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二〇一五年三月

Scene 27

寒河江での結納を終え、俺はまた実家へ戻る。雪江は部屋にあった俺の荷物を宅急便で実家へ送ってきた。その後正式に卒業が決定し、俺は篠沢教授や学生課へ頭を下げて回る。寒河江へ旅立つまでの間、俺は実家でつかの間の家族団らんを味わっていた。
実家の居間で茶をすすりながらぼんやりとしていると、母親が向かいに座った。
「雪江さんって、ほんとうに素敵な女性よね」
母親がぽつりとつぶやく。
「どうしてあんたにあれだけ惚れるのか、不思議」
少し笑って俺を見た。
「俺にもわかんね」
俺も笑った。
「あとはお兄ちゃんにお嫁さんが来れば、一安心なのよね」
母親はそう言って台所に行く。
俺はあらためてどうして雪江が俺と一緒にいるようになったのかを考えてみる。あの夜、ステージがいい感じで盛り上がったため、一部のファンを交えて俺がバイトしている居酒屋で打ち上げをやった。JET BLACKのメンバーでは、ミギがほとんど酒が飲めず、俺は進んで飲む方ではない。リョータローは飲んで大騒ぎして喜ぶタイプ、キタは底なしだ。
「アイさん、とってもかっこよかったです」
その日初めて会った雪江がチューハイのおかわりを俺に持ってきて、語りかけてきた。
「えぇ~照れるなぁ、あははははは」
その日は調子よく飲んで、俺は早い目に酔っていた。
「アイさんは彼女とか、いるんですか」
雪江はぐいぐい飲みながら話す。
「いないいない、俺の恋人はギターとJET!!!!!」
俺は隣に座っていたミギの肩を抱いて、ミギと頬をあわせて大笑いした。
「JETがアイの恋人かよ、じゃあ俺も恋人ってわけだ」
ミギはまったく酒を飲んでいなくても、酔っ払っているかのようなハイテンションだ。俺の頬に唇をつけ、キスをしてきた。打ち上げに参加したファンの連中が歓声を上げる。リョータローはふざけてキタに抱きついたためもう一度歓声が上がった。
「アイさんたち、仲いいんですね」
雪江が潤んだ瞳で俺を見上げた。
「もう、雪江ちゃんだっけ?アイさんやめてよ、アイでいいアイで!」
俺は完全に酔っ払って、ミギの隣を離れて向かいに座っていた雪江の方へ寄っていき、ひざに顔をうずめた。
「雪江ちゃんかわいい」
記憶はここで途切れた。次に見たのは、安らかな雪江の寝顔だ。俺は、雪江の部屋で雪江の布団に雪江と一緒に全裸で寝ていた。事態を理解して土下座して謝る俺に、雪江はこう言った。
「私が誘ったのよ、アイ。ギター弾いてるあなたに一目惚れしたんだもの。ゼッタイあなたが欲しくなったの」
あの時の雪江は、たぶん石川のオーラをまとっていたに違いない。土下座しっぱなしで雪江の顔を見てはいないが。
雪江はその次の日から、俺の彼女という位置におさまった。それを知った時のミギの複雑な表情を思い出したが、俺を雪江に奪われてショックだったわけだ。雪江はJET BLACKの活動には深入りせず、せいぜいスタジオでの練習におにぎりを差し入れる程度だった。いつかは俺にJET BLACKと縁を切らせるための布石だったのかもしれない。
最後に、アルバイトしていた居酒屋にも少しかしこまって挨拶に行く。店長にこれまでアルバイトさせてくれたことにお礼を言い、丁寧に頭を下げた。
なんだかんだ言って、JET BLACKと同じくらいの時間をバイト先で過ごしてきたし、最古参のバイトリーダーだったのだ。JET BLACKのファンもよくここを訪れてくれており、売上にも貢献していたはずだ。店長には一連の流れをポイントごとに話してあり、真剣に聞いてくれてアドバイスもしてくれた。
別れ際、店長は退職金だと言って祝儀袋をくれた。中味は新聞勧誘でもらったと思しきビール券十枚だったが。
そして大学の卒業式を迎える。ミギもキタもいなかった。次の日、山形県寒河江市へと旅立つ日が来た。居間で親父とお袋、兄貴に正座して丁寧に頭を下げた。
「それでは、行ってまいります」
親父が無言で顎を引き、俺に応える。
「いつ帰ってきてもいいからね」
お袋が涙声で言う。
「縁起でもないこと言うもんじゃない」
兄貴が苦笑した。
「でも、時々は顔を見せろよな、雪江さんと一緒に」
兄貴はお袋たちにまだ話していないようだが、結納のとき話題になった、雪江の同級生を紹介してもらったらしい。彼女のほうは大宮の市役所に内定しているそうで、逢うのには苦労しないだろう。
「荷物、そんな無いけど、あとで頼むわ、山形に送って」
玄関で靴を履きながら、ひとりごとのようにつぶやいた。俺の手荷物は、当面の着替えが入ったバッグと、ギターケースがひとつ。
「これから発送しとくよ」
兄貴が笑って俺を見た。
「荷物が無いって、冗談じゃねぇ、生活用品はないけど、ギターにアンプにエフェクターに、音楽関係は山のようにあるじゃん」
親父もお袋も笑った。
「じゃ、行きます」
玄関を開けると、真剣な表情をした雪江が立っていた。質素なスーツに身を固めている。まったく予想外の出来事に俺はたじろいだ。
「お父様、お母様、お兄様。愛郎さんをお迎えに上がりました」
雪江は短く言い、深々と徳永家に頭を下げる。俺はようやく事態が飲み込めて、あらためて雪江の隣に並んで頭を下げた。
「雪江さん、愛郎を」
お袋が感極まって雪江に抱きついて泣いた。雪江も泣く。
「お母様、大事にいたします、愛郎さんを大事にいたしますわ」
ご近所衆が外に出てきて徳永家のドラマを眺めていた。通りの向こうから、黒塗りのベンツがゆっくり近づいてくる。運転しているのは軍兵衛さんだった。あれは、東京の大先生しか乗せないというやつではないのか。
「愛郎くん、にもづ後ろさつけで」
車を降りた軍兵衛さんはトランクを開け、俺のギターケースをしまってくれた。地味めなスーツを着ているためか、今日の軍兵衛さんはそう怖そうに見えない。
「父が愛郎さんを迎えに行けと言いましたので、来てしまいましたわ、寒河江から」
雪江が母親と抱き合いながら、少し笑って言った。
「兄貴はたぶん、やまがだえぎあだりまで、むがえいげっていうだいなんねっけべが」
軍兵衛さんも苦笑している。おそらく、そのとおり、山形駅まで迎えに行けと義父は言ったのだろう。
「大先生しか乗せないこのベンツで行けって言ったのよ、お父さん」
雪江はようやくお袋から身体を離して、俺に笑いかけた。
「まぁ、四ずかんくらいすかかがんねっけ、ベンツだど」
所沢と寒河江は四〇〇キロ以上の距離があるはずだが、どれだけ飛ばしてきたのか。
「雪江さん、愛郎をよろしく」
親父がそう言い、徳永家があらためて頭を下げる。
「では、次は結婚式で」
雪江が石川の女スタイルで頭を下げ、軍兵衛さんが開けたドアからベンツの後部座席に乗り込んだ。俺ももう一度頭を下げて、雪江に続いて乗り込んだ。軍兵衛さんがドアを閉め、運転席に乗り込みエンジンを始動させる。
この日俺は、徳永家から出て行ったのだった。


