二〇一五年四月 弐

scene 38

土曜日、社会人としての生活の初の休日である。特に仕事をしているわけではないが、さすがにこれまでとはまったく違う環境で暮らし始めたせいか、軽くだるさが残っている。朝食は休日でも変わらぬ時刻に開始されるため、寝坊はご法度だ。父の本業は団体役員だが、政治家であるため実質的に年中無休なのである。
朝食の席で、父が小川の来訪について雪江と母と話している。夕方戻るから、宴に加わるという。さすが政治家、新規の一票には敏感だ。
「どだなおなごや、愛郎、ほの小川さん、て」
飯を食いながら父が俺に尋ねる。入籍を済ませてからは、父は俺に対して他人行儀な言い方は一切しなくなっている。母にしろこの父にしろ祖母にしろ、そのへんの切り替えが早い。
「んー一言で言うと、真面目で地味なタイプ、かな。あと強度のアニメオタク」
俺も変な遠慮をやめて、ですます体では話さない。実家にいた時のような話し方を心がける。まぁ実家でもけっこう他人行儀な話し方ではあったのだが。
「大学は慶応、修士だからあーくんより二学年上」
母も注釈を加える。この家の女性は俺をあーくんと呼ぶ。
「まんず学院の先生は誰も彼も偏差値高い学校出でくるな」
父がチラリと俺を見てニヤッと笑った。
「あーくんは特別」
雪江が俺に飯のおかわりを渡しながら笑う。
「学院では特別扱いしないわよ」
母も笑った。
「わかってます」
朝食が終わり、俺の部屋となった先代の書斎に入り、重厚な机で世界史の勉強に入る。いくら低偏差値の大学出とはいえ、生徒からは先生と呼ばれてしまうのだから、恥ずかしい真似はできない。何より俺は今、石川宗家の若旦那なのだし。
高校の頃、世界史は得意教科だったこともあり、俺は時間を忘れて資料を読みふけった。
「お勉強してるねぇ」
いつの間にか雪江が書斎に入ってきていた。エプロンをしている。
「石川宗家の若旦那様がおバカじゃ、みんなの顔に泥を塗ることになる」
「私の顔にはいろんなモノ塗っていいのよ」
「まぁまぁ、その件は置いといて」
初夜に少し張り切った時のことを言い出し、俺のほうが恥ずかしくなった。部屋がたくさんあるこの屋敷だけに、俺にあてがわれた書斎、もともとの雪江の部屋、それとは別に寝室として和室の六畳間を使っている。雪江の部屋には彼女がずっと使っていたシングルベッドがあるが、俺達は寝室の畳の上で布団を並べている。雪江はその布団の上でさんざん乱れるたのだ。
「小川さん、四時頃に来るっていうから、お昼ごはんは作らないよ。夕飯を早めにって感じで」
時計を見ると一二時半を回っていた。俺は別に構わないと答える。雪江は俺の頬にキスをして部屋を去った。また一時間ほど資料を読み、煙草を喫おうと外へ出た。父も俺も煙草を喫う。先代はかなりのヘビースモーカーだったそうだが、火事を出してはいけないと庭の一角に喫煙所を建てたという。それから、石川宗家では屋敷内禁煙となったそうだ。この屋敷自体が文化財クラスのものなのだし、危機管理という点でも先代はきわめて聡明なお方だ。
俺の煙草はあいにく切れていたため、広い庭を歩いて門をくぐり、駅前のコンビニに行かねばならない。門を出ると、若い女が警官に職務質問されている。
小川だった。
警官に話を聞くと、一時間以上石川家の周辺を回っては写真を撮ったりメモを取ったりと不審な行動をとっていると言う。小川は、歴史的意義のある建造物調査だと説明している。
俺は警官に小川の素性を証明し、今日石川家に招いている客に間違いないと説明したので、ようやく警官が疑いを解いた。中年のがっしりした体格の警官は、あなたが石川のわが旦那様がっす、話し聞いっだ、駅前交番さいっから、何があったら連絡してけろなっす、と敬礼して去っていった。
