見出し画像

二〇一六年四月 伍

scene 105

担任するクラスは一年一組から二年一組に変わっているが、学院は三年間クラス替えを行わないので、生徒の面々は変わらない。彼らも去年の今頃は中学生とさほど変わらない雰囲気だったが、一年経つとだいぶ大人びてきている。終業のホームルームでは、事務連絡などをしたあとに、雑談とさほど変わらないフリーディスカッションをしている。
「先生、一年のあの双子は、いったい何やっす」
学級委員の松田が、クラスを代表する形で口火を切った。入学式が終わって三日だが、ケイトとナルヨシのことは学院中の話題になっている。
「何って言ってもな。見てのとおり、女っぽい男と男っぽい女だ」
俺は軽めに答えを返す。
「いや、そうでなくて、なしてあだなば学院さ入学させだのやっす。男がスカートなて、ありえねべっす」
松田は普段おとなしい男だが、今は確実にムカついているようだ。松田は剣道部では一年生の時からレギュラーとして、団体個人双方で活躍している。男を特盛にしたような松田にとっては、女装男子など見るのもイヤなのだろう。
「うーん。たしかにな、一般常識では男はスカートは履かない。でも、男がスカートを履くなとは、日本の法律には書いてないと思う。そして、学院の校則にも書いてない」
確かに書いてはいないのだが、実は学院のホームページの制服の画像には、つい最近まで「男子制服」「女子制服」と明記してあった。理事長の指示で、「制服」に修正されたのだ。
「書いてなきゃ何でもしていいんですか」
いい子揃いの学院にあって、制服の着崩しや薄化粧がいわゆるヤンキーっぽい、珍しいタイプの生徒である丹野がまじめな顔で突っ込んできた。
「法律とかルールの考え方には大きく分けてふたつあるんだな。ポジティブリストとネガティブリスト。原則自由だけど、これはやっちゃいけない、っていうのと、原則禁止で、これはやっていい、って考えだ。法律ってだいたい、やっちゃいけないことが書いてあるわけだけど、これはさっき言った一般常識、ってのが前提だよね。そしてその一般常識ってのは国によって時代によって変わる」
丹野は少し不満げな顔だ。
「なぜ人を殺してはいけないか、っていうことを論理学的に突き詰めてくと、実は人を殺してはいけないということを否定できなくなるって話があります。私はそういうお勉強してこなかったんで、なぜそうなるかわかりません。でも私ならただ一言ですね、ダメなもんはダメだろ。これが一般常識じゃない?」
「んだなっす、俺も男がスカートなんぞ、ダメなもんはダメだっす」
松田は我が意を得たとばかりにうなずく。
「みんな知っての通り、私は大学の頃バンド活動に熱中しました。髪を伸ばして金髪にしてました。親兄弟は思いっきりイヤな顔しましたよ。半分縁を切られてました。誰にも迷惑かけてねえ、って突っ張っても、嫌な思いしてた、迷惑かけた人はいたわけです。これって、大なり小なり、誰でもあるんじゃないです?誰にでも好かれて尊敬されてる人とか、もしかしたらすごく怪しいんじゃない?私の父は知っての通り政治家だけど、俺のごど好かねヤロなの山ほどいんだじぇ、って言ってました。一生懸命応援してくれる人が嫌ってる人より多いからやっていけるんだとね」
クラスに笑いが起こった。
「先生はあの双子を認めるんですか」
丹野が少し挑戦的に尋ねてきた。
「認めますよそれは。理事長が入学を許可したんです。まぁ丹野が言いたいのはここじゃないだろうね」
ふざけたつもりだったが丹野は笑っていない。