scene 28

俺はついに山形県寒河江市にある旧家、石川家にやって来た。これまで2度この家に来たことがあるわけだが、今日からはこの家が俺の家になる。
軍兵衛さんの運転する車は石川家の正門前に付けられた。ちゃんと正門から入って行きたいと俺が望んだのだ。軍兵衛さんは荷物は家に入れておく、と言って車を反転させ、車が通れる南門へ向かった。
三月も下旬だが、山形県寒河江市は冬を引きずっている。広大な石川家の庭は、通路の敷石のあたりをのぞいて雪がしっかりと残る。ひんやりとした空気の向こうに、なんとか城から天守閣を取り除いたような佇まいの屋敷が建っている。そういえばここの住所は山形県寒河江市屋敷、で終わり。地番もなく、この地名には石川家と寒河江駅しかないというプレミアな住所だ。
「これから、よろしく」
隣を歩く雪江の方を見ず、屋敷の方に視線を置いたままで俺が言う。
「こちらこそ」
雪江も同じように前を見据えたままで答えた。
重厚な玄関の戸を開けると、俺の荷物はもう上り框に置かれている。靴を脱ぎ、雪江の後について仏間へ歩いて行く。仏間には義両親と義祖母が居住まいを正して座っていた。
厳かな雰囲気のなか仏壇への礼拝を済ませ、俺は義両親と義祖母に丁寧に頭を下げた。
「不束者ですが、これからよろしくお願いいたします」
三人は無言のまま頭を下げる。雪江があらためて頭を下げた。
「精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします」
凛とした声だった。
「今後の日程、前ゆたげど」
義父が事務的に言い、手帳を拡げた。
「あさって、三月二十四日に、婚姻届だ。日がしぇーさげ、この日に役所で書類出してけろ」
「私達の結婚記念日は三月二十四日だからね」
雪江が普段の声ではしゃいで俺に抱きついた。義父がイラッとした感を見せ、義母と義祖母が笑う。
「ついでだげ、転居届と住民登録はその日付でな。あぁ、後先だな、養子縁組の申請も全部一緒にやるはげ」
「私の時もそうだったけど、養子縁組で、書類的には一時的にお父さんと兄妹になったのよね」
義母が義父をちらりと見て笑った。
「あぁそうかぁ、なんか面白い」
雪江も笑う。
「事務的なこどださげしかだないなだ。婚姻届でおまえだの戸籍がすぐできんなだはげ」
義父はなぜかちょっと照れ気味で説明する。
「そっかー、私とあーくんの戸籍ができるんだぁ」
雪江が俺を見て微笑む。
「なんか、すごく実感湧いてきた、結婚」
俺も同じ思いだった。黙ってうなずく。
「結婚しぎど披露宴は、いろいろどあっさげ、九月」
義父が手帳をめくりながら言う。
「お父さん、今度は県議選だったね」
義父の所属政党の山形支部へ就職が決まっている雪江がつぶやく。
「披露宴は大々的になるわね」
義母が言う。言うとおり、選挙の事前運動そのものの披露宴になるだろう。
「あと、学校のほう」
四月からは俺の上司となる義母も、手帳を開いて切り出す。
「四月一日に着任、挨拶を行います。四月七日に新任式、翌日の午後入学式。一学期は指導教師に付いて研修、二学期から担任教師とします」
すらすらと話す義母に雪江が尋ねる。
「誰に付くの?」
「世界史だもん、佐藤ね」
俺の通信教育の先生だった。雪江の担任だったとも言っていた。
「がんばります」
俺はまた頭を下げる。
「期待してるわ」
義母が訛りのない声で俺に声をかける。俺の上司、学校法人石川学園寒河江中央学院高校理事長、石川菊江としての言葉だった。
「じゃ荷物運ぼうか」
雪江が立ち上がる。
「ホント、男の人って荷物少ないね」
「俺だてムゴ来た時は着替えすかもだねで来たんだじぇ」
「お父さん、結婚してからもしょっちゅう実家になにやらかにやら取りに行ってたじゃないの」
義母が立ち上がりながら義父の肩をポンと叩く。
「あなたら夫婦は、離れを使って」
義母が先に立って廊下を歩く。俺はまずギターを持って後に続く。雪江は俺の着替えの入ったバッグを持つ。
「やっぱ一番はギターなのね」
義母が俺を振り返っていたずらっぽく笑う。やはり二〇数年後の雪江だった。
石川家の屋敷は文化財クラスの築年数だろうが、古さを感じさせない重厚感がある。二軒の建物が渡り廊下で連結されているような屋敷だが、窓をアルミサッシにしたりしゃれた電灯があったりと、細かく近代化されてはいる。
「先代が仕事とか面会に使ってた離れで、雪江の部屋もここ。好きに使って頂戴、あなたらに任せるわ。小さいけど玄関もあるから、表玄関通らなくても入れるし」
雪江が勝手知ったる我が家とばかりにすたすた歩いて行く。はっきり言って俺の実家の一階部分の三倍の広さがある建物だ。
「どうせ部屋は余ってるからさ、私の部屋は今のままで、あーくんの勉強部屋でここ使いなよ」
指定された部屋は、洋間だった。年代物の重厚な机があり、壁は一面本棚になっている。
「オヤズの書斎だ、つかえばいいちゃ」
後ろをついてきていた義父が部屋に入ってきて、ぼそっと言った。
「お父さんはここ、使わないんですか」
「オヤズはおっかねぇっけがら、この部屋はどうもな、気後れする」
義父が頭を掻いた。この義父が怖がるくらいだから、相当なものだったのだろう。
「私は幼稚園の頃いっつもここでおじいちゃんの本を読んでたわ」
本棚の背表紙は、見たこともない漢字が並んでいるし洋書もある。
「うちの人はねぇ、ここで本を読んでる雪江をとにかく可愛がったからさぁ、さすが石川の跡取り娘は違うってねぇ」
江戸弁の義祖母も懐しそうに部屋を見回す。
「あたしゃどうも本を読むのは好きじゃなかったんでねぇ、あんまりここには出入りしなかったけど、うちの人のくつろぎの場さね」
「お、お言葉に甘えて…」
「ギターでもなんでも、好きなだけ弾いたらいいさぁ」
義祖母が笑う。雪江の六〇年後の姿だった。


