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大條宗直(大條家第七世)【上】

大條家第七世 大條宗直

通称:尾張
治家:三十四年
生誕:不明
死没:慶長十五年(1610年)七月十日
諡名:清節院殿竹篭盛公居士
父母: 大條宗家(大條家第六世)、小梁川親宗の娘
兄弟: 女(伊達鉄斎夫人)、大條実頼(着座大條家第一世)
妻:新田景綱の娘
子供:大條宗綱(大條家第八世)

独眼竜の異名をもつ伊達家第十七世 伊達政宗と時代を共にしたことで、大條家の中でトップクラスの知名度でありながら、最も苦難に満ちた波乱の人生を歩んだ大條家第七世 大條宗直について記載いたします(前編)

大條宗直の生誕年は不明ですが、弟の大條実頼が弘治二年(1556年)生まれの為に、宗直は天文の末期に生まれたと思われます。
宗家が伊達家第十五世 伊達晴宗から改めて大枝の地を拝領(『晴宗公采地下賜録』)したのもこの頃でした。

天正四年(1576年)八月の相馬の陣において大條宗直の名前が初めて歴史に登場します。
(「輝宗公相馬御陣着例」(三春町史)に『大条殿五騎』と記載あり)
相馬の陣とは伊達家第十六世 伊達輝宗が宿敵である相馬家から伊具郡の奪還を目指して大動員をかけた戦です。
この時点では父の大條宗家がまだ存命で、大條宗直が正式に家督を継ぐ前でしたが、死去する四ヶ月前(天正四年十二月に逝去)の年老いた大條宗家がこの大戦に参戦している可能性は低く、嫡男の大條宗直が出陣していたと考えられます。この時、大條宗直は、桑折宗長、成田紀伊など共に十一番備に配備されました。
ちなみにこの「輝宗公相馬御陣着例」が記録に残っている大條姓の初出となります(これまでは「大枝」表記)
参考:『大枝から大條へ』

なお、八年後の天正十二年(1584年)の伊達郡『在郷衆日記』にも「大條」殿と記載されており、しっかりと大條姓が定着していることが見えます。

天正十二年 伊達郡『在郷衆日記』

天正十三年(1583年)に嫡男 宗綱(後の大條家第八世)が誕生し、天正十六年(1588年)六月、伊達政宗が大崎義隆と戦った際に、命を受けて高倉城を守り抜きました。
伊達家としてはこの大崎合戦に大敗しましたが、高倉城を守り抜いた労をねぎらう意味も込めてか、その五ヶ月後に、主君である伊達政宗から弟の大條実頼と共に茶会に招待された書状が残っております。

(341)大条尾張守宛書状
(仙台市史 資料編10より)

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       越前も同道
  可燃候、必々、以上
雖無珍敷事候、
今晩茶可進候、
入来尤二候、仍而
彼兄鷹二而、其後
被合候キヤ、万事
直面以、閑談所
希候、恐々謹言
   十一ノ十日 政宗(花押)
     太尾
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大條の「大」の字が「太」となっているので、素人の私は「大條宗直が太っているから、政宗が洒落で太の字を使ったのでは?」とも一瞬思ったりしましたが、天正十六年十一月に書かれた伊達政宗の他の書状を確認したところ、「大越紀伊」や「大倉蔵人」の名前も「太」表記となってましたので、これは大條宗直に限らずのようです。
いずれにせよ伊達政宗から信頼され、伊達家の分家として大切に扱われていたことがこの書状から読み取れます。

そして、大條宗直・実頼はこの誘いを受け、茶会に赴いたことが伊達天正日記に残されております。
(当日は錦織即休斎も相伴したようです)
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伊達天正日記 天正十六年十一月
ひつじ 十日。
天気よし。高清水より使めし出され候。
(中略)
夜ニ入、大枝殿ちやのゆにてまいり被申候。
御相番衆 即休斎、大枝越前守まいり被申候。
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この時、伊達政宗は4年前に家督相続したばかりの22歳で、弟の大條実頼は33歳でした。
伊達天正日記にはこの日のことだけでなく、大條兄弟に関する記述が多く見られます。兄の大條宗直は「大枝殿」と敬称をつけられ、政宗への御礼参上など儀礼的な場面で登場することが多く、弟の大條実頼は「大越」や「大条越前守」と親しみを込めた記載となっており、来客との酒席への相判や、囲碁や鉄砲、相撲の相手をするなど、政宗に近侍している様子が見られます。
※大條実頼のことは別記事で記載します。

ちなみにこの伊達天正日記では大條宗直のことを未だに「大枝」と記載されていますが、これは政宗の側近が記した日常の記録(日記)である為に、特に深い意味はないかと思われます。なお、弟の大條実頼は前述の通り「大条越前守」とも記載されている為に、正式な書面以外では、まだこの時代は「大枝」、「大條」が入り混じって使われていたのでしょう。

天正十七年(1589年)五月上旬、三春城の警備を命じられ、五月二十日は伊達政宗が相馬領新地、駒ヶ嶺へ出陣すると、それに従軍しました。
この年の六月に伊達政宗はかの有名な摺上原の戦いで蘆名義広を破りましたが、大條宗直はこの戦には参陣しておりません。緊張関係の続いていた相馬を警戒し、三春城に置かれておりました。
貞山公治家記録によれば天正十七年(1589年)七月七日に田村より帰参したとあります。

翌年の天正十八年(1590年)一月五日、伊達政宗への年首の賀礼に会津黒川城へ参上しております。
同年五月九日、伊達政宗は豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、遂に会津を出立し、小田原へ向かいました。
この時の二本松城主 伊達成実は会津黒川城に残って、留守居役を務めた為、大條宗直が二本松城に城代として入っております。

天正十八年 諸境警固 賦之日記
(藤山(二本松城)に大條尾張守殿と記載。
よく見るとこれも「太」っぽいですね)

なお、この大條宗直が二本松城に置かれた経緯を、なんとNHK大河ドラマ 独眼竜政宗で見ることができます。

NHK大河ドラマ 独眼竜政宗
第二十三回「小田原へ」
伊達政宗(渡辺謙さん)「二本松はどうする?」
伊達成実(三浦友和さん)「大内定綱を置きまする」
伊達政宗(渡辺謙さん)「定綱は不都合じゃ。石母田左衛門と大條尾張
伊達成実(三浦友和さん)「は?」
片倉小十郎(西郷輝彦さん)「殿は定綱に小田原への随行を命じられました」

世界の渡辺謙さんに「大條」の名を発して頂いて大変ありがたいですね。ただ、今後NHK大河ドラマで伊達政宗が主人公の作品が再度制作される際には、大條宗直、大條実頼がフル出演することを願っております。サンドウィッチマンの伊達みきおさんが演じたらかなり話題になると思いますので、是非ご検討頂きたいです。

実在の大條宗直はこれから、戦国時代の大きな渦に巻き込まれ、波乱の人生を歩み始めますが、詳しくは次回に記載いたします。

◼️参考資料
伊達宗行氏 「翠雨山房夜話(上)」 1988年
伊達忠敏氏 「大條流伊達家記録」1988年
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
福島県伊達郡梁川町「梁川町史」1994年
平重道 「伊達治家記録」1973年
人物往来社「戦国史料叢書 第2期 第11」1967年
仙台市史編さん委員会「仙台市史 資料編 10」2005年

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