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二〇一四年九月

scene 13

ものすごい激動の夏がようやく過ぎ去ろうとしている。九月も半ば、俺は特別補習にゼミにバイト、そしてバンド練習の規則正しい生活になっていた。坊主にした頭は、髪の毛がやっとつかめるくらいまで伸びている。
「伸びかけのボウズ頭は、どうもいけねぇな」
ミギが江戸っ子の発音で俺の頭を茶化す。俺の最後のステージになるキモノマーケットまであと半月だ。
「停学になって一ヶ月たった高校生みたいだろ」
俺も調子をあわせておどけてみせる。
「俺も高校では停学一回自宅謹慎一回だったな」
リョータローが笑う。
「俺は、高校三年の今ごろ、そんな髪だった」
キタがぼつりとつぶやく。
「キタも停学?」
リョータローが信じられない、というような感じでキタに話しかける。
「いや、俺、野球部だったから。夏の県予選終わってから、やっと坊主から解放された」
ミギが驚く。
「おい、聞いたことないぞ、マジか」
キタは寡黙な男なので、聞かれたこと以外ほとんど口を開かないし、自分から話すのは音楽のことだけだ。
「どこ守ってたんだ」
俺も興味しんしんだ。
「ピッチャー」
「打順は」
リョータローもキタににじり寄って尋ねる。
「四番」
キタは、ちょっと失敗した、という表情で続ける。
「一応、県予選では準決勝まで行った」
「かっけー」
リョータローが叫ぶ。
「何で野球部入らなかったんだ?」
ミギがたたみかけるように尋ねる。
「ウチ、弱くないよな、野球部」
「もしかしてキタって、野球で入ったの?ここ」
俺も調子に乗ってまくしたてた。
「一応真面目に野球やってたから、推薦もらった」
「へぇー」
キタを除く俺たち三人が、心から感心したように言った。キタは顔を真っ赤にしている。ものすごく恥ずかしいらしい。
「ベースは野球やりながらずっとやってた。指がよく動くようになって、変化球がうまくなるんだ」
キタは最近五弦のベースを手にいれ、熱心に練習している。ベーシスト向きの、大きな手だった。よく考えたらキタは一九〇センチ近い身長だ。常に寡黙で控えめなので、大きさに気がつかないのかもしれない。
「そういえばキタは、いい体してるもんな」
ミギがキタの上腕から胸、背中に尻までなでまわす。キタがくすぐったそうに身をよじる。
「キタは、JETに入ってなかったら、大学出て実家帰るんだったろ?」
リョータローが聞く。
「そうだな、やる気があるんだったら、母校で野球部のコーチで入れてやるって言われたよ、校長と監督に」
「私立高か」
「うん、地元じゃ野球バカとただのバカしかいない学校だった」
めずらしくキタが冗談を言ったので、おれたちは笑っていいのかどうか少し迷った。
「笑うとこだから、ここ」
キタが普段通りの落ち着いた声で突っ込む。俺たちは大爆笑した。
ひとしきり笑いが収まると、ミギが話しだした。
「アイ、一応報告しておくよ。JETは、BBと契約することにした」
BBというのは、二十年位前のインディーズバンドブームのときにいくつかデビューしたバンドのひとつ、「カフェ・ペテルスブルグ」のリーダーが興した事務所だ。自分のバンドは二枚のアルバムを出しただけで解散し、以後は有望なバンドのマネージメントに徹している。若手有望株、といわれるバンドやソロアーティストを擁する、業界の風雲児と言われる塚本信也の事務所だ。
「やっぱ、塚本さんについていくことにしたよ」
「そうか、おめでとう」
俺は言葉を選ぶことが出来ずに、ようやく切り出した。ちょっと気まずい沈黙が流れた。ミギが場を取り繕うように話を進める。
「ところで、卒業後の進路は決まったのか」
「あぁ」
「山形で百姓やるのか」
リョータローが小馬鹿にしたように言う。
「いいな、憧れるよ」
キタがポツリとつぶやく。
「俺の家は普通のサラリーマン家庭だし」
ウチだってそうだ、とリョータローが笑う。
「いや、実はさ、俺はキタの当初の進路になっちゃって」
「どういうことだ?」
ミギが尋ね、ウーロン茶のペットボトルをくわえた。
「教師やることになった」
ミギがものすごい勢いでウーロン茶を吹き出す。
「教師?」
リョータローは座っていたドラムセットの椅子から転げ落ちる。
キタが絶句して左手からベースギターのネックを放した。
「いや、この夏休みに、すべてが一気に進行しちゃって」
俺はこれまでのことをかいつまんで三人に説明した。
「アイが、教師…」
ミギが本心からあきれたように言った。
「科目は」
キタが少しうらやましそうに俺を見る。
「社会…世界史かな」
「ガラじゃねぇな」
リョータローが茶化す。
「俺たちがブレイクしたら、マル秘エピソードにぴったりのネタだな、キタの高校球児ネタと」
ミギも珍しく軽口を叩く。だが、ミギの目は、俺におめでとうと言っていた。
「DRUNK ANGEL、いいじゃん」
ミギが世界史のノートに書きなぐった俺の曲を譜面に直した紙を差し出した。
「キモノまであと二週間しかねぇぞ、始めるか!」
JET BLACKがおう、と応えた。