「誰かがそこにいることを認めないとか、私はそんな事は絶対言いません。これは私の考えですから、参考として聞き流して。人は自由だと思います。法律に違反しない、社会の一般常識に大きく外れないかぎり、自由だと思います。だから私は昔髪を金色に染めてギターを弾いてました。親兄弟は迷惑だったでしょうけど、喜んでくれて応援してくれた人もたくさんいたんです。私は、誰かの存在を認めない、ってことは言いたくありません。おまえのこと嫌い、は別にかまわない。だけど、おまえなんか認めない、俺の目の前から消えろ、ってのはどう考えてもおかしい。人間って、誰かと関わってないと生きられない。関わる上で、嫌な思いをすることもあります。でもそれも生きてく上でのイベントです。目に見えることはとりあえず受け入れないとね」
「わかりました先生。私も、なんとなくそういうふうに思ってたけど、うまく説明してくれたみたい」
丹野は初めて明るい表情になってうなずいた。
「男がスカート履くのもいいじゃない?それをムカつくのもけっこうなことだ。ムカつくならかかわらなきゃいい。だけど、おまえムカつくんだよ、つって暴力振るったり集団でいじめたりするのは、違うでしょう。ってか許されないでしょう。多様性がどうのこうの、小難しいこと言うわけじゃないです。好きにしろよ、俺にゃ関係ねぇ、ってことなんだよな結局。松田、どうよ?」
最後はアイになって言ってしまった。
「まぁ、ほうゆわれれば、んだなっす。俺さ関わってこねばべつに」
松田は最後の一言だけしか聞いてなかったようだが、ムカつきはおさまっているようだ。スポーツマンらしい、いい顔で笑った。
「せんせー、双子が宗家に下宿しったんだべ?どうなのやー」
鈴木が明るく問いかけてくる。ケイトとナルヨシが石川宗家に下宿していることを初めて知った生徒も多く、教室がざわついた。
「あーそれは個人情報なので言いません。理事長と私のプライベートでもありますので。彼らのことが知りたければ、彼らと直接話したらいい」
「はぁいー」
鈴木のトレードマークは髪をすべてきつめにまとめたポニーテールで、髪も肌もつやつやしているので、さくらんぼのようだ。悪びれるでもなくニコニコしているが、本当に地獄耳の情報通なのだ。
「今日から新入生の部活見学が始まります。部活をやってる者は、恥ずかしいところを見られないように注意して。私からは以上です」
「ほが、誰かれんらぐ事項はありますか。ない。起立、礼」
松田が低い声で号令をかけ、ホームルームは終わった。


scene 106

「先生、さっきは生意気なこと言ってすいませんでした」
丹野が駆け寄ってきてペコリと頭を下げる。
「あ?丹野は生意気なこと言ったと思ったわけ?全然、普通な質問だろ」
「先生がいじめは許さない、って言ってくれて、すごく嬉しかった」
丹野がにっこり笑った。沖津を思い起こさせる、大人びた表情だ。
「私、中学んときハブられてて。だから、うちの中学から誰も来てない学院に来たんです」
丹野は細身で背が高いほうだ。髪は長く伸ばして明るい色に染めている。スカートはたぶん学院で一番短い。指導部の要注意リストにランクインしているそうだ。
「リセットって、けっこう効くからな。俺も人生やり直しみたいなもんだ」
「そっか、先生お婿さんだもんね」
「こういう言い方はアレだけど、丹野は訛ってないよな」
「私、小学校終わるまで、練馬の大泉学園に住んでました。両親が離婚して、母の姓になって山形の母の実家に来たんです」
「大泉学園っていうと親近感あるな、西武池袋線の元所沢市民としては」
俺も丹野と顔を合わせて笑った。
「たぶん中学でいじめられたの、訛ってなかったからだと思う。かっこつけて、って遠くで言われてた」
「いいじゃん、学院では誰も丹野をいじめたりしないだろ」
とはいえ、丹野が誰かと楽しそうに話しているのは見たことがない。いつも一人で左沢線に乗っている。学院は寒河江周辺の生徒が多く、彼らはたいがい小学校からの付き合いだ。丹野のように山形市から通ってくる生徒は少ない。