「小川さん、四時じゃなかったっけ」
警官を見送りながら傍らの小川に問いかけた。
「石川宗家住宅の調査をしないとと思って」
年季の入ったデニムにチェックのネルシャツ、親父っぽいブルゾンにスニーカーというフィールドワーク・ファッションでキメた小川は、普段にも増して野暮ったい。おまけにリュックを背負って迷彩柄のブッシュハット、定番の銀縁眼鏡と、若い女らしからぬいでたちだ。だいたい真っ昼間から建物の周りでメモを取っている奴など、職務質問どころか交番に連行されるのではないか。
「じゃあもう建物の周りは調査終了して、中入ってよ」
俺の進言に、小川は出会ってから初めて、満面の笑みを俺に見せてくれた。
「はい、では遠慮無く」
門をくぐった小川は、五メートル単位で足を止めて撮影したりメモを取ったりしている。俺はともに歩くのをあきらめ、屋敷に戻って台所の雪江と母に小川のことを報告した。ふたりは聞き終わるなり爆笑する。
「好きなようにさせてあげて。サーヤは面接のとき専攻のことを話し出したら止まらなくなったほどだから」
母が笑い涙を拭きながら優しい声で言った。それにしてもプライベートでは小川をサーヤと呼ぶことになったのか。
「背が高くてスタイルもいいのにね、彼女。男に興味ないのかな。まぁ安心してられるけど」
雪江が俺をちらっと見て笑い、煮物の味を確かめて鍋に醤油を足した。いい香りが漂っている。
「今日は純正田舎料理よ」
「サーヤが喜ぶわね、伝統料理だって」
台所は女性に任せ、俺はまた書斎に戻り小一時間資料を読む。そして、小川にかまけて煙草を買っていなかったことに気づき、また外へ出た。庭をざっと見回してみたが、小川の姿は見えなかった。敷地内でもあるし問題はなかろうと思い、てくてく歩いて門を出てコンビニへ向かう。門を出ればコンビニまで徒歩一分なのだが、門を出るまでそれ以上の時間がかかる家なのだ。
煙草を買ってまた門をくぐり、駐車場の隅に設えられた喫煙所へ向かう。喫煙所は古くなった納屋を解体した時の建材を再利用して作ったという東屋だ。やはり納屋の建材を再利用したベンチがあって、使わなくなった火鉢が灰皿として置いてある。
喫煙所にたどり着くと、なんと父と小川が楽しそうに会話している。
「お父さん、お、お帰りなさい」
「おう愛郎、いや、小川さんだばやっぱり大したもんだ、この火鉢の年代まで当てた」
普段はいかつい感じの父が嬉しそうに大笑いしている。
「旦那様、火鉢もですが、この柱、ここに貼ってある御札は、嘉永年間頃の八幡神社のものと思われます」
「んだのが?古いどすか思わねっけこりゃ。八幡様だらでっかいのあっさげな、寒河江は。観る人みっど違うなぁー」
小川が指し示す、柱の少し高いところに貼られた御札を見て、父は感心している。
「小川さん、家さ入れ、家ん中好ぎなだげ観でけろ、入れ入れ」
父は小川の肩を抱きかかえんばかりにして玄関の方へ去った。俺は呆気にとられて、とりあえず煙草を喫った。


scene 39

家に戻ると、小川は仏間を歩きまわってはまたメモを取り写真を撮りを繰り返していた。居間へ行くと、父と祖母が小川のことを語らっている。雪江が大きな座卓に料理を並べ始めた。煮物中心のいわゆる田舎料理だろう。母も居間へやってきて、仏間の方へ声をかける。
「サーヤ、ごはんできたからいらっしゃい」
理事長の時とは明らかに違う、優しい母の声で小川を呼んだ。小川が居間へ駆け込んでくる。
「ありがとうございます理事長」
めずらしく小川は緊張している。
「家では私はお母さん。理事長はやめてサーヤ」
母がにっこり笑って小川を見る。
「それではお言葉に甘えまして、ごちそうになります奥様」
母に指し示された席に座り、小川が一礼する。