scene 14

九月後半の俺は、それこそ寝る暇がなかった。東洋史と原始仏教論の授業は欠席を許されず、ノートを取ってファクスで佐藤先生に送り、添削を受ける。篠崎教授はいつの間にか雪江の母とすっかり親しくなったようで、俺の学業ぶりを細かに山形へ報告しているらしいのだ。さすがの俺も、超法規的措置で特別補習を受け、教育実習までねじ込んでもらった手前、双方に不義理は出来ない。いくらなんでもそこまでクズではないつもりだ。
結婚は許されたものの、相変わらず授業料以外の金銭的援助は無く、バイトも休めない。そして何よりもキモノ・マーケットのラストステージのために、バンドのリハーサルも徹底的にやった。
「体、大丈夫なの?」
ベッドの中、雪江が俺に問いかける。今年の春頃までは週四回はやっていたセックスも、夏以降は月に片手で足りる回数だった。
「体は大丈夫だけどね」
俺は雪江のほうに寝返りを打って答えた。
「ちょっと、今日もムリ」
「ばか」
雪江が笑う。
「しようって言うんじゃないよ」
「今が正念場だし」
「そうだね」
「ところで、オマエは、就職どうするんだ」
雪江が勉強しているところはよく見たが、就職活動をしているそぶりはない。
「専業主婦か」
ともすれば寝入ってしまいそうになりながら、俺は言葉を続けた。
「あぁ、言ってなかったね」
雪江が布団から這い出し、冷蔵庫を開ける。
「お父さんのところで働くことになってるんだ。まぁコネってヤツね」
雪江の父は市会議員だ。
「議員秘書か」
「違うよ。お父さんはたしかに市会議員だけど、本職は団体役員だから」
「団体役員って」
半分眠った。
「日本自由国民党山形県連常任総務」
目が覚めた。いくらバンドバカとはいえ、日本の政権与党の名前くらいは知っている。
「おま」
「実は結構偉かったりするんだ、お父さんって」
偉いなんてもんじゃないことは感覚でわかった。
「党の県連で事務職で採用、ってことで内定してるわ。あ、あーくんは教師になるんだから、選挙の手伝いとかはさせないから、大丈夫よ」
「そういう意味じゃなくて」
俺も布団から出て、雪江が飲んでいたオレンジジュースを奪って飲み干した。
「お前の家って、なんでこう際限なくエラい人ばっかなの?」
「でも、市会議員だよ、エラくないよ」
「エラいよ十分」
「あ、でも、来年県会議員になるって言ってたか」
「なるって決まってんのかよ」
「寒河江が地盤の今の県議のセンセが、もう年だから引退するらしいの、その引き継ぎ」
俺はそんなところに婿に行くのか。
「おじいちゃん、は、もう亡くなってたんだよな」
「うん、私が小学校上がる前かな。悲しかったー」
「おじいちゃんは、何してた人?」
「んーとね、軍人。家に軍服着た写真が飾ってあるし。陸軍少尉とか言ったかな。おばぁちゃんとはけっこう年が離れてたの」
めまいがしてきた。
「でも、私の中ではずっと学院の理事長だよ、おじいちゃん」
結婚披露宴はいったいどんな連中が集まるのか、不安になってきた。俺は半端に伸びた坊主頭をぼりぼりと掻き、また布団へ入った。