「怖いんだ、誰かに嫌われるの。だから友達作らない」
「丹野がそれでいいんなら止めないけどな、でももったいないぞ。俺は高校んとき、ギターが好きすぎて学校には友達いなかったけど、バンドやってた奴らとつるんでる時は最高に楽しかった」
「先生、高校に友達いなかったの?」
「ギターが友達だったんだよ!」
丹野が本当に楽しそうに笑った。
「丹野は部活やってないのか」
「べつに、運動は得意じゃないし。小説とかマンガ読んでる方が好き」
「おー、そんなら、小川さんとこだな。アニメ同好会。小川さんな、ホントはすげえ面白い人だぞ」
「小川先生って東海林先生の彼女でしょ。すごく陰気な感じ。って私もか」
「陰気なんじゃなくて、必要なこと以外しゃべらないだけだ。自分の好きなことについてなら、何時間でもしゃべるぞ小川さん。むろん、マンガにもメチャ詳しい」
「そうなんだー。なんか興味湧いてきた」
「小川さんに話しとく。すぐ勧誘に来るぞ」
「えー」
クラスの隅でつまらなそうにしている印象しかなかった丹野が、良く喋ってよく笑っていることが俺は嬉しかった。
「せんせー、部活の時間でーす」
日塔、菅野、鈴木の面々がお迎えに来た。日塔の背後に炎が見える。
「あー、そうだそうだ、今行く。学校で一番楽しみにしてる時間だ」
後半は小声で丹野にだけ言った。丹野がいい顔で笑いペコっと頭を下げる。
「せんせー、丹野ど楽しそうに話しったっけどれー」
部室へやって来て、鈴木がバスドラを踏みながらニヤニヤ笑う。ドラミングがサマになってきている。
「丹野もあだい笑うんだね。いっつもムスッとしてるのに」
菅野はなるべく標準語で話そうとするのだが、ところどころに方言が混じる。
「まる一年経って、ようやく慣れたんでないのー」
日塔はベースギターのペグをねじってチューニングをする。俺には背を向けたままだが、やはり背中から炎が出ている。
「日塔も東京育ちだよね。さっき丹野も東京育ちだって言ってた」
俺はアンプのスイッチを入れて日塔の背中に話しかける。
「へぇ」
日塔がこちらを振り返る。目にも炎が宿っていたが。
「練馬に住んでたってさ。日塔はどこよ、っても俺あんまり東京知らないけどな」
アンプにシールドを突っ込み、音を確かめながら話す。
「私は調布。そっか丹野もか、訛ってないもんねあの子」
「私だって訛ってねべー」
鈴木が明るく笑ってドラムを叩く。
「美依が訛ってないときないべー」
菅野の指が鍵盤上を踊る。
「私が転校してきたときは、標準語で話して生意気だって言われたけど、西川先輩と大泉先輩が守ってくれたからなー」
日塔のフィンガーピッキングも板についてきた。
「美優ば一番守ったの私ど美緒だべー」
鈴木のドラミングは沖津譲りのレギュラーグリップだ。
「確かにバックにはあの夫婦がいたけど」
菅野がクスクス笑う。
「先生、大泉先輩ってあんなちっちゃくて可愛いのに、怒ると西川先輩でもかなわないくらい怖いんだよ」
日塔の炎がようやく消えた。
「あどすねがら勘弁してケロ、ってゆうほどおっかないんだじぇ、ハルヒ先輩」
小柄な鈴木でさえ、大泉よりちょっと背が高いのだ。
「大泉先輩がごしゃいだの最後に見たの、私らが中一んときかな」
菅野がキーボードを弾く手を止め、目線を上げている。
「何が原因だっけ」
日塔も演奏を止めて上空を眺める。
「そうだ、やっぱ西川先輩のこと。外人野郎、って言われて、フジオは寒河江育ちの正真正銘の日本人だ、二度どゆうなアガスケヤロ、って叫んだ」
「んだー、あんどぎはもう誰もハルヒ先輩ど西川先輩のことはやさねぐらい、すっかり夫婦だもねー」
普通の女子高生の会話になりつつあるので、俺はゆっくり彼女たちの側を離れた。放課後に部室でギター弾きに興じて居続けられるほど、学院の教員は暇ではない。俺は教員室に戻るべく、部室を出た。