「この家はなにか役に立つのかい、あんたの研究に」
祖母もやさしく声をかける。小川に気を使ってか、祖母は江戸弁ヴァージョンだ。
「ご刀自、役に立つも何も、この座卓まで調査対象です」
「そういやこれは、あたしが物心ついた頃にはここにあったわねえ」
祖母が座卓をなでながらいう。たしかに立派な座卓だ。ところでゴトジとかいうのは一体なんのことだろう。
「しらべっだいどぎは、いづだて来てしぇーさげな、サーヤ」
父までサーヤ呼ばわりを始める。
「小川さん、ほんとに勉強熱心だね」
雪江は年上の小川に向かってサーヤ呼ばわりは避けたようだ。筍と牛肉と糸こんにゃくの煮物を小川によそってやる。
「そうそう、今日はサーヤに飲ませるんだったわね」
母がうきうきしている。そういえば、母はこの間のトールパインでの食事でも、けっこうワインをグイグイやっていた記憶がある。
「お父さんはあまり飲まない人だからね、お酒の在庫が貯まるのよぉ。議員やってるとねぇ、なにかと」
「これでも飲むいようになったんだ、昔は清酒をコップ一杯飲むなが大変だっけ」
「俺も似たようなもんです」
俺は父にさらりと相槌を打つ。
「オヤズも煙草は山ほど喫うっけげど、酒は進んで飲まねっけな」
「親戚の集まりの席では、あの人のぶんはあたしが頂いてたのさ」
「石川家は女系でありアルコール分解酵素も遺伝的に多数受け継いでいる、と」
小川が真面目な顔でツッコミを入れ、食卓が笑いに包まれる。
「さぁさぁ、まずは一杯」
赤やら青やら金色やらでびっしりと絵が描いてある、美術館かなんかに展示してありそうな徳利と杯で、母が小川に酒を勧める。小川は酒を注がれる前に杯を凝視する。
「九谷ですね、明治期でしょうか」
なんかそういうの大昔のテレビ番組であったな。
「ほんてん古いものはオヤズの代で全部県と市と大学に寄付した」
父は普段より速いペースで盃を口に運んでいる。
「ご英断です。貴重な資料は、美術館や博物館で管理したほうが安全ですから」
小川がそう言ってくいと盃を干す。
「大東亜戦争が終わってねぇ、農地開放で土地はあらかた小作人さんにさし上げたのよ。でも蔵いっぱいの伝来の品は絶対渡さなかった、GHQにだって。うちの人はね、時代が変わって、石川の蔵に押し入る馬鹿者も出るかもしれん、蔵ン中の伝来の品は全てお上にお預けしよう、って言ったのさ。二〇年近くかけて調査員が全部の品を鑑定して運び出した」
本来はいける口であるという祖母も江戸弁を操りながら盃を口にする。
「県立美術館にいってごらん、サーヤ。常設展示で石川家収蔵品コーナーがあるから」
俺に酒を注がれながら、母が優しい声で語りかける。
「小川さんの実家も長く続いた家だって、あーくんに聞いたけど」
雪江に至っては、早くもコップで飲んでいる。
「私の家は、そうですね、長いことは長い。船橋市のはずれのほうですが、かなり古い神社のそばの村で。地元では小川一族なんて言われますけど、本家じゃありません」
「昔からの住民なんだな。所沢にも、そういう家あったわ」
これまで俺はほとんど日本酒を飲まなかったが、これはどうも良質な酒らしく料理の味にも合い、雪江の酌に杯を重ねる。
「私の家のあたりは大きな川がないので、水田ではなく畑でした。今はかなり宅地化していますが」
雪江は小川にもコップを与え、一升瓶から直接注いでやる。
「んだ、若いころ大先生んとこで書生してで、大先生さ付いて千葉のザイのほうさ行ったっけ、寒河江どたいして変わらねっけな。畑ばんでよ、東京さ近いつってもど田舎だどれ、ってな」
父がげらげら笑う。徐々に酔ってきているようだが、雪江と小川が飲んでいるコップ一杯ぶんくらいを飲み終えたところだ。
「今でもちょっとは残ってる、畑。売ればいいのに」