scene 15

俺の最後のステージがやってきた。
ミギが、どこからかヘアウィッグを持ってきて俺に渡した。今年の春頃の俺の髪型、肩にかかるくらいの金髪のやつだった。
「その頭じゃ、JETのステージにゃ上げらんねぇからな」
いつもの江戸っ子っぽい言い方でにやりと笑う。
そういえばミギの実家は東京の向島のほうだった。
俺はヘアウィッグを付け、決してずれないようにバンダナで締め込んだ。元々は、このバンダナで頭を覆い隠すつもりだったのだ。
そしてステージでの制服になっている黒いマオカラーのスーツを着込む。そして、雪江の次に愛している白いレスポールのネックを握り締めた。
客席からは、JET BLACKの各メンバーの名前を連呼する声が聞こえる。その声が自然にバンド名のコールに変わり、それが最高潮に達する頃、ミギが声を出す。
「行くぞ!」
JET BLACKがおう、と答えてステージに飛び出していく。JET BLACKコールが熱狂の悲鳴に変わる。三ヶ月ぶりのライブ、持ち歌のほとんどを続けざまにやりまくり、キモノ・マーケットは酸欠状態だった。JET BLACKの四人は、最大のテンションで一時間半ばかりのステージを駆け抜けた。
「今日来てくれたみんな、サイコーだった、ありがとう!」
リョータローがミギのMCにあわせてドラムロールをやる。俺も散発的にギターを唸らせた。
「今日は、みんなに、いいお知らせがある」
観客が絶叫する。
「JET BLACKは、来年、メジャーデビューします!」
ミギのMCのあと、リョータローが派手にドラムロールをかます。JET BLACKのファンは男女比が全く五分五分なので、男の低い歓声と女の甲高い嬌声が入り混じる。おめでとう、やったー、ミギ愛してるーなどの歓声と割れるような拍手がキモノ・マーケットに響いた。
「だけど、悪いお知らせもあるんだ」
えー、という声が響く。
「ギターのアイが、今日のステージを最後に、JET BLACKを脱退します」
キタが、低くベースを鳴らした。今度は悲鳴と怒号がキモノ・マーケットを包む。ミギが両手を広げて、観客の感情を抑えるしぐさをした。
ようやく静かになったステージで、ミギが俺のほうを見た。照明が俺に当たる。俺はマイクに近づき、口を開いた。
「ミギが今言ってくれたけど、俺、今日でJETを抜けます」
また悲鳴と怒号が巻き起こった。俺は静かに彼らをなだめる。頼むから、聴いてくれと。
「春ごろに、ミギからメジャーデビューの話を聞いてから、俺なりにいろいろ考えました。JETにはいろんな思い出もあるし、ミギやキタやリョータローはサイコーの仲間だし、みんなでがんばってメジャーに行きたかったんです、本当に」
女のファンは早くも号泣して、アイ、やめないでーと叫んでいる。
「でも、俺には、JETと同じくらい大事なものがあって、そっちをとることにしました。JETが嫌いになったわけじゃない、これだけ、わかってください」
スポットがミギに切り替わる。ミギはいつの間にか小豆色のギブソンSGをぶら下げている。
「みんな、俺もアイに抜けて欲しくないんだ、でも、アイは、JETより大事なものが出来たんだ、わかるよな、みんな!」
観客がミギに応えた。
「最後に、アイが作った曲、やります!今日来てくれたみんなは、運がいい!この曲は、俺たちが武道館でライブをやるまで、二度とステージではやらない!」
観客が絶叫した。
「この曲をステージでもう一回聴きたいなら、武道館へ来い!」
観客の興奮はもう一度絶頂にさしかかっている。
「オン・ヴォーカル、アイ!」
ミギが叫ぶ。
「オン・ギター、ミギ!"DRUNK ANGEL"!」
俺の叫びと同時にミギのギターが炸裂し、ステージ中のライトが点滅した。
ワントゥートゥィーホー!」
リョータローが気取った発音でスティックを鳴らしてカウントを取る。ミギが小豆色のギブソンSGを唸らせた。ミギのギターはノイジーで骨太な音を出す。これまでミギはステージではギターをいっさい弾かなかった。観客も、少し驚いているようだ。
俺はソロヴォーカルに自信はないが、雪江を想って精一杯歌いだす。