「あーくん!」
「バカケイト、先生って言え」
ケイトとナルヨシがやって来たところだった。
「えへへつい言っちゃった。気をつけるね」
「なんべんも確認したろ、学校では先生、理事長」
二卵性双生児ということで顔はあまり似ていないが、声がよく似ている。
「あぁ、部活見学か。うーん、今日はまだ部長が来てないからな」
「先生、マックブックは学校に持ってきていいんスカ?あくまで部活用として」
ナルヨシが珍しく饒舌だ。
「それも確認しとく。見学は明日以降にしよう」
「うっす」
「返事はハイ」
ケイトが明るく叱る。まったく仲のいいきょうだいだ。兄妹なのか姉弟なのかが判然としないが。
ふたりを帰し、俺は教員室で事務仕事をする。合間に、高梨管理部長に、生徒が部活で使用するために私物のノートパソコンを学校へ持ってきても良いかを伺う。
「学院は、生徒の携帯・スマートフォンの校内持ち込みは禁止していませんよね。授業中に使用したり着信したりした場合厳重注意、累積で自宅謹慎までありますけど。これと同じと考えてけっこう。実際、部活に私物パソコンを使用している例はあります。携帯スマホパソコンいずれであれ、校内での紛失故障などは全て自己責任、ということを認識させておいてください」
高梨管理部長はすらすらと答えた。礼を述べ席に戻ると、教員室へ入ってきた小川と目が合う。
「ウチのクラスの丹野という女生徒とホームルームのあとちょっと話したら、小説やマンガが大好きだって言ってました。部活やってないそうですから、アニメ同好会に誘ったらどうです」
俺と小川は同期だし、雪江とも気が合うようで良く自宅にも招くので普段はタメ口だが、俺も理事長よろしく校内ではガラッと変わった話し方をする。
「おぉそれはいいね石川さん。さっそく声をかけよう、昨年の三年生がけっこう人数多かったので、部員がだいぶ減少してしまったのだよ」
小川は酔わないかぎりこの話し方だ。
「あ、アニメ同好会では、私物のパソコンを持ち込んで来る部員はいますか?」
「ひとり、絵を描くのに使っているね。アニメ同好会は読むのも描くのも自由なのだよ。陵山祭のコスプレは義務だが」
「丹野はコスプレするかな」
「コスプレが嫌いな者などいないだろう常識で考えて」
実に小川らしい論理だが、好き嫌いの前に何かあるだろうそこは。
「パソコン、ナルヨシが部活で使いたいから持ってきていいかって聞かれて」
「おぉそれはいいね石川さん。だが軽音楽部を希望してるんだろう彼らは。なぜパソコンを使うのかね」
俺はコスプレから話をそらすために、ナルヨシの話題をふる。案の定、敏感に反応した。
「私もあまり得意ではないですけど、DTM、デスク・トップ・ミュージックってやつです。私のいたバンドのリーダーが少し使ってましたわ」
「おぉそうだそうだ、思い出したよ石川さん、DTM。ボーカロイドには必要不可欠だ」
「中学二年の時からやってるそうです。まだ聴いたことはありませんが」
「石川さん、ナルヨシがやるとき、私にも聴かせてもらえまいか」
「そんなあらたまらなくとも、軽音楽部の部室へ来ればいいだけでしょうに」
「良いのか、軽音の部室へ行っても」
小川は気持ちが高揚してくると、男言葉が強まる。そして、普段の無表情さは消え、うっすらと笑みを浮かべるのだ。
「いつでも顔を出していただいて結構ですよ。とはいえまだふたりは見学に来てませんけど。ホントはさっき来たんですが、部長の菖蒲がいなかったので、明日以降と。パソコン持ち込みの件も確認しておきたかったので」
「よしわかった、彼らの部活動見学の際は、担任として立会をさせていただこう」