「この牛肉と筍の煮物、美味い、なんて料理?」
小川は次第に酔ってきているようで、あの時の繰り言が始まりそうになり、俺はあわてて茶々を入れる。
「んー牛肉と筍の煮たの、かな」
母が普通に答える。ギュウタケ煮、みたいな具体的名称はないのか。
「春の、筍の美味い時期は必ず出すねぇ。家によってはこんにゃくは入れないかねぇ」
祖母が筍を食べながら続ける。
「昔は農機具のかわりに牛を使ってだわげで、その牛が年取ると肉用に売る。このあだりは、昔は肉つったら牛肉だ。めったに食わねっけげっとな」
「なるほど、鶏もそうですが、年取った肉は固いけど、いいダシが出ます」
グルメの小川は、畑を売ればいいのにの件を忘れてくれたようだ。煮物の汁を味わいつつそう語る。
「おぉ、このあだりの名物で肉そばってのがあってな、ほいづはそばつゆに鶏のダシが入るんだ。具も鶏肉煮たやつを切ったもんだ。ババ鶏のほうが美味い」
父が嬉しそうに語る。しかし、それは非常に美味そうだ。
「それは聞いたことなかった。食べよう」
小川がコップの酒を飲み干し、にこにこして語る。もはや完全に酔いが回ってきているようで、敬語を使うのをやめている。
「サーヤは彼氏はいねなが」
父が調子に乗って切り出した。
「お父さん、そういうこと聞くの失礼」
雪江がぴしりと注意し、父は縮こまった。
「いないです、って言いますか、恋愛感情というモノが理解できたことがない」
小川は気にする様子もなくさらりと答えた。
「ですから石川さん夫婦の仲の良い様子が不思議で。むろん奥様と旦那様も。正直、私の両親は仲が良いとは見えませんでしたし」
「ふぅんそうか、サーヤは勉強…ってか民俗学に恋をしてるのねぇ」
母も少し酔ってきたようだ。
「研究と恋愛は同じなの」
「とてつもなく大好きなものがある、って意味では同じでしょサーヤ」
雪江もタメ口になりつつある。ついにサーヤ呼ばわりだ。
「俺はギターだな」
美味い酒をちびちびと舐めながら俺はぽつりとつぶやく。
「私以外を大好きになったら許さない」
雪江が酒臭い息を吐いて俺に抱きつく。小川は珍しい動物を見る目で俺たちを見ている。父と母、祖母が苦笑した。
「サーヤ、東海林と付き合ったらどう?」
母がいきなり提案した。
「あー、東海林先生、カッコ良かったよね。でもまだ独身なの?」
雪江が懐かしそうに話す。
「三十代後半になっちゃったけど、まだまだ熱血教師よ。サーヤの指導担当だから、ついでに恋愛も指導してもらおっか」
母は簡単に言うが、はたしてそれは許されることなのだろうか。
「理事長がそうおっっしゃるなら私は従います」
小川がまじめに答える。だがそれでいいのか小川。
「問題は、東海林が全く女性に興味がなさそうなところなのよねぇ」
母もまじめに考え始める。
「ゲイじゃないと思うよ。ゲイの人ひとり知ってるけど、東海林先生とは違う雰囲気だった」
雪江がとんでもないツッコミを入れる。たしかにリアルでゲイの知り合いはいるわけだが。
「たぶん、サーヤと同じね。学問と学院が好きすぎて、他のことに興味を持つヒマがない」
母が冷静に分析している。しかし、酒量はだいぶ進んでいるはずだ。
「東海林先生、他にも好きなのあるよ。アニメ。あの人バスケも好きだけど、アニメも大好き。学院のアニメ同好会作ったのあの人よ」
雪江が牛乳のように日本酒を飲みながら話す。
「何が好きなのかな東海林さん」
小川がアニメという言葉に敏感に反応した。そういえば小川は、そうだった、重度のアニメオタクだった。
「なんだろなんだろ、ロボット系かな美少女系かなBLだったりしたらどうしよ、うきゃきゃきゃきゃきゃきゃ」
小川が壊れた。
「週明けに早速ふってみなさいよ。サーヤときっと気が合うわね」