なにもかもうまくいかない
世の中すべてにツバを吐きたいとき
いつもお前が現れる
ブルースにやられた夜
ギターに背中を突き刺され
お前の歌が流れてくる

安酒と辛い煙草の煙のなか
お前が微笑む、酔いどれの天使
グラスに満たした酒を体にふりまき
あやしく微笑む、DRUNK ANGEL

お前の歌で満たされる心
薄暗い地下道でうずくまってたって
いつもお前の姿が観えてくる
ブルースはもうたくさんだけど
世界中がいっぺんに叫んだって
俺にはお前の声がわかるんだ

酒を満たした荒海に泥の船を出し
お前をさがす、酔いどれた天使
飲み干したボトルを優しく抱いて
また歌いだす、 DRUNK ANGEL

夜の帷を引き裂いて
月を砕き、星を押しのけ
やって来る、今夜もまた
ハレルヤ、ロックンロールの神に

歌いつづけ、踊りつづけ、飲みつづける
荒野に降り立つ、酔いどれた天使
その羽はまるで真っ赤なワインのように染まる
俺のすべて、DRUNK ANGEL

ステージでのミギと俺のギターの掛け合いは、最初で最後のものだった。ミギが言うとおり、今日の観客は本当に運がいい。この掛け合いは、もう二度と見ることが出来ないからだ。
曲が終わり、拍手が鳴り止んで、俺はもう一度マイクに近づき、別れをを告げた。
「みんな、ありがとう。JETをよろしく!」
言葉と共に、照明がカットオフされ、ステージは漆黒の闇に包まれる。俺はギターを抱えて退場した。
バックステージには、目を泣き腫らした雪江が待っていた。涙で言葉が出せず、ただ俺に抱きついてくる。
「アイ、サイコーだった」
ミギも少し目を赤くしている。
「雪江ちゃん、アイを頼んだよ」
ミギが雪江に語りかける。
「右田さん、はい、ありがとございまつ」
雪江が鼻水をすすりながら、やっと言った。
「アイ、帰って来たいって言っても、ゆるさねぇぞ」
リョータローが精一杯の強がりを言う。
「アイ、これ、みんなから」
キタがみんなに隠れるようにして祝儀袋を俺に押し付けた。ご丁寧に三人の連名だった。
「金額は見るな。本当は結婚式に行きたいんだけどさ、みんな」
キタは小さな声でそう言い、にやっと笑った。俺は汗だくになったヘアウィッグを脱ぎ捨て、それを両手で受け取った。
「ありがとう」
客席からはアンコールの声が聞こえる。
「アイ、出るか?」
「やめとく」
あれだけ感動的に締めたのに、シラけそうだったからだ。
「そうか。おい、コトブキ!」
ミギがバックステージの奥に声をかけた。
「うぃーっす」
長身の男がふらっと現れた。
「アイ、紹介しておく。お前の後釜の、コトブキだ」