scene 29

翌日、宅急便で手配しておいた荷物が届く。ギターアンプや服、そして少ないながらも教科書やノートのたぐいだ。それらを俺にあてがわれた部屋に運び込む。年代物の重厚な机の隣に四本のギターが並び、アンプが添えられた。そして壁には俺のステージ衣装、黒いマオカラースーツを吊るす。肩まで伸ばした金髪、白のレスポール、黒いマオカラースーツが俺のステージでの定番だった。
「カッコ良かったよね」
いつの間にか部屋に来ていた雪江が、壁のスーツと俺を見比べて微笑んだ。
「弾いてみてよ、久しぶりに聴きたい、あーくんのギター」
実は俺も、久しぶりにケースから出したギターを見て、弾きたくなっていたのだ。マーシャルのアンプにシールドを突っ込み、電源を入れる。むぅん、とマーシャルが軽くハウる。シャランと小さく弦を弾いてみたが、チューニングはあらかた合っているようだ。ステージで最初に演奏すると決めている「JET STREAM」のリフを弾いてみる。コードを押さえる左指は半年前の解散ライブの時とまったく変わらず正確に動いているしカッティングは正確だ。左右の指に目をやることもない。
「ぜんぜん衰えてないねぇ」
雪江が嬉しそうに俺を見ている。
「やっぱギタリストのほうが良かったかしら」
義母が部屋に入ってきたので俺はあわててカッティングをやめる。
「あら、構わないのよ?敷地だけは広いから、いくら音を出しても隣近所には迷惑はかからないし」
義母が含みを持たせた言い方をしてニヤっと笑う。年が明けてからこっち、雪江とはしていないのだが。
「それにしても、やっぱりプロなのね。私みたいな素人でもわかるわ」
義母は壁に吊るしたマオカラースーツに目をやる。
「これがステージ衣装?」
「はは。お恥ずかしい」
俺は頭をかく。
「素敵じゃない?白いギターと黒いスーツ」
「ついでに肩まで伸ばした金髪」
雪江がキャーと叫んで俺に抱きついた。
「披露宴のお色直しの衣装は決定ね」
義母が娘の様子に苦笑しながら言うと、雪江がまたキャーうれしーと叫んでまた抱きつく。
「そ、そういや俺がいたバンドのデビューDVD、明日発売でしたわ」
「奇遇ね、明日はあなたらの結婚記念日」
雪江のキャーキャーが止まらなくなった。
「十文字屋さ五〇枚ばがりよやぐしったさげ」
今度は義父がぬっと現れる。
「十文字屋に?お父さん、マジ?」
雪江が俺に抱きついたまま義父に問いかける。あとで知ったが十文字屋というのは、山形市では老舗の書店兼レコードショップで、本もレコードも田舎のショップと馬鹿にできない品揃えを誇る。山形市というのは人口の割に映画館も多く、文化的にはかなり洗練された街だ。
「東京の大先生ど、後援会ど、事務所ど…ほうぼうさ配っさげな、おらえの婿うづったがらつて」
義父が指を折りながら言う。
「菅野さん、何も聞いてこなかったけどちゃんと調べたんだ」
雪江が感心している。
「あーくんは三味線もすぐおぼえそうだねぇ、今度教えるよぅ」
しまいには義祖母もやってきた。
「ばあちゃんは三味線を?」
「東京に住んでた子供の頃、お師匠さんについてたのさ」
俺はベースも一応弾けるし、弦を弾くものには興味があったので即答した。
「願ってもないです、ぜひ教えて下さい」
石川家が俺に微笑みを向けた。