母がにっこり笑った。
この後、祖母を除く女性三人は深夜まで酒を酌み交わしたというが、俺と父は途中でリタイヤして早々に布団に入った。

scene 40

週が明け、その週の木曜が始業式である。始業式のあと新任教師紹介があり、俺と小川が紹介された。俺の紹介時には、生徒たちの間に若干のざわつきがあった。狭い田舎町のこと、俺が石川家の婿養子であることはだいぶ広まっているのだろう。
壇上から生徒たちをざっと見回すと、例の三人がひときわ目立つ。後ろのほうに、長身でがっちりした体格のリーゼント、細身で総金髪のオールバック、背がいくぶん小さくて茶色の髪を逆立てた奴らがいる。でかいのが柏倉、金髪が西川、ツンツン頭が國井だろう。柏倉が丈の長い学ラン、西川と國井は丈の短い学ランをまとい、それぞれ図太いズボンでキメている。俺の通っていた高校はブレザーだったので、このファッションセンスはわからない。
國井が俺を睨みつけているのが、壇上からでも明確にわかった。リョータローなら殴りに行っているところだなどと思い、壇を降りる。
「あれが國井たち、ですな」
壇を降りながら小川が話しかけてきた。
「俺だって高校生だったのはほんの四、五年前だけど、なんかかわいいね高校生」
俺は正直な感想を述べた。彼らとそんなに年齢は変わらないはずなのだが、理事長の言うように「んぼこ」にしか見えない。子供が精一杯大人のふりをしているだけなのだ。ちょっとした縁で就職と結婚をしてしまった俺は、大人になってしまったのだなと思った。
「そう言われればそうですな。私も実は同じことを思いました。年を取ったのかな」
「んなこと言ってると、佐藤さんとかに怒られるよ、若いもんが何を言うかって」
小声で会話しながら、俺と小川は職員席に戻る。
学院は三年間組替えは行われず、文系と理数系に分かれたカリキュラムで授業を行う。俺は佐藤さんに付き従い、新入生のクラスの副担任になる。小川の方も東海林さんに付いて二年生の副担任だ。
その次の日は入学式が行われ、俺と同じ新入生を迎え入れる。新入生は本当に子供としか思えず、俺は苦笑した。俺も昔はこうだったのだろうななどと思い、心を新たにする。
学院の独特な制度により、出席や成績の管理などは管理部が集中して行うし、部活や生活指導は指導部が行う。教師は授業だけを行い、管理部や指導部からの事務連絡をするが、担任する三十数人の生徒のメンタルケアも重要な仕事だ。俺はなにやらやる気が出てきた。
入学式後に、新入生が教室に集合する。ほとんどが地元の子供達であり、昔からの知り合いばかりと見えて、教室内は大騒ぎである。佐藤さんが少し大きな声で静粛にと呼びかけ、ようやく教室は静かになる。
「寒河江中央学院高校へようこそ。このクラスを担任する佐藤誠司です。担当は社会科、世界史です。本来、学院は三年間クラス替えがなく担任も替わりませんが、私は君たちが二年の一学期が終わるとに定年を迎えます」
佐藤さんはかしこまった席では流暢に標準語のイントネーションをあやつる。
「副担任の石川さん、入学式でも紹介がありましたが、あなた達と同じ新人です。二学期からは彼に担任を引き継ぎますので、彼と三年間いっしょに頑張ってください」
佐藤さんが俺に目で合図する。挨拶をしろということだ。
「ご紹介いただきました、石川愛郎です。同じく担当は社会科、世界史です。私もこの間大学を卒業したばかりの教師一年生、皆さんと同じです。一緒に頑張りましょう」
教壇の横で、俺は生徒たちに深々と頭を下げる。生徒たちも頭を下げているのが空気の動きで伝わってきた。
「なお石川さんは新婚です」
佐藤さんが余計なツッコミを入れ、生徒たちがざわつく。
「ハイ」
一人の女子が手を挙げる。佐藤さんが名簿を見ながら名前を確かめる。