scene 16

出てきた男は徹底的に目付きが悪く、俺よりも身長がだいぶ高い。白いマオカラーのスーツに、黒いギブソン・レスポールを抱えている。俺の定番は黒いマオカラーのスーツと白いレスポールだ。そして金髪のロングヘアだった俺に対して、黒髪の短髪ツンツン頭と何から何まで対照的に仕上げてある。俺への挑戦であることは明らかだ。
睨みつけるような目で俺を見る。
「はじめまして、遠藤寿っていいます。ヒサシが、コトブキってことで」
「よろしく。最初で最後だけど」
俺は精一杯虚勢を張ってコトブキと握手した。
「アイさん、最初で最後、一緒にやりましょうよ」
コトブキが強面のまま俺に語りかけた。
「今までのJETの曲はほとんどすべてマスターしましたから、最後に確認してくださいや」
コトブキの顔が、明確に俺を挑発している。
「…ミギ、予定変更。アンコールも出るぜ、大サービスだ」
俺は一度脱ぎ捨てた汗まみれのヘアウィッグをもう一度しっかり装着する。
「よっしゃ。前代未聞のstraight flashツインリードと行くか」
ミギがウーロン茶を飲み干して叫んだ。
「さて、お客様感謝デーだ、張り切っていくぞ」
リョータローがコトブキとハイタッチしてステージへ出て行く。そのあとにミギとキタが続いた。俺とコトブキ、雪江の三人がバックステージに残った。
「アイさん、いいんですね?」
コトブキがぼそっとつぶやく。
「俺が、JETのギターでデビューして、いいんですね?」
「何言ってんだ」
俺は雪江を見る。目を泣き腫らして、微笑んでいる。
「さっきステージでも言ったろう。JETより大事なものがあるんだ」
コトブキが微笑んだ。黙っていると凶悪だが、笑っても怖い顔だ。
「うらやましいな、俺、全然モテないから」
雪江のほうを見てから俺に再び手を出し、握手を求めてくる。俺はもう一度コトブキと握手を交わす。さっきよりも、お互い強く握りしめていた。
「一応、ウデ見せてもらうよ」
ステージでミギが叫んでいる。
「キモノ・マーケット!今日のお前たちはサイコーに運がいい!」
ミギは上半身裸でマイクにかじりつく。
「JETの新メンバーを紹介します!エンドウヒサシ、コトブキ!」
お先に、といってコトブキがステージへ出て行く。歓声ともブーイングともつかぬ声がライブハウスを包む。
「はじめまして、コトブキです。ミギとはガキの頃からつるんでました」
コトブキがミギの古い友達ということを知り、ファンのブーイングは収まり、歓声のほうが強くなった。
「みんな、よろしくな!」
ミギが叫ぶとステージは歓声に包まれる。JETのギタリスト交代を、ファンたちが認めた瞬間だった。
「アーイ!アーイ!アーイ!」
コトブキが腕を振り上げ、コールを始める。
「みんな、アイをもう一回呼び戻せ!」
ミギが煽る。ライブハウスはあっという間に俺を呼ぶ声で満たされた。
「行っておいでよ、アイ」
普段は俺をあーくんと呼ぶ雪江が、バンドネームで呼びかける。そういえば雪江が俺をアイと呼んだのは、出会った最初の日だけだったような気がする。徳永愛郎ではなく石川愛郎でもなく、JET BLACKのギタリスト、カタカナ二文字のアイとして本当の最後のステージが、俺を呼んでいた。
雪江に見送られて、俺は熱狂のるつぼに降り立った。俺へのコールが鳴り止まない。ミギがジェスチャーで観客を鎮めた。
「みんな、ホントにありがとう!コトブキのこと、JETのこと、頼む!」
俺はステージの上から、客席に向けて最敬礼した。泣き声にも似た歓声がもう一度高まり、また「アイ・コール」に変わって行った。
俺へのコールが続く中、コトブキがギターを爪弾き始めた。俺たちの代表曲、"Straight Flash"のイントロを転調させたフレーズだ。コールが鳴り止むタイミングとコトブキの爪弾くフレーズの切れ目を完全に捉え、俺は弦を弾いた。
「ストレート・フラッシュ!」
俺のきっかけでミギが叫び、そのきっかけでキタとリョータローがスタートする。一糸乱れぬJET BLACKのテーマソングだ。驚いたことにコトブキは完全にこのペースを把握している。まるでオリジナルメンバーのように。
「ガチでいきまっせ!」
コトブキが俺に背中を合わせ、耳に口を近づけて叫んだ。
「わかってる、間抜けな音出すなよ!」
俺も負けずにコトブキの耳に口を寄せる。お互いのギターのフレーズの先の先を読んで、二つのレスポールがからみ合う。通常よりもずっと長いイントロに、ミギが苦笑しながらMCを叩きつける。
「まったく今日のお前ら、ラッキーすぎるぞ!帰りの道に気をつけろ!JET BLACK最初で最後のツインリードだ!追加料金はサービスしとくぜぇ~!」

Straight To Hell,Straight To Hell
魂を賭けて悪魔とギャンブル
Straight To Hell,Straight To Hell
地獄につながる場末のカジノ
どのカードをひくのかもう決めなきゃ手遅れ
額にひとすじ冷や汗がつたう
焼けつくようなジンを一気に飲み干してCall!