scene 30

俺と雪江の結婚記念日である。
この寒河江市という田舎町では「石川のお姫様のご成婚」はちょっとしたニュースであるらしく、午前一〇時半頃に市役所へ行くと、待合室には十数人の老若男女が待ち構えていた。彼らは俺達を取り巻いて口々に祝いを述べる。具体的に何を言っているのかはよくわからなかったが、何人かの老女は雪江の手をとって涙を流している。
ひとしきり挨拶が終わったところで、俺達は応接室に通された。「戸籍課 課長」という名札をぶら下げた男がうやうやしく書類と朱肉を持ってきて正面に座る。懇切丁寧に書類の記入方法を指導してくれた。養子縁組申請と転入届、婚姻届を記入し判子を押す。実の父が結婚記念にと作ってくれた「石川愛郎」の実印だ。戸籍課の課長がそれを見て、印鑑登録もしておきましょうと用紙を追加で持ってきた。
課長は書類に間違いがないことを丹念に確かめ、内線で事務員を呼び書類を渡した。
「私が申し上げるのは僭越ですが」
課長が厳かに俺に語りかける。
「今日がらあなたはこの近辺の市町村では、わがどの様、わが旦那様になったのよっす。くれぐれも行動と言動には気ば配ってけらっしゃい。石川の名を貶めるような事のないよう、くれぐれも」
俺はソファから立ち上がり課長に深々と頭を下げる。
「ご忠告ありがとうございます。若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたします」
課長は少し安心したように、雪江にも一礼した。
「雪江様、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
雪江は石川家モードで悠然と礼を返した。
「どうしてもとがいがら来た人ださげて、この土地でわがんねごどもいっぱいあっど思うのよっす、課長もおらえのわが旦那様ば気にかげでけらっしゃいなぁ」
このなめらかな方言も、田舎の上流階級のしゃべり方なのだろう。課長が恐縮して頭を下げた。
俺はあらためて「石川愛郎」の実印を見る。
「なんか実感わかないな、姓が変わるって。それに、いつかは権兵衛になるんだろ俺」
俺は少しおどけて言った。
「いや、旦那様だて、戸籍上は石川頼近なのよっす」
課長が説明してくれた。権兵衛というのは通称であり、本名はあくまで変わってない、戸籍の名前まで変えてしまう地方もあるが、石川家は戸籍上の名前はいじらなかった、選挙の時は通称認定で認可されているので石川権兵衛で出馬している、などだ。
「そうみたいね、ウチは武家の流れだし、当主が名前譲って隠居しちゃう時もあるのよね。柴橋の吉兵衛おんちゃんと東根の又兵衛おんちゃんのとこは、おじいちゃん健在よ。隠居したら、冠婚葬祭とか時季の挨拶とか公的な親戚づきあいの場には一切出てこないの。柴橋のおじいちゃんたちなんか、一年の半分はタイで暮らしてるから」
それは初耳だった。
「柴橋のご隠居だら、うらやますい老後だんね。ただでさえ裕福なのに、吉兵衛様があだいも会社おっきぐして、左ウチワどごの話でねっす」
課長が笑った。
「わが旦那様は学院で先生なるんだべっす」
課長がようやく打ち解けた風で話を切り替える。それにしても、俺のこの街での呼び名は若旦那になってしまったようだ。
「はい、何故かそうなりまして…」
正直それが一番つらいのだ。教師になるなど、母に言われるまで一ミリも考えたこともなかったし、第一、実際に付き合ってきた教師はろくな奴がいなかった。少しばかりでも尊敬に値するのは、大学時代の指導教授だった篠崎教授くらいなものだ。
「学院はいい学校よ?私の母校だし、ほどほどに厳しいしほどほどに自由だし」
雪江が標準語に戻って俺に笑いかける。
「おらえの息子も、学院ば去年卒業して東京の大学さ行ったのよっす」
課長も世間話レベルまで口調がくだけてきた。
「おがすげな生徒なのいねがら、しぇー学校だべっす…いや、んでもな…」
課長が少し眉根を歪ませた。
「なんかあんながっす」
雪江は話す相手によって方言と標準語を使い分ける。
「いや、雪江様おべっだどおもうげっとよ、ほれ、國井さんの…」
國井という姓を聞いて雪江が表情を曇らせる。
「まさか?ミノル?だってあいつ、退学して寒河江にいないでしょ…」
知り合いらしい。
「雪江様ど同級だべっす?二年前、学院さ入り直したなよぉ、今度三年生だべした」
「なにその話?あだまおがすいなんねの、普通だら大学入る年に高校さ入り直すなて」
ネイティブな発音だ。よほど驚いたのだろう。
「おらえの息子もさんざんくどぐっけー、中学で先輩だっけのに高校で後輩でいるし、学校でいづばんわれぇやろべらしぇであらいで、おっかないおっかないってよー」
どうも、俺が赴任する学校には札付きの不良生徒がいるようだ。
「わがた、課長、櫻乃がらきがんなね、なにもおしぇねでよー、櫻乃さ文句やんなね」
例の美人のお友達にこれから会えるらしい。
「雪江様さすんぱいかげねようにだべしたー。荒木さんばごしゃぐなー」
雪江が美人を怒ったら俺も止めよう。
「あーくん、行こう」
雪江の声が少し怒気をはらんでいる。すっくと立ち上がると課長に丁寧に礼をして応接室を出た。女子職員の何人かがにっこり笑って祝いを言うと、雪江はにっこりと笑い返す。つい今まで眉をしかめて怒りをあらわしていたのだが、さすがに感情コントロールは完璧なようだ。市役所を出るなり携帯を取り出す。美人の櫻乃に電話するのだろう。
「サクラ、ちぇっと、ミノルなごどなしておしぇでけねっけな?…うん、聞いだ…うん…いまから行っていいべが?いそがすいが、店」
店、を「めしぇ」と完璧な訛りで発音しているということは、かなりテンパっている。
電話を切り、無言のままフーガに乗り込む。車内で雪江が話しだした。
「國井稔っての、中学の同級生でね、いたのよ。山形の霞城高校行ったんだけど」
「霞城高校って、お父さんもだろ、頭いいんだな」
こういうことはよく覚えている。