「菅野美依、なにか」
菅野という生徒は物怖じせずに立ち上がる。
「石川先生は石川宗家のお婿さんですか?」
教室内のざわつきがまた大きくなる。この年頃の女の子と言うのは、こういうことに興味津々なのだろう、女子の話し声のほうが多い。佐藤先生がまた目で合図する。
「えー、すぐにわかることですし、隠すつもりもありません。私は石川宗家の婿です」
キャーと歓声が起こる。菅野が続けた。
「んだら、東京がら来たの、先生」
菅野は軽い訛りが抜けていないようだ。櫻乃よりは数段マシなレベルだが。
「生まれ育ちは埼玉の所沢です。大学はたしかに東京ですが、町田でした」
所沢てライオンズの本拠地だべ、と男子も言い出す。
「はいはい、そういう話はまたホームルームとかでな」
佐藤さんが場を押しとどめ、諸々の事務連絡をする。俺もところどころメモを取りながら、生徒たちを観察した。
制服は、男子がまったく普通の黒い詰め襟である。女子は東京近辺でもよく見かけるタイプ、紺ブレザーにチェックのスカートだ。女子の制服とあわせて男子もブレザーの制服である場合が多いが、おそらく女子の制服だけ近頃変更したものか。
男子は國井たちのような変形学生服を着ているものはおらず、女子のスカートも常識的な長さである。上級生もほとんど同じで、國井たち三人が浮いて見えるのもわかる。かなりおとなしい学校のようで、あのオニシロウ店長が在籍していたとは信じられない程だ。
佐藤さんの事務連絡が終わり、クラスに解散が告げられると早速さっきの菅野という生徒とその友達二人が俺のもとに駆け寄ってくる。
「菅野、と」
俺は名簿に目を落とす。さん付けしそうになり、生徒は姓で呼び捨て、を思い出してあやうくとどまった。
「日塔です」
「鈴木です」
二人がすかさず答える。珍しい名字と珍しくない名字のカップリングか。
「あぁ、日塔美優、珍しい名字」
「みゆうではなくみゆ、日塔はこの辺では珍しくないです」
「全国的に珍しぐない鈴木ばディスったんねのー」
クラスには鈴木姓の女子生徒が二人いる。
「鈴木、二人いるね」
「美緒のほうですー」
みいにみゆにみおとは、どれがどれかわからなくなりそうだ。
「うちらの間では、雪江様と櫻乃様はあこがれの人だったんだっけー」
リーダー格らしい菅野が言う。
「雪江様、短大卒業と同時に結婚したって聞いて、ショックだった」
日塔が続ける。すこしぶっきらぼうな、男っぽいしゃべり方をするが声は高めだ。
「雪江様の婿殿が学院の先生になるって、受験のどぎ聞いたんだー」
鈴木がまくし立てる。子供だがみな可愛らしい顔立ちをしている。俺はなんだか優しい気持ちになった。
「んで、こんな男でショックだったか?」
傍らで佐藤さんがにこやかな顔で俺達を眺める。
「櫻乃様が、しぇーおどごだじぇ、って言ってたし」
「確認した」
「許すべしたー」
「トールパインには、君らだけで行ったらイカンぞ。酒を出す店に生徒だけで行くのは禁止だ。指導部が飛んでくるぞ」
佐藤さんが釘を刺す。
「家族で行ってますから大丈夫でーす」
菅野が明るく答えた。
「櫻乃様は店長とラブラブだし、雪江様も婿取ったし、楽しみがなくなった」
日塔がぼやく。君らはいったい雪江と櫻乃の何を楽しんでいたのか。
「先生、櫻乃様のことおべっだの?」
三人の中では鈴木が一番訛りが強いようだ。それでも櫻乃よりずっと訛っていない。
「寒河江に来て初めてできた友達が、オーナーと店長とサクラちゃんだ」
サクラちゃんだってーと菅野たち三人が嬌声を上げた。
「カミさんの親友だもの、そりゃ親しくするわな」
「はいはい、三人とも解散。おらだは職員室さ戻るんだ、また今度な」
佐藤さんが助け舟を出して、ようやく三人から解放され、並んで歩いて職員室へ向かう。