Raise The Card,Raise The Cards
賭けるものなどもう何もない
Raise The Card,Raise The Cards
最後に残ったものは俺の魂
絶対に渡したくないもの、必ず守るもの
おまえのことなどもう何も思い出せない
今こそこの手に取り戻すのさ、俺の魂

Heaven Or Hell,Devil And Angel
おまえの顔がぼやけて見える
選んだカードは確かにここに
勝ちつづけるために、生きていくために
おいらの手はこれさ Straight Flash!


scene 17

観客も俺たち自身も、最高のステージを味わった。バックルームで一服つけているところに、俺たちのことをよく記事にしてくれる音楽サイトのライターがやってきた。
「みんな、お疲れでした」
福山というこのライターは、よく冷えたビールを雪江を含む全員に配った。ただし、酒を好まないミギだけには、スポーツドリンクを渡す。つきあいが長いので、よく知っている。
「いただきます、福山さん」
ビールを福山のほうに押しいただいて、全員がのどを鳴らす。ミギだけがスポーツドリンクのペットボトルを両手でもてあそんでいる。
「今日の件は、書いていいんだよな、ミギ」
福山がビールを口に運びながらミギに尋ねる。
「えぇ、派手に書いてください。JETメジャーデビュー、アイ脱退、コトブキ新加入」
ミギがようやくスポーツドリンクに口をつける。どうやら福山がビールを口にするまで控えていたらしい。ミギが大人たちに受けがいいのは、こういう細かいところに気がつくからだ。
「アイの脱退の理由は?」
福山が俺のほうを振り返ってにやりと笑う。俺の後ろでは雪江がビールのプルタブを引いている。
「メジャーデビュー直後に電撃入籍、のほうがインパクトあったのに」
福山が雪江のほうにビールを捧げて、また口をつける。雪江は福山と離れて乾杯するようにビールを捧げ、ようやく口をつけた。
「まかせますよ、福山さん。どのみち俺はもうJETから離れるし。もう、誰も気がつかないっすよ」
おれは頭に縛りつけていたヘアウィッグを引き剥がした。中途半端に伸びた坊主頭があらわになる。福山がそれを見て、静かに言った。
「おめでとう、アイ。がんばれよ。脱退のことは最後に一言だけ書くわ」
ミギがスポーツドリンクをくわえて俺に話しかけてきた。
「あと、アイ。後先ですまねぇがな」
「何だ?」
「今日のステージ、DVDで出すから。デビューアルバム前の挨拶状で」
「ほんとかよ、すげぇ」
リョータローが立ち上がって喜んだ。そういえば今回は、据え付けのカメラが二台と、ハンドカメラが一台いた。
「社長と話して決めた。悪いが、承諾してくれ。お前がクレジットされるのを拒んだら、どのカットも使えなくなる」
ミギは真剣にJETのブレイクのための計算を行っていた。
「俺がノーって言うとでも思ったのか?」
俺は笑ってミギに答えた。
「最高のお土産が貰えるな」
「ちゃんと買えよ。お前にも印税は入るぞ」
「わかったよ」
「だが、さっき言ったとおり、DRUNK ANGELは入れないぞ。俺のMCとイントロだけでカットして、残りは絵だけにしてエンディングロールにしてやる」
ミギはさっきのステージで、武道館でしかやらない、と行っていた。
「すげぇプレミア」
コトブキが話に割り込む。すっかりJETになじんでいる。たぶん、俺がいないときに一緒にセッションをしていたはずだ。でなければあの一体感は生まれようがない。俺は少し嫉妬心を感じていた。
「ファーストアルバムには入れる、俺が歌うけどな」
「ありがと」
俺は少しぶっきらぼうな言い方でミギに答えた。
「帰るわ、お先に」
バックルームの片隅で、俺は雪江が持ってきてくれたジャージに着替え、部屋を出る。
