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不安から知った郷愁?!-初めての転校- 19-2023/2/07

まちの人なら誰でも出せる展覧会に、OEKAKIクラウンさっちーの絵を出した。出展した絵は、現在どっぷり取り組むCAP(子どもへの暴力防止)プログラムで子どもたちに伝えている特別に大切な3つの権利と「I LOVE ME」を表すポーズを描いたもの。「I LOVE ME」は、クラウンの師匠の師匠パッチ・アダムスのメッセージだ。

CAPプログラムは、「私は大切な存在」と思える意識(人権意識)が育つようなかかわりを大切にしている。それは、私は大切な存在~大切な私を大切に想う~大切な私を大好きと想う~、、、CAPのメッセージ、私の中ではパッチのいう「I LOVE ME」とつながっている。このこと、CAPスタッフとして働く中、昨年(2022年)来日したパッチとリアルに交流できる機会があり、あらためてすとーんと腹に落ちた感じだ。

CAPで伝えている特別に大切な3つの権利とは、「安心」して「自信」をもって「自由」な気持ちで生きるけんり。私も子ども時代にこんなメッセージをもらいたかったなーと思ったりする。子ども時代を振り返ると、父も母もいていっしょに暮せたし、裕福ではなかったけど毎日ご飯も母の手作りお菓子も食べられた。安心も自信も自由もあったと思う。だが、強烈な不安をひとつだけ思い出す。

小学校5年生になった春、父の転勤による初めての転校だ。栃木県宇都宮市の小学校に変わった。転校先ではすべてが不安だった。街の中の小学校だったが、それでも、「東京の子」と言われるニュアンスに、なにか大都会から来た子への特別感が漂っていて、それがいやでしょうがなかった。国語の授業で教科書を特別に読まされることもあった。それもいやだった。東京に帰りたくて、東京はどっちかと母に聞き、夕空を眺めて涙を流したことも。

私はこの時、多分初めて、東京以外の人が想定する東京と、自分が帰りたくてたまらなかった東京は別のものだと知ったのだと思う。私が帰りたい東京は、私がよく遊んだ公園や遠足のお菓子を買いに行った商店街やピアノの先生のおうちのある、あそこだ。だが、皆の言う東京は、日々テレビや雑誌で紹介される東京だった。小学5年生の春、知らない街への引っ越しと転校による不安でいっぱいな日々から、私はどうも郷愁を知ったらしい。

小学5年生の1学期だけ、宇都宮の小学校に通った。父の転勤により2学期は東京に戻ったが、同じ小学校には戻れず再び転校した。たった5か月間の宇都宮での暮らし。だが、還暦を過ぎた今も忘れられないことが盛りだくさんの濃―い時間だった。

引っ越し先は、宇都宮駅からも歩けるエリアだったが、当時田んぼ跡には蓮華草がたくさん咲いていた。初めて見てびっくりした。5月カエルがゲコゲコ鳴く合唱も耳にして驚いた。おうちに招いてくれたしっかり者のお友だちの顔も名前も覚えている。その子のおうちからの帰り道激しい雷鳴&雷雨にあい、生きた心地がしなかった(宇都宮は雷がとても多い地域)。焼きそば屋さんがあって、もう一度食べたいくらいとてもおいしかった。まだ餃子で有名にはなっていなかったから、私には宇都宮イコール焼きそばだ。住まいの社宅には庭があり、ミョウガがたくさん伸びていた。小さな道を隔てて東北本線の線路だったから、特急が走ると昔の古い木造の社宅はぐらぐら揺れた。たった5か月だったが、私だけでなく、中学生の姉も、母もみんなでがんばった日々だった。夏休みは、海なし県から茨城の海へ行く臨海学校にも参加した。だが夏休みの後半に急遽東京へ戻ることになった。東京へ戻る引っ越しの日、父から「また学校変わることになってごめんね」と言われた。当時の国鉄の制服を着た父の姿はちょっとかっこよかったのを覚えている。

宇都宮で過ごした5か月間。東京に帰りたいと涙したわりには、懐かしくて濃厚ないい時間の記憶となっている。宇都宮の人はもちろん、栃木の方に会うと、どれほど私の宇都宮時代がいい時間だったかを話したくなってしまう。その土地その土地に、素敵な人たちが暮らしていて美味しいものやおもしろいことが一杯あると実感させてもらった貴重な機会だったのだ。東京しか知らずに子ども時代を過ごすよりも、豊かな時間と体験をもらえたにちがいない。たった5か月で家族が引っ越さなければならないサラリーマンへの対処はどうかとは思うが(笑)。あの当時、お世話になった宇都宮のみなさん、本当にありがとうございました。
(表紙は、「第6回まちを画廊に来て見展」に出展したOEKAKIクラウンさっちーの絵「I LOVE MEとあんしん・じしん・じゆう」)

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