小川は笑顔になって言った。小川が笑顔になるときというのは、学問とオタク双方の、自分の好きなジャンルの話をするときだ。普段ほとんど無表情な小川だが、笑顔はすごい。よく目が笑っていない、と言われる人がいるが、小川の場合、目だけが笑っているという感じだ。うまく説明できないが、要は軽く気持ち悪い。
「これからちょっと部に行って、部長の菖蒲と話して見学日をいつにするか決めます」
「それならば私も同行させていただこう。軽音楽部の部室棟は、ほとんど足を踏み入れたことがない。アニメ同好会の部室とは違う棟だし」
文化部の部室棟は旧校舎を使用していて、築五〇年程度の鉄筋コンクリートづくりだ。旧管理棟と、旧体育館に隣接していたという体育教官室の一階建ての二棟である。旧管理棟は元の部屋が理事長室や教員室などで大きく、中をパーティションで区切ってたくさんの団体が使用している。小川と東海林さんのアニメ同好会はこちらにある。軽音楽部は体育教官室の方で、学院の文化部では最も文化的と言われる演劇部がほぼ占有している。棟の半分は元用具室で、演劇部の倉庫として使われており、壁はしっかりしている。少々大きな音を出しても迷惑にはならないよう、軽音楽部はこの倉庫の一部に入居している。なお学院の文化部で最も体育会的といわれる吹奏楽部は、最新音響設備を備えた講堂の一角が部室である。
部室に近づくにつれ、楽器の音が聞こえてくる。ドラムの鈴木とベースの日塔は、テンポを合わせる練習をしているのだろう、決まったフレーズをずっとループしている。ギターの音がふたつ聴こえるので、練習生の木村が来ているようだ。部長の菖蒲がおそろしい速弾きをこなすのが聴こえる。
「みんなおつかれ」
俺は部室のドアを開けて室内へ入る。小川が続いてやってくると、部員たちはちょっと驚いて演奏を止めた。キーボードが聞こえなかったのだが、菅野は一休みして楽譜を眺めていたようだ。
「はいみなさん、連絡事項です。入部希望の新入生の部活動見学がありますので、ダラダラ練習しないように」
「もう希望者がいるんだー」
菅野が嬉しそうに笑う。
「さっそくだけど部長、明日でいいか?」
「大丈夫っすよー。今日はちょっとクラスの用事で遅れたけど、明日はちゃんと来ますよー」
「そうか、明日だな、認識した」
小川がうなずく。菖蒲が苦笑に似た表情で小川によろしくと言った。
菖蒲の音楽的好みはヘヴィメタルなのだが、普段のたたずまいや持ち物にはその片鱗も見られない。彼女の持ち物で唯一ヘヴィメタルらしい、ウォーロックというデザインのギターと彼女の和風な顔立ちの対比が面白い。
「自分はいないほうがいいっスカ」
霞城高校からの練習生、木村が申し訳なさそうに尋ねる。霞城高校は県内トップの進学校で歴史も古いためか、男子は詰め襟の学生服である。学院も男子は詰め襟の学生服なので、木村が校内にいてもまったく違和感がない。よく見れば校章とボタンが違うだけだ。
「気にしなくていいでしょ、ね先生」
「ほほう、彼が練習生の木村か。やはり男子もいたほうが良いのではないかな」
小川がうなずく。木村が珍しい昆虫を見る表情で小川を見た。
「部長に任せます」
昨年度の二学期から入部してきた菖蒲だが、特進クラスで補習が始まった沖津に代わって去年から部長の業務をこなしていた。いちおう形だけは部長代行は柏倉としていたが、柏倉に事務的な仕事ができるわけがない。音楽業界に就職が決った西川と大泉には、練習を最優先してもらいたいと、部活動の事務はすべて菖蒲が引き受けた。入部早々に部長に就任したようなものだったのだ。三年生になって名実ともに軽音楽部の責任者になっている。
「ここにいる時は私も軽音楽部の部員ですので、部長の下です」
「やめてよ先生」
菖蒲が明るく笑う。彼女の担任によれば、すべての科目でほぼ真ん中くらいの成績で、本当に普通な感じという。たしかに太っているわけでも痩せているわけでもなく、五十嵐などのように飛び抜けて美少女というわけでもない。しいてあげれば、一般の女生徒より髪が長いのが特徴か。昨年の入部以来髪を切った感じがしない。