「中学では私とトップ争いだった。ミノルは高三の一学期に、なんか教師とモメて退学しちゃったのよ」
「またえらい時にやるもんだ」
「まぁ、ね。先生と授業中議論になって、頭いいもんだから完璧に論破しちゃったらしいわ。その先生がまた陰湿で、それを恨んで細かい嫌がらせされたって。ミノル、プライド高いから、やってられっかって大見得切って自主退学したって」
「ほほう、なかなかカッコイイじゃん」
「こっちも受験ひかえてるし、それ以上構わなかったけど。そんなトラブル起こしたからか、東京の親戚のとこに預けられてるって聞いてたのよ、私」
國井稔という男に、雪江は特別な感情を抱いていたのだろう。こういうことに鈍感な俺でもわかる。
「結婚記念日にこんなこと言ってごめんね。ミノルは私の最初の男…」
「そんな気がしたよ」
「この街にいたらいつかは聞いちゃうことだから、ホントごめん、早く言っておけばよかったのに」
雪江は車を脇によせて停め、ハンドルを抱えて泣き出してしまった。
「あいつはこの街にいないと思ってたの…絶対東京にいったままだって…もう帰ってこないと思ってたのよ…だから…どうしよう、なんで今日なの?なんで今日なの!」
こんな泣き方をする雪江を始めて見た気がする。俺は助手席から手を伸ばして、雪江の肩を撫でた。
「俺が、お前の最初の男に嫉妬するとでも思ったか?俺は処女でなきゃ嫌だなんて言ったことあるか?俺は今日石川の男になってお前の夫になったんだ。お前の昔の男がどうとか、興味ねぇよわりいけど」
「でも、でも私、今日の日をこんなことで…悔しい!」
「石川のお姫様が、悔し泣きなんて情けねぇ真似すんなよ」
俺は助手席から身を起こして、雪江を抱きしめてキスした。雪江が舌を差し入れてくる。俺を抱きしめる腕に力がこもっていた。
「あーくん、ありがと…そうよ、石川の女が情けないわ…」
雪江が目を赤くしたままで微笑んだ。ようやく普段の彼女に戻ったようだ。
「いくら田舎でも、真っ昼間から車の中でこれはやばいだろ」
俺は少し照れて雪江から身を離した。雪江はもう少し抱いていてほしそうだったが。
「あーくん、石川の男になったんだよね…バシッと言ってくれて助かったヨ」
雪江は車を発進させ、トールパインに向かった。
店に着くと、櫻乃が神妙な面持ちで待ち受けていた。ランチタイム前だが、さいわい客はいない。
テーブルにつく雪江と俺に、櫻乃が頭を下げる。
「ごめん、ユキ。ミノルのごど言わんなねて思ったんだげっと…」
「こっつもわれっけー、こっつがらきがんなねんだっけ」
雪江も素直に謝った。幼稚園からの付き合いという親友同士だけに、すぐに和解する。
「ミノル、あんどぎいぎなり入学しぎさ出てきだんだど」
櫻乃は俺に気を使っているようだ。当然、國井稔が雪江と付き合っていた事や雪江の初体験の相手だということをすべて知ってのことだろう。
「あーくんさは、じぇんぶしゃべてっから、気にすねでしぇーよ、サクラ」
雪江の言葉に櫻乃がちょっと驚いた風で俺を見た。俺も表情を変えずにうなずいてみせる。正確には全部ではないが。
國井稔について櫻乃が山形弁で滔々と語ったことを俺なりにまとめるとこうなる。
退学後、雪江たちが高校三年の夏休みから國井稔は東京の親戚に預けられ、寒河江にはいなかった。雪江が短大に入学のため上京したとき、入れ替わるように突然國井稔は寒河江に帰ってきて、学院に一年生として入学した。特例として、東京にある友好関係の学校を借りて入学試験を行ったらしい。学業が抜群なのはわかりきっているから無試験でも良いと理事長である母は言ったらしいが、國井稔本人が特別扱いを嫌がったという。
「ミノルはよ、腕力が強いわげではねんだげっと、なんつうのが、ポイント押さえた、巧い喧嘩すんだな」
店長が話に加わってきた。店長の山形弁をまとめると、入学初日に落第生と陰口を叩いた同級生を叩きのめし、本来は下級生である当時の上級生も、歯向かってくるものは制裁した。店長がいた頃よりもずっとお上品な学校になっていた学院をシメるのは造作もなかったそうだ。
「それに、アタマはいいがら。学院では二年間トップ以外になたごどないって」
櫻乃が熱っぽく語る。お勉強ができてそこそこ腕っぷしが強ければ、誰も逆らえないだろう。
「そのうづ、子分がでぎんなよ」
クールなイメージの店長も熱く語る。國井が二年に進級してから、同級生の柏倉という元野球部の男が、國井を慕って護衛のように付き従い、周囲の高校にも影響を与え始める。少なくともこの近隣にある三つの公立高のやんちゃ坊主たちは、國井と柏倉に頭を下げたそうだ。
「もう一人アブナイのがいんのっだんね」
櫻乃の説明はこうだ。やはり同級生に西川という生徒がいて、ちょっと切ない事情で生まれたハーフである。見た目は完全な欧米系でかなりの美少年だが、その容姿のせいで子供の頃からガイジンガイジンといじめられてきた。その反動で中学からはものすごい喧嘩屋になり、近隣のやんちゃ坊主はもちろん教師にも公然と殴りかかったが、学院では柏倉にだけはかなわなかった。柏倉に負けた以上、柏倉が慕っている國井にも頭を下げさせられたのだという。その後、西川も國井に従い、学院の問題児三人組となった。
「なんか、面白いっすね学院って」
さわりを聞いて、俺は素直な感想を言った。
「んだな、おもしゃいんだ、じづは」
店長もニヤニヤ笑った。
「あーくん、石川のわが旦那様なんだがら、ほだなごどさクビつっこまねでけろねぇ」
櫻乃が本気の顔で心配してくれている。美人が言うなら忠告を喜んで守ろう。
「でもね、学院に行ったら嫌でも首突っ込むことになるわね」
俺の心を見透かして、雪江が俺の耳をひっぱる。
「あーくん、顔に出すぎ。サクラにデレデレしないの。ゆるさないよ」
ひっぱった耳に唇を近づけ、雪江が小声で脅した。
「ウワキしたらコロス」
雪江は無声音でそう付け加えたが、櫻乃に手を出して店長に殺されるほうがよほど怖い。