「いや、すごいですね、子供って」
俺は正直な感想をもらす。
「石川さんは、あんます子供と接したことないべな」
佐藤さんが訛りを戻して言う。
「ないですねー」
「まぁ一年生なのほんて子供もいいとごだがら、あんますむぎになんな」
「ホントそう思いましたわ」
徳永愛郎でもなくJET BLACKのアイでもなく、石川愛郎としての新しい生活が始まった。


scene 41

生徒たちとの対面も終わり、俺はさっさと帰宅する。帰宅すると祖母が夕飯の支度をしている。
「手伝うよ。学生時代ずっと居酒屋でバイトしてたから、運ぶのは得意」
「おや、ありがどさまなぁ。あーくんが好きそうなものはこしゃわんねげど」
祖母は俺の前での江戸弁をやめた。入籍した俺を身内と認め、東京方面から来た人用のサービスをしなくなったのだ。
「俺は別に洋食が好きってわけじゃないし。雪江が作る料理がすごく和風なんで最初驚いたけど」
「雪江なのんぼこんどぎがら台所の手伝いしったけさげ」
「居酒屋から貰ってくる残り物もあったんで、ホント食うことだけは困らなかったな」
「雪江さは米やら味噌やら野菜やらいろいろ送ったっけ」
「お世話になったねぇ」
石川家は俺を婿、いや息子、孫として扱ってくれていることが嬉しかった。俺が子供の頃、徳永家で味わったことのある優しげな家庭の雰囲気が戻ってきたようだった。中途半端にグレた俺だけが、家庭の温かみに勝手に背を向けていたのだ。それを思い出させてくれたのは、同棲時代の雪江の手料理なのだった。
質素な夕餉が出来上がる頃、両親と雪江が帰宅した。石川家が食卓につく。
「お父さんも時間が不規則だし、私も遅くなる時があるし、うちは夕飯は各自取るようにしてるんだ」
母が飯をかきこみながら話す。どうも母は、基本は標準語で話すようだ。相手によって方言を使う。
「俺も東京さ出張するごども多いすな」
父もモリモリ飯を食う。
「みんな揃って夕飯、ってのは休みの日くらいね」
同棲している頃から感じていたことだが、雪江はけっこう大食漢だ。ふたりで暮らしているのに、大型の炊飯器を使っていた。
「俺とばあちゃんで夕飯食うことが多くなるかな」
俺もペースに巻き込まれてモリモリ食ってしまう。
「んだら、二人で仲良く食うべな、あーくん」
祖母はさすがに少食で、食後の茶をすすりながら笑う。
「どうだった、一組」
母が漬物だけで三杯目の飯を食いながら俺に尋ねる。
「一年生はホント子供ですね、可愛らしいっす」
俺は三杯目を辞退し、飯碗に茶を注いで答える。
「菅野、日塔、鈴木って女の子三人組に、石川先生は宗家の婿ですかって質問されましたわ」
「菅野は元町の昭一んとこの長女だな。日塔は本楯の真の長女、鈴木は栄町の洋介の次女だな。中学校でいつも一緒だった三人だ」
父がすらすらと答える。この人の頭のなかには、選挙区のすべての家の名簿が入っているというのか。
「お父さん、議会の教育関連の委員長だから、市内すべての学校に足繁く通ってるの」
雪江が小さくごちそうさまといい、飯碗に茶を注ぐ。そもそも雪江がそうしていたから俺も食後の飯碗に茶を注いで飲むようになったのだ。なんでも、これは禅寺の食事の作法のひとつで、石川家の作法にもなっている。たしかに、あとの洗い物は楽になる。俺は石川家の作法を先にひとつ習得していたわけだ。
「あの娘たち、なかなか成績もいいからね。気にかけてあげてあーくん」
母も飯碗に注いだ茶をすすりつつ言った。
「はい」
茶を飲み干して夕飯が終わり、俺の教師としての初日が終わった。

(「二〇一五年四月 参」へ続く)

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