偏りのないニュートラルな性格は、個性派揃いの軽音楽部をまとめるのにうってつけだろう。ケイトとナルヨシの扱いまでは未知数だが。
「じゃみんな、明日はかっこつけて練習しよう」
部長の声がけに、部員がハイと明るく応えた。


scene 107

その日の夕食後も俺は書斎で授業ノートを作る。勉強がすっかり生活パターンに組み込まれているのだ。中学の頃はそれなりに机に向かっていた記憶があるが、高校では受験勉強を形だけやっていた一時期以外はギターにを抱えていた。大学時代は、卒業をかけた四年生後期でもこんなに机には向かっていない。こんなに勉強をする俺は、本当に変わったのだなと思う。
ドアがノックされる。どーぞと声をかけると、ドアが開いて、雪江、ケイト、ナルヨシの順に顔を出す。
「お勉強中ごめんね」
雪江がすまないと思っていないことはじゅうじゅう承知だが。
「あーくん、ナルヨシの曲聴いてあげて」
ケイトが言う。
「アニキ、勉強中に悪い」
「かまね、入れよ」
だいぶ山形弁がうつったようだ。俺は笑って手招きをする。雪江が部屋の照明をつけて部屋に入る。ケイトとナルヨシが続いた。
ナルヨシが俺の机の上にノートパソコンを置き、カチャカチャやり始める。夕食時に、部活動に使用するノートパソコンは自己責任で持ち込み可、ということは伝えてある。ナルヨシはノートパソコンのディスプレイを俺の方に向けた。
「マックブックってかっこいいな」
「そこかい」
俺とナルヨシのやり取りに吹き出す雪江とケイト。俺もナルヨシも面白いことを言おうとしているわけではないのだが、学院で仕事用にあてがわれている重たいノートパソコンと比べると、マックブックはスタイリッシュこの上ない。
マックブックの内蔵スピーカーから、ちょっと金属的な音のドラム、かなり音数の多いベースラインが流れ、そこへけっこう分厚い音のリフが始まる。印象的なラインのリフだが、残念なことにまだループしているだけだ。
「作り始めってやつか、まだループしてるだけだな、でもメロはいいんじゃね、かっけーよ」
俺はアイになってナルヨシに答える。
「このアプリの使い方、もっとよく知れば、もう少しうまくできそうなんだ」
「そういうテクの前に基本だな」
俺はナルヨシに曲作りの基本の基本を教えてやる。俺だって曲作りがうまいわけではないが、基本というものはちゃんとおさえている。今のナルヨシは、投げるボールは速いが、野球のルールを半分も知らない高校生なのだ。
「あーぁ、アイになっちゃった」
「あーくんって、ホントはチャラい感じー」
「そういうこと言うと殴るよケイト。あれでいて根がマジメでカタブツなんだからね」
「ごめーん、でも、ごはんのときだってあんなじゃなかったしぃ」
「音楽の話になると、あのバンドの人に戻っちゃうのよ」
「お姉ちゃんが、こっちに引っ張ってきたんだよね」
「私だってホントはギター弾いてるあーくんが好き…って何言ってるんだ私」
俺はナルヨシへのレクチャーに夢中になりつつあることに気がつく。
「ととと、これ以上やってると、ぜったい朝になるから、また今度な」
「ちぇー、やっとわかってきたとこなんだよアニキ」
ナルヨシのアニキ呼ばわりに慣れた俺。ナルヨシも自然に口をついている。
「はい、アニキはまだお勉強があるから今日は終わり」
雪江がケイトとナルヨシを伴って部屋を出る。ドアを閉める際に俺を見てにっこり笑った。
その夜久々にしたが、雪江はアニキアニキと言って抱きついてくるのでいろいろ困った。

(「二〇一六年四月 陸へ続く」)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?