scene 31

この日は、結婚記念日の身内での祝いということで、トールパインで夕食をとることになっていた。両親と祖母に加え、トールパインのオーナーである荒木と雪江の親友である妹の櫻乃がご相伴だ。
腕の良いシェフである店長が作るイタリアンは、彼の外見からは考えられないほど繊細な盛りつけだった。そして味オンチな俺ですらわかるほどに美味い。
「清志郎の料理、地元じゃ評判なんだ。山形市近辺でも名店扱いだから」
荒木が手放しで褒める。
「安孫子も立派になった、高校のころは手を焼かされたけど」
母が懐かしそうに言い、アンティパストのルッコラのサラダをむしゃむしゃ食べる。
「お母さん、ミノルのことどうして教えてくれなかったの」
雪江がサラダをフォークでかき回しながら尋ねる。
「國井?別に、言う必要ないでしょ?中学では同級生だったろうけど、関係ないでしょうに」
母がワインを口に運んでさらりと流した。
「ミノルがぁ…アタマはしぇーなだげっと、まだちぇっと足らねぇもんがあんな」
父がワインを飲み干す。夜の部のホールスタッフが父のグラスにワインを注いだ。
「ミノルだら、じぇったい曲げねっけがらね、ちゃっこいころから…キヨシローちゃん、ドレッシングんまいっけちゃー」
パスタを持ってきた店長に櫻乃が甘える。
「山菜とパンチェッタのペペロンチーノ、カッペリーニだはげて、ぱぱっと食ってけらっしゃいっす、ぱぱっと。伸びっさげ」
店長は料理名を言う時は訛らないようだ。
「ミノルはそこそこ喧嘩もできる。ヤツは政治家向きだと思いますよ、旦那様」
荒木はパスタをフォークで巻きながら言う。父は荒木の「政治家向き」という言葉に反応したが、言葉は返さなかった。
「國井は今何をやってるんだえ」
祖母が上品にパスタを食べながら言う。
「大奥様、現当主の國井武は県庁の総務部広報課の課長です」
荒木はスラスラと答える。
「おや、あんがい小物だね…先代は」
祖母は荒木に視線を移して問う。
「先代の國井毅は県庁の会計局長でした」
荒木がまたよどみなく答える。
「武は頭悪いす、ほんてんバガなよ」
政治家である父は人物を見る力に長けているのだろう。
「あーくん、こんな日だからあえて言うわ。その國井稔ってのは、雪江の婿候補筆頭だったのよ、雪江が中学の頃まで」
母がさらりと言いのける。
「お母さん、すかねちゃー、今ゆわねくてしぇーべしたほだなごど」
雪江は真っ赤になる。思わず方言が飛び出す。
「今だがらごそゆうんだ。寒河江さいだら、この先やんだたて聞けでくんなだじぇ。しゃねっけ、ってよりおべっだ、ほだなごどてゆうほうが強いんだ」
雪江の方言に母も方言で返す。
「ユキー、理事長のゆうとおりだー。寒河江でほいづしゃねな、いねどれー。必ずあーくんさ得意になってゆうヤロ出でくんなだじぇ」
櫻乃が美しい顔に憂いをにじませ、一級品の訛りで雪江を諭す。
「中学のPTAの集まりの時な、将来ミノルばおらえさ婿に出さねがと、武にゆたのよ。これは正式な話だど思てけろと。あの野郎、ミノルば石川さ婿だとふざけんな、何様のつもりだて言いやがった」
父が苦虫を噛み潰したような顔でワイングラスを口元に持っていく。
「まぁ向こうも、石川には負けるが、國井も相当な家柄だと自負してるでしょうしね。それにしても、ものには言い方ってものがある。武さんはそこが少し。コネはすげえ太いのに、県庁でぜんぜん出世できない原因でしょうなぁ」
荒木がパスタをもぐもぐ食べながら解説した。
「で、結局どうなったんです?そのミノルくん」
だいたいのことは聞いていたが、あらためて聞いてみた。
「まぁな、それまではミノルが石川の婿になるてのはほんてんだと思わっでだがら、その話は一切なぐなったて流したな。田舎だがらすぐ広まったわ。いづらいんだっけべ、稔は学院に行きたかったみでだげど、霞城さ行った。問題起こして三年の一学期に自主退学して、何のつもりか次の年学院に入学したわ」
父がすらすらと語る。
「國井はねぇ、あーくんも学校に行ったらすぐわかるでしょうけど、問題児よぉ。児、ってわりにはトシ食ってるけどさ」
母はワインで少し頬を赤らめている。
「お母さん、学校であーくんとかやめてよ」
いつの間にか俺はまわりの女性陣からはあーくん呼ばわりされている。祖母すらそうだ。雪江はそこに少し嫉妬を感じているらしい。
「心配しないで。私は仕事とプライベートはきっちり分けてるでしょ」
母が艶然と笑ってみせた。たしかに、幼稚園からの付き合いという櫻乃が、母を呼ぶのにユキのママとかいう言い方をせず理事長と呼ぶ。学校での母が理事長以外の何者でもない存在感を持っていたということだろう。俺は少し背筋が寒くなった。
「あ、私、学院では生徒も教師も、性別も役職も一切かかわらずすべて苗字呼び捨てで呼ぶからね、覚えといて、あーくん」
そういえば俺の通信教育をしてくれた佐藤先生のことも一貫して佐藤と呼び捨てだった。
「私も学校ではずーっと石川だった」
雪江がパスタを食べ終わりナフキンで口を拭う。
「んだー、理事長がユキのママなの皆わがってっから、最初みんな冷やがしたげっと、そごはじぇったいブレねっけがらね、理事長。一年の一学期終わる頃は誰も冷やがさねぐなたはー」
櫻乃はあまり酒をたしなまないようで、冷やしたジャスミン茶を飲んでいる。
「サクラちゃん、けっこう大変なんだじぇ、学院のながはおべっだ子供ばりだはげ」
母が方言モードで話し、櫻乃が笑う。そのタイミングで店長がメインディッシュを運んできた。
「けっきょぐ理事長にだけは勝だんねっけ」
高校時代はオニシロウと呼ばれたという元やんちゃ坊主の店長が笑った。
「やっと毛ぇ生えだみでなガギビラ、なにがおっかないなや」
母が豪快に笑う。
「ヤロコなの、めんごくて仕方ないー」
祖母も店長を見上げてにっこりと笑った。
「まったく、理事長は俺らを子供としか見なかったもんな」
高校から寒河江市にやってきたという荒木が、ワインを飲みながら母に向けて微笑んだ。女系の石川家ゆえ、本当に男の子が可愛くて仕方なかったのだろう。