「アイ、今日で最後だな」
キモノ・マーケットの楽屋口までついてきたミギが小さく言った。
「雪江ちゃん、ホント頼んだよ、アイのこと」
「はい…右田さん」
「アイ…」
ミギが俺の正面に立ち、俺を見据える。俺はちょっと身構えた。次の瞬間、ミギは俺に抱きつき、いきなり唇を重ねてきた。俺は、何が何だかわからない。
ミギはようやく唇を離したが、俺に抱きついたまま離れず、ついに小さな声で泣きだした。
「アイ…アイ、寂しいよ、何で俺のそばからいなくなっちゃうんだよ」
ミギは俺より背が低い。百七十センチを切っている。ステージングが派手なので小さく見えないだけなのだ。
俺は、いつのまにかミギを抱きしめていた。
「俺が嫌いなのか、アイ、行かないでくれよ、俺と一緒にいようよ、アイ、一緒にいたいよ、アイ、アイ」
ミギの声は、普段の自信満々の彼とはまったく違っている。まるで幼児のようだった。
「ミギ、ごめんな。俺、もう、決めたんだ。俺もお前と一緒にいたかったけど」
俺の手は自然に、ミギの背中をさする。ミギの慟哭がおさまってきた。
「そうだよな、雪江ちゃんが大事だもんな」
ミギがようやく俺から体を離した。声の調子も、もとに戻っている。
「雪江ちゃん」
ミギが雪江に向き直る。
「アイを不幸にしたら、俺が許さないよ」
ミギの目が、本気だった。
「アイを不幸にしたら、俺は、どんな手を使っても雪江ちゃんに復讐する」
真面目な表情を崩さず、脅迫じみたことを言うミギに対し、雪江が石川家モードに入ったようだった。
「右田さん」
雪江がミギに手をさしだす。
「握手しよう」
雪江はやわらかな表情でミギに微笑みかける。
「同じ男を好きになったもの同士、握手しよう」
一瞬、ミギの表情が凶悪になったが、すぐに笑った。
「オッケー」
ミギと雪江が固く握手をし、そして抱き締めあった。このあと雪江はミギの頬にキスをしようとしたのだが、ミギはこれを明快に拒絶した。
手ぶらで、中途半端に伸びた坊主頭と銀縁めがねにジャージ姿の俺を、JETのアイだと気がつく者はなく、俺と雪江は無事にキモノ・マーケットをあとにした。ギターは明日リョータローが届けてくれるという。俺と雪江はぶらぶらと歩いていた。
「…右田さんって、ゲイだったんだ」
「確かに、ミギはまったく女っけがなかったな…」
ミギとは大学入学以来三年半の付き合いだが、女とつきあっている様子はまったくなかった。ちょっと小柄だが筋肉質で、顔は美形としか言いようがない。JETのファンは全体では男女比五分五分だが、ミギのファンは圧倒的に女性が多い。
そう言えばリョータローのことは後輩をかわいがる以上の感情も感じられたし、この間の練習の時だって、キタの体をなでているミギの姿は、ふざけっことはちょっと違って見えた。そして俺ときたら、雪江に会うまではほとんどミギと一緒だったし、俺が雪江の部屋に居ついてからも、ミギは何かと俺を自分の家に引きとめたものだ。
「右田さんなら、いいわよ」
「何が」
「またキスしても」
「勘弁してくれ」
あたりまえだが、男とキスをしたのは生まれて初めてだった。ついでに舌まで入ってきたのだ。
「いやがらなかったよね」
「…そうだな」
確かに驚きはしたが、拒否はしなかった俺。
「好きなんだよ、やっぱり、右田さんのことが」
「当たり前だよ。あいつが好きだから組んでたんだ」
俺を抱きしめた時のミギは、下半身を俺に擦り付けていた。その股間は、たしかに固く膨れ上がっていたのだが、俺は不思議と気にならなかった。
「右田さんなら、許す。私以外に大好きでも。右田さんと約束したもん。あーくんを好きになったもの同士、これからもずっと仲良くするんだ」
雪江が笑った。

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