのは人間だけど、
不登校の子どもをなおす(直すってのは違うけど)のは本人自身。

車は直される受け身でしかないですけども、
子どもの場合は自分で自分を治していくんですよ。

生き物と機械の大きな違いは、
生き物は自己再生能力がある。機械は自分で自分を直せないですよね。

庭や野原にトカゲ(カナヘビ)がいますけども、つかまえて遊んでいるとしっぽが切れるうんですよ。でもまたすぐに生えてくる。
あれは再生能力があるんだよ。

だからこちら側が相手をなんとかしてやらないかんということではなくて、
子ども自身が自分で自分を元気にしていく。治していくことを手伝う。っていうスタンスで子どもに向き合う。

そして
子ども自身の自己再生能力、自己回復力というものが
天から与えられた命の働き。
そいつを活性化するように手伝うわけですよ。

その自己再生能力とか自己回復力を
活性化するどころか弱体化させるものがある。
それは何かというと、
自己否定。丸ごと自己否定の思いにとらわれた心。

不登校になるようなダメな自分は消えた方がいいんじゃないかっていう丸ごと否定の心。
こいつが自己再生能力を活性化することを弱めてしまう。
だから、自己肯定感が膨らむように手伝うことが大事。
丸ごと自分を肯定すると自己肯定感が膨らんで自己再生能力、自己回復力が活性化する。


・人生の浮き輪

命を元気にするのは愛である。
存在丸ごと肯定感は
愛の息吹を吹き込むことで膨らむんですよ。

僕のいう自己肯定感は人生の浮き輪。
その浮き輪を膨らますのは愛の息吹なんですよ。

それはなんで愛の息吹を子どもの浮き輪に吹き込んでやれないかというと、
親自身がとっても不安になったり焦ったりしている。

だから一生懸命吹き込んでいるのは不安や焦りを吹き込むことになる。
だから親自身が
自助グループの中などで辛いことやしんどいことを出して、
「それて、そうやな、私もそうやったよ」などと言い合う関係が必要。
そういう関係というのは競争原理が働く関係じゃなくて、共感原理が働くんだよ。

共感的な人間の中に身を置くことで、
存在そのものを肯定する自己肯定感が、共感的な自己肯定感ともいえるものが膨らんでくる。

その膨らんだ自己肯定感をもったお母さん自身のお父さん自身の心で向き合ったら、子どもに愛の息吹を吹き込めるんじゃないですか。


以上 高垣忠一郎先生のインタビューより

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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