scene 32

白身魚を、レモンとモンゴル産岩塩とエクストラバージンオイルで焼き上げたというメインディッシュを平らげ、デザートとコーヒーを頂いているところで、荒木がちょっと失礼と言って席を外し、なにか持って戻ってきた。
「じゃーん」
それは、今日発売のJET BLACKのライブDVDだった。荒木が俺に手渡す。タイトルは「SCRAMBLE/緊急発進」とあり、帯には「JET BLACK インディーズでのラストライブ!メンバー交代の瞬間を収めた貴重映像!」と銘打っている。ジャケットにはJET BLACKのロゴマークが綺麗にデザインし直されて大きくレイアウトされている。このロゴマークは、ヨーロッパの貴族の紋章を適当にアレンジして「JB」と書き込んだもので、大学のエロ同人誌サークルのやつに造ってもらったものだ。画像データを元にステッカーを作り、ライブで物販してはツアー資金に充てたものだ。
「うわぁ、本当にできたんだ…」
俺はものすごく感動していた。
「観よう観よう、オニシロウちゃん、これ、これかけて!」
俺の手からDVDを奪い取り、雪江が店長を呼ぶ。店には大型液晶ディスプレイが備え付けてある。
「おう、出だのが、DVD」
店長は包装を丁寧にはがし、ディスクをデッキに装着した。俺はすかさずめがねをかける。
再生開始すると、BBミュージックのロゴが浮き上がり、レコード会社のロゴが浮かんだ。それが消えると、「JET BLACK 初代ギタリスト、アイに捧げる」とメッセージが浮かんだ。一同が、ほぅと声を上げた。
「右田さん、アイのこと大好きだったもんねぇ…」
雪江がぽつりとつぶやく。映画のオープニングのように、メンバーのクレジットが始まる。

JET BLACK
Member
Vocal ミギ(右田義春)
Bass キタ(大北一樹)
Drums リョータロー(山崎良太郎)
Guitar コトブキ(遠藤寿)

ときて、暗転のあと、

Founding Member
Guitar アイ(本名非公表)

と長めに表示される。また一同がほぅと声を上げる。
「VIP扱いだな、若旦那」
荒木が俺を見てうなずく。画面はミギの独白が始まった。バックで小さく「Straight Flash」が流れている。
「これが、リーダーのミギ。ホント、仲よかったから…」
テロップでの質問に答える形でメンバー紹介をするミギ。
「大学入って、最初に友だちになったのが、ギターのアイ。新入生のオリエンテーションで席が隣になって…何気なく世間話して…そしたらアイはギターやってるって話になって。途中で抜けだして、廊下に座り込んで三時間くらい音楽の話してました」
くすくす笑いながら語るエピソードの間に、サングラスをして金髪ロングヘアの頃の俺の写真がカットインする。雪江と櫻乃がキャーと歓声を上げた。
「新入生の集会があってですね…なんだっけかな、サークル勧誘みたいな…そのときね、俺、つかつかっとみんなの前に出てって、ベースできるやつ!って大声で言ったんですよ。そしたら後ろのほうでバカでっかい手が挙がってて…そう、キタ」
朴訥な笑顔のキタの写真。店長が、力ありそうだなこいつ、と独り言を言った。
「リョータローは、あんときまだ高校生、だな…ふたつ歳下だったんだけど、俺が高校んときのバンドで一緒…うるさいやつでさぁ、常にハイテンション。大学でバンドやるって言ったら勝手に押しかけてきたの」
いたずらっぽい笑顔のリョータローがカット・インした。まんずきかねそうなやろこだごど、と母がつぶやいた。
「コトブキ…本名のヒサシのほうが短いのにね…自分で名乗ってんだよこのあだ名…変人なのよアイツ…実は一番付き合い長いんだなこれが…中学んときから一緒にやってたの。家も学校もぜんぜん遠いよ、年上だって知ったのは高校入ってから。なんで知り合いになったんだか憶えてない。…アイがJET抜けさせてくれって言ってきたとき、代わりはコトブキしか考えつかなかったね…アイが抜けたってどっかで聞いて、俺を入れてくれって売り込み何人か来たけどさ、わりぃ、もう決まってるし、つってさ」
カメラを睨みつけるコトブキの写真。実際あの時しか会って話してはいないが、この男は目付きがとんでもなく悪いだけで、悪いやつではない。売り込みの話は始めて聞いたが、JETはやはり注目されていたわけだ。
ミギの独白は徐々に音声が絞られ、ライブ会場の音が代わりにフェードインしてくる。独白するミギの映像がステージ上のミギと重なり、ステージの画面に切り替わった。画面中央に"at KIMONO MARKET, 29th Sep."とテロップが出た。
「キモノマーケットどが、変わった名前つけるもんだ」
父が変なところに感心する。
「俺、この界隈のスナックでずっとバイトしてましたよ」
荒木は大学の先輩なのだ。
「女の子だけじゃないんだねぇ、客」
客席の様子を見て歓声の音質を聴き、祖母が感想を述べる。
「男女半々ですよ、俺らのファンって。ごらんのようにイケメン揃いでバンドやってるわけじゃないんで」
「うー、んだてこのヴォーカルの人どが、すばらすぐかっこいいどれー」
美人にかっこいいとほめられても、残念ながらその男は女に興味が無いのだ。
「いや、これは男の好む音だな」
ツウを自認する店長が解説する。
「だな、リズム隊がどっしりしてるわ」
荒木も鋭い分析をする。キタとリョータローのコンビは音楽サイトで絶賛される安定感だ。
曲が終わり、その後のステージアクトがダイジェストで流れる。
いきなりブラックアウトした画面には

「オリジナルメンバー/ギターのアイ/脱退報告」

とスリリングなテロップが流れる。俺のMC、例の、JETより大事なもの、のあたりで櫻乃が泣き始めた。美人を泣かせた俺はたいしたものだ。
そして素早く画面がアンコールに切り替わり、

「新メンバー/コトブキ/加入報告」

とテロップが流れる。
「まったく今日のお前ら、ラッキーすぎるぞ!帰りの道に気をつけろ!JET BLACK最初で最後のツインリードだ!追加料金はサービスしとくぜ、Straight Flash!」
ミギのアグレッシブなMCで俺らの代表曲が始まる。さっき泣いていた櫻乃はもう曲に合わせて肩を揺する。
「カッコイイ曲だな」
荒木もテーブルを軽く指で叩いてリズムを取る。
「作詞作曲、あーくん」
雪江がにんまりと笑って荒木を見る。
「んだら、この曲売っだら、印税入ってくんなが」
父が俺に語りかけた。
「このDVDの分は確実に入ってくるんじゃないすかね。その後のアルバムに入ったら上乗せで」
俺は少しおどけて言う。
「JET BLACKの代表曲だもん、右田さんがアルバムに入れないわけないよ」
雪江が櫻乃と一緒に肩を揺らして言う。
「あーくんは軽音楽部顧問で決まり」
母が俺を見て笑った。
「へだくそだがらな、やろべら」
店長も笑った。この店で軽音楽部に時々演奏させていると言っていた。
曲は大盛況のうちに終わり、またミギの映像に切り替わる。エンドロールが流れだした。
「最後に、アイが作った曲、やります!今日来てくれたみんなは、運がいいぜ!この曲は、俺たちが武道館に行くまで、二度とステージではやらない!」
「この曲をステージでもう一回聴きたいなら、武道館へ来い!」
「オン・ヴォーカル、アイ!」
「オン・ギター、ミギ!"DRUNK ANGEL"!」
エンドロールは続いているが、音声は曲のイントロ部分からフェードアウトしていき、画面の中の俺は口パクだ。
「あー右田さんの言ったとおりだ、この曲ホントにカットされてる」
雪江が少し不満そうに言う。
「私をテーマにあーくんが書いて、唯一あーくんがヴォーカルとった歌なのに」
「なにほいづかっこよすぎるべしたー」
櫻乃は悲鳴を上げて雪江に抱きつく。なんともテンションの高い美人である。
「録音、してねのが」
父がぼそっと言う。
「あの日はカメラ入ってずーっと回してたはずだから、ミギか塚本さんがマスター持ってると思いますけどね」
父は無言でうなずき、手帳になにごとか書き込んでいる。婿養子がバンドマンだったなんて恥ずかしい、と言っていた父だが、どうにもご執心の様子だ。
「でも、やっぱりプロだったのねぇ」
母があらためて感心する。
「学生のお遊びと思ってたのよ、実は。でも聴いて、観て、わかった。本気で全力でバンドやってたのね、あーくん」
「ひどいお母さん、お遊びなんて」
雪江が口をとがらせる。俺もショックを受けた。学生のお遊びだったのは最初の学祭までで、それ以降はミギのリーダーシップでどんどんプロ志向を高めていったバンドなのだ。
「いや、ほんてわれど思う。俺もお母さんとおなず気持ちだっけ。チャラチャラあそんでんだど思った。んだげっど、俺もこいづば観で、本気でやってだごどはこれで理解した。大したもんだ、愛郎」
父は初めて俺をファーストネームで呼び捨てにし、そして褒めた。
「あ、ありがとうございます」
俺はかしこまって礼を述べた。雪江が涙目になっている。
「よかった、あーくんを認めてくれたよ」
櫻乃はさっそくもらい泣きを始めて、雪江を揺すった。
「自信ば持って、このビデオば皆さめしぇるっだな、石川の、俺の息子だて」
父は笑って俺を見た。政治家らしい、人なつっこい笑顔だった。結婚記念日のこの日、俺は晴れて石川家の一員として認められた気がしていた。
いちおう初夜ということで、ほんとうにひさしぶりにセックスした。雪江の乱れっぷりは物凄く、いくら家が広いとはいえ大きな声にヒヤヒヤするほどだった。
あいまに雪江に國井とのことを聞いてみた。雪江は少し嫌そうだったが、幼なじみで小学校の頃から中学までは本当に許嫁だと思っていたこと、中学の終わり頃國井の父が稔の婿入りを拒絶したためギクシャクしたこと、高校二年のときに久しぶりに顔をあわせて國井の部屋に行き、なんとなくセックスしてしまったことを話した。
「お前が國井を食ったんだろ」
俺はさすがに嫉妬心を抱き、雪江をもう一度抱きしめながら耳元で言ってやった。雪江が涙目で俺を見る。
「いいよ、俺もおまえに食われたんだ。後悔してないし」
俺は少しサディスティックになって雪江を力を込めて抱きしめた。
「雪江に食われるなら本望だし、俺を食いつくすことにしてくれて有り難い、國井じゃなくてな」
その後、俺は雪江を責めに責めた。ギターが好きすぎてセックスには淡白になってしまった俺が、これだけ気合を入れてセックスしたのは初めてかもしれない。雪江ははっきり言って「お好きなほう」なので、この時ばかりは堪能してほぼ気を失った。俺の人生で最高記録の回数だった。
むろん、この日以降こんなことは一切なく、「お好きなほう」である雪江がときおり皮肉を言うことになるのだが。

(「二〇一五年四月 壱」へ続